第31話 アンタッチャブル
「エッカルト、お待ちかねの情報が届いたぞ」
ノックも早々に部屋へ入って来たフリッツが、書類を机の上に放り投げた。
この時点でエッカルトは彼の態度を不審に思った。元戦友の間柄とは言っても、普段はもう少しトップである自分に対して配慮を見せていたはずだ。それがどうしたことか、今日は微塵も感じられない。
「フリッツ、なんだこれは? これが情報だとでも言うのか?」
ざっと眺めたエッカルトは葉巻を咥えたまま鼻で笑い飛ばした。
投げ渡されたのは、文章のほとんどが黒塗りにされてろくに読めもしない書類だった。巨漢は明かりにそれらをかざして解読を試みようとする。
「原紙の持ち出しはできないからな。最近実用化された最新の複写機でどうにか作らせた写しだ。そんなふうに透かしても塗られた箇所の文は見られない」
フリッツはいつもと同じく淡々と話しているように見えるが、やはりエッカルトは違和感を拭えない。自然と苛立ちがつのり、それが言葉の端々にも混ざる。
「ちっ。で、あらためて訊くがなんだ。こいつにはそんな人には見せられない恥ずかしい経歴があるってのか?」
「……何をもって恥ずかしいとするかだな」
普段は上司の短気さに合わせて端的な言い回しを好むフリッツが、珍しく
「悪いがフリッツ、もっとわかりやすく言ってくれ。知っているだろう? 俺は回りくどい言い方が好きじゃない。いや、むしろ嫌いだ」
エッカルトは自分がそこまで賢くないと理解はしているが、それを言葉に出してまで認めるほど素直ではなかった。彼にも組織の長としての矜持がある。
「なら、もっとわかりやすく言おう。この黒く塗り潰された部分が国家の恥部だとしたら、十中八九他の国にはバレたくない後ろ暗いことだ。人ひとりの経歴をほぼほぼ消し去らなければできないほどの機密って意味でもある」
神妙な表情で語るフリッツの額には、いつの間にか汗が滲んでいた。顔色も心なしか青白く見える。
「そもそも元魔導兵としか思えない退役陸軍大佐が、辺境の山にひとりで隠遁しているなんてどう考えてもまともじゃない。だから俺はどんな情報であれ素性を確かめたかった。――なのに、おまえは俺の忠告を無視してアホどもをけしかけて手を出した」
フリッツが向けてくる視線には明らかな非難の色があった。追及しなかっただけで、彼はエッカルトが独自に動いたことをすぐに掴んでいた。
元戦友から信用されなかったとショックを受けたわけではない。いや、下手をすればもっと悪い結果をもたらしたかもしれない。
「だからなんだってんだ。俺にはその権限がある。今度は腕の立つ部下を集めろ。すぐにでも探し出して生きたまま連れて来い。思い知らせた後で広場にでも吊るしてやる」
挑むように紫煙を吐き出してエッカルトはフリッツを睨みつける。今のところ彼の怒りと殺意はジークひとりへと向けられていた。
「エッカルト、まだわからないのか? 俺たちみたいな軍隊崩れ――いや、チンピラに毛の生えた連中からすれば敵に回すにはヤバ過ぎる案件だ。羊と狼の違いじゃない。羊の皮を被った魔獣かもしれないんだぞ」
どこまでも冷静な指摘を受け、エッカルトの頭部からわずかばかり血の気が引いていく。
それでも怒りが収まる気配は当分来そうにない。
「フリッツ、おまえまさか……」
「ああそうだ。エッカルト、悪いが俺はここで降りる」
フリッツの声に迷いなど一切なかった。それが巨漢の頭部に再度血液を送り込んでいく。
「この期に及んで裏切るって言うのか!」
エッカルトの怒声とともに、手にしていた葉巻が机に叩きつけられる。巨漢は強い怒りに震えていた。
「そうじゃない」
相棒からの怒りを受けても、フリッツは冷静さを保ったままだった。
「わかるだろう? “大戦”が終わって十年経った。ミッドランドは荒れ果てたが、全部がなくなっちまったわけじゃない。“
宥めるように言ったフリッツは、懐から取り出した紙巻煙草に火を付けた。
気持ちを落ち着かせるように深々と吸い込んで煙を吐き出すが、表情には苦渋の色が滲んでいた。方向性こそ決めているものの、これまでのエッカルトとの付き合いもある。損得勘定だけでは気持ちの面で割り切れないのだ。
「だったら失せろ。俺だけでもやってやる。終わってから戻って来る場所はないぞ」
エッカルトは引き留めずに突き放した。
「……じゃあ、もう言うことはない。あとはあんただけで頑張ってくれ。いや、まだ組織も残っていたか」
ひと息に告げたフリッツは一切振り返ることなく部屋を出て行った。
「くそったれめ……」
閉まるドアを眺めながら、エッカルトは呻くような声を絞り出した。
戦争が終わって軍に残れず、社会にもまともに復帰できなかった。
仕方なく何人かの仲間と地下に潜ってから、それなりの修羅場だってくぐり抜けてきた。死んだ仲間も少なからずいる。その上でフリッツがちょっとやそっとのことで逃げ出すような人間ではないことはわかっていた。
そんな相棒とでも呼ぶべき側近の表情には、紛れもない怯えが存在していた。
だから、銃を抜いて脅すことも、ましてや裏切り者と撃ち殺すこともできなかった。無論、感情に任せて戦友を撃てなかったのもある。
同時に、それらを差し引いても余りある衝撃がエッカルトを襲っていた。
「
誰もいなくなった部屋に響き渡ったのは、自分自身に言い聞かせるための声だけだった。
天板を焦がした葉巻の火はいつの間にか消えてしまっていた。
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