第34話 Lesson2


「前を見て足をもっと上げろ! 疲れても決してダラダラ走るな! 余計に疲れるだけだぞ!!」


「「「はい、教官殿っ!」」」


 厳しいトーンの声が子供たちに容赦なく浴びせられる。

 軍隊式の罵声まではいかないが、これまで時世からすれば穏やかに育てられてきた子供たちからすれば、十分に恐怖を覚えるものだった。

 いつ脱落してもおかしくない彼ら彼女らが、息を切らせながら懸命に足を動かして走る。その理由が皆の視線の先にあった。


「リーネ小隊長! おまえが率先して訓練生全体の状況を把握しろ! 遅れるヤツを放っておくな!」


 来年には孤児院を出て行くのでは――そう言われていたリーネが皆の先頭を必死で走り、横の青年から罵倒じみた叱責を受けている。誰が見ても辛そうで懸命に姿勢を崩さないように走っているのがわかるほどだ。

 突如として放り込まれた訓練は、子供たちからすればあまりにも過酷だった。

 どうしてこのような目に遭わされているのか、わからないくらいに。


 ある日突然やって来たジークと名乗る年若い教官は、町はずれの工場跡地を改築したり新たに小屋のようなものを建て、一定年齢以上の孤児たちをそこに集めた。

 当人たちからすれば困惑するしかないが、院長先生から「辛くても今は私を信じてください」と頭を下げられると、拒否することもできない。この人がいなければ今頃皆野垂れ死にしたか、あるいは日の当たらない世界にいた。

 先生の近くには、同じ年齢くらいのちょっと雰囲気が怖い“おじさん”たちが何人かいたが、自分たちに見せるのとは違う穏やかな表情を見せているので、悪い人ではないのだと思う。

 しかし、彼らも教官と共に訓練に参加して厳しい指導をしてくる。一番厳しいのはジーク教官だからまだ“おじさん”たちの方がマシだった。


 孤児たちは朝早くから半ば無理矢理に叩き起こされ、いきなり寝ぼけ眼で走らされる。

 泣いても止まっても終わらない。歩いてでもゴールするまでやらされる。最後の人間が辿り着くまで他の訓練生は待っていなければならない。それが集団というものらしい。かなり汗をかいているので水分だけは与えられるが、食事はお預けだ。


