第3話
体育祭の迫る木曜日、小テストの科目は国語だった。
前日の夜はもちろんあのシャンプーを使い、テスト勉強も徹底的に取り組んだ。正直そんなに難しくないのだけれど、回収時に自分の字が彼の目に触れると思うと、できるだけきれいな字を書きたかったから。
漢字といえば、弥春は矢中の名前も好きだ。そうた、という名前は割とよくあるけれど、「想」の字は思いやりのある彼の性格によく合っていると思う。また、矢中、という苗字の由来はおそらく、矢の中、ではない。「中」の字は的中・命中を表すこともあるため、矢が命中することに由来しているのではないか、と弥春は考えている。本人に確かめるすべもないし、こんな話をしたらひかれてしまいそうだから、この考察を知っているのは今のところ紗英だけである。
翌朝。開始の合図から数分後、弥春は早々に問題を終えて、目の前の真っ白いシャツをぼーっと眺めていた。シャーペンが机の隅に並べられていることから、彼もまたすでに回答を終えたと分かる。あと何度この背を見られるのか。熱心に後姿を拝んでいるのを見られるのが怖いので、興味のなさそうな顔を心掛けながら、週に一度の貴重な時間を過ごしていた。カーテンの向こうから、風が入ってくる。昨日のシャンプーは、役目を果たしているだろうか。
「やめ!」
担任の声で、最後まで粘っていた生徒たちが次々にペンを置き始めた。所々でため息や、うわ、間違った、などのうめき声が上がる。いつも通りの、でもあと何十回もない光景。
「じゃ、一番後ろの人、悪いんだけど、列の分集めてきて」
しかし弥春の後ろでは、何の動きもなかった。一抹の不安を抱きながらそうっと振り向くと、渡邊は爆睡していた。なら自分が、と彼の紙を回収しようとするが、あろうことか用紙は机と伏した体に挟まれていて取り出せそうにない。つついてみても起きないし、寝起きが悪かったらと思うと怖くて声もかけづらい。隣の列では回収が始まってしまった。
ふいに背後で、矢中が立ち上がる気配がした。
彼は弥春の横を抜けて、渡邊を軽くゆすった。うーん、と目を覚ますや否や、紙を抜き取り、弥春に左手を差し出す。
「俺行く」
反射的に用紙を渡し、今日はちゃんとありがとうを言う。その後も列の分を手早く集め、彼は他の列と大差なく担任に提出した。
救世主の後ろを離れるのが名残惜しく、弥春はのろのろと筆記用具をまとめて通常の座席へと戻る。友人と言葉を交わす矢中を眺めていると、毎日テストがあったら、という突拍子もない考えが浮かんだ。
「おーい、弥春ちゃん?」
「え、あ、ごめん、何?」
意識飛んでたみたいだけど大丈夫?とほのかに笑われてしまう。正直に言えることではないので、弥春も笑うしかなかった。
「この漢字の左側って何だった?」
「のぎへん書いた。いとへんと迷うよね」
「うわー、そっち?やっちゃった…」
入試本番書ければ大丈夫だよ、と慰める。
高校入試まで、あと半年。
あの人の後ろに確実に座れる最後の日まで、あと半年。
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