 午後などは時々吐いてしまう者も出たが、教官はお構いなしだった。むしろ平気で水をぶっかけてきてまた走らされる。


「反吐が喉に詰まると死ぬぞ」


 ――逃げ出してしまいたい。


 でも逃げ出す場所など、どこにもなかった。

 親はいない。戦争で死んでしまったか、ひとりでは子供を養えず手放した、あるいは他の――理由なら孤児の数だけ物語にして売ってしまいたいほどある。

 弱音を吐く相手もいない。訓練の仲間たちには言えなかった。みんな耐えている。

 孤児院に兄弟がいても自分の方が年長者だ。弟妹に情けない姿を見せたくない。その一心で皆走り続けた。


 こんなにも過酷な訓練を施すジーク教官を恨みたい気持ちもあるが、保護者たるハンネスが何も文句を言わない以上は皆黙って耐えるしかない。


「今は辛くても、将来きっと役に立ちます。だから耐えてほしい」


 院長先生はそれだけを告げ、訓練の最初から最後までずっと自分たちから目を離さずに見守っていた。足さえ不自由でなければ自分も、という思いが痛いほど伝わってくる。

 だから、子供たちは何かを求めることもしなかった。いや、すぐに見守ってくれさえいればいいと思えるようになった。


「おまえが最年長だろ、リーネ! もっと周りを見て気を遣え! 実戦なら知らない間に落伍者が出ているぞ! どうするんだ!」


「はいっ! すみません!」


 彼らが逃げ出さずとも諦めなかった理由のひとつ――いや、一番は常に先頭に立って走らされているリーネの姿があったからだ。

 辛さや疲労を必死で隠しながら、訓練小隊の世話を焼いているのがリーネだ。

 座学の苦手な孤児たちに、寝るまでの自由時間に勉強を教え始めたのもリーネだ。

 今ではできる人間が持ち回りで、成績の良くない者に教えている。

 座学を覚えなければ仕事がもらえないと聞かされたから、みんな必死で食らい付こうとしている。


 気が付けば自分たちは今まで以上――むしろ、


 苦楽を共にしてきたからこそ、誰よりも仲間が大事な存在となった。

 孤児院や訓練小隊に関わる以外の人間がリーネを、皆をバカにすることは絶対に許さない。たとえそれが町の人間であってもだ。

 誰もがそう思っている。

 季節が何度か移り変わった頃には、いつしか孤児というだけでは終わらない絆に皆が結ばれていた。

 こうした決意とは別で、孤児たちが脱落しなかった他の理由に「食事が今までよりもたくさん出た」のがあるのは否定できない要素だろう。


「悔しい……でも美味しい……」

「今まで食べてた麦の粥とは……身体への沁み方が違うよね……」

「懐柔されているみたいだけど抗えない……」

「おい、食い過ぎるとまた吐くぞ?」

「吐いてもいい……明日も食える保障なんてないんだから……」


 沢山食べてしっかりと寝る。

 訓練はとても辛いけれど、いったいどこにそれだけの知識があるのかと振舞われる献立豊かな食事が、彼らのやる気を実はしっかりと繋ぎ留めていた。

 脱落者が出なかった日などは、何も言わないがおかずが一品増えたりしていた。減らされることはないが、そのちょっとした変化が嬉しくて皆訓練にも自然と熱が入る。


「いいぞ! 走り続けろ! そのうち勝手に身体が楽になる!」


 教官がよくわからないことを言っている。はじめは遠い世界の言葉を聞いているようだった。

 ただ、言われるままに走り続けていると、次第に辛さがなくなって不思議と気持ちよくなってくる。そうなると走るのも楽だった。

 コツを身体が覚えるまではとても大変だったが、覚えてみればなんのことはないと思えるようになった。

 日が経つにつれて、皆が少しずつ辛さを感じず走れるようになってきた。

 ところがそうした変化がはっきり見えるようになると、教官は走る距離を増やし、木で組んだ壁を越えさせたり揺れる網を渡らせたりと、次々に新しい難問に挑戦させようとしてくる。


「おまえら辛いか!? ならいいことを教えてやる! これだけ我慢できるなら、死ぬまで我慢できるぞ!!」


 聞かなかったことにしたかった。


 昨日と一昨日は「趣向を変える」と湖に連れて行かれて、延々と泳がされた。

 泳げない者がほとんどだったが、各員から指導を受けるうちに全員泳げるようになった。

 今日にいたっては服を着たままでも泳げる方法を学んだ。そのまま飛び込めと言われたときには正気の沙汰じゃないと誰もが思った。ところが「水着や裸で水の中に入れる状況など限られている」と言われ、まさしくその通りだと考えを改めた。

 気付かぬうちに孤児たちは少しずつ毒されているのだった。無論、誰も自覚症状はない。


 教官たちは、自分たちを痛めつけるためになんでもやる異常者の集まりだった。芯から狂っていなければ、このようなことはできないはずだ。


「よし、小隊止まれ! 次の訓練は銃剣術だ! 広がれ! 俺の真似をして振るえ! ……何だそれは! 銃に振り回されているぞ! もっと身体に引き付けて、小さく速くまっ直ぐに打ち込め! そうだ!」


 慣れてくると今度は戦闘訓練に参加させられた。

 固くて重い木で作られた模擬ライフルを持たされ、戦闘訓練だけでなく走らされる。毎日毎日だ。


 食べて、走って、模擬銃を振って、食べて、模擬銃を振って、寝て、叩き起こされて、走って、食べて、模擬銃を振って――


 永遠にそれだけが続くかと思われた。

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