第22話 吐息
リーネを町まで送ってからジークは再び山に戻って来た。今日一日で色々とありすぎた。辺りはすっかり日が暮れようとしている。
こんな時間に無理矢理戻ってきたのも、 しばらく留守にする山小屋の掃除と、何よりも地下施設を厳重に封印する必要があったためだ。
「ふぅ……」
意識しないようにしていた疲労感も限界近くになり肉体のあちこちが悲鳴を上げていた。さすがにこればかりは老化によるものではないと思いたい。
西の方へ沈んでいく夕日とは反対側――夜の
数奇な運命なんて言われたが、自分にはまったくピンと来ない。それともすでにみえないところでその流れに乗せられているとでも言うのだろうか。
首を振ってジークは思考を振り払った。今は余計なことを考える時じゃない。
目の前に積まれた課題――とにもかくにもリーネたちのことが先だ。
「ただいま」
「戻ったかジーク」
山小屋の扉を開けると中からの暖気が頬を撫でる。返って来た声の方向に視線を向けるとアインがリビングのソファーに座っていた。
微妙に窮屈そうだったパンツスーツは脱いでいて、どこから引っ張り出してきたかジークの軍時代のシャツを着ている。
フェーズ・ツーの身体でもジークとの体格差はそれなりにあり、ブカブカで全然サイズも合っていない。まるで寝巻きのようだ。あるいは最初からそう使うつもりで持ってきたのか。
そんなことを考えていると、嗅ぎ慣れた香りが鼻腔をくすぐる。
「アイン、おまえもしかして飲んでるのか?」
彼女の目の前のテーブルには栓のあけられたワインのボトル。傍らには液体の注がれたグラスが燭台の明かりを受けて輝いていた。まさか香りだけを楽しんでいたなんてことはあるまい。
「相棒がせっせと山を上り下りしているというのに薄情なヤツだ」
しかもお気に入りのボトルをピンポイントで開けてきやがった。
ジークの眉根が不満の形に寄る。
「わたしを置いてひとりで行くからこうなるのじゃよ。それにせっかく人の身体に戻れたのじゃ、楽しんでおかなければ損というものではないか?」
不満げで、少し間延びした声が返ってきた。どうにも様子がおかしい。まるで酩酊しているようではないか。
人の身に封じられたとはいえ、アインほどの存在が毒物――アルコールに酔うはずなど普通は有り得ない。もしあるとすれば体内の解毒魔法を意図的に切っているかだ。
「俺が戻って来るまで待っていてくれても良かっただろうに……」
「ふふ、いつジークの気が変わってカラスの姿に戻されるかわかったものではないからのう」
すこし絡むような物言いだった。ジークの言葉が彼女の求めていたものではなかったのかもしれない。
「どうやら我が相棒殿は俺を信用していないようだな」
「これは異なことを申す。信用していないわけではない。むしろ信頼していると言っても構わぬ。だからこそ、ジークはわたしの力を危惧するのじゃろう?」
冗談めかして返したつもりだったが、アインが向けてくる瞳には明らかな不安の色があった。
――迂闊だったか。
ジークは内心で密かに後悔する。
ひとたび人間の身体を手に入れてしまえば、自由の利く肉体がどうしても手放せなくなる。以前に試した時はすぐ拘束術式をかけていたが、今回は戦いまで経験している上に留守を任せてひとりにしてしまっていた。さすがに今からでは説得するにしても何もかも遅過ぎる。
それに自分自身もそれを望んでいないとジークは自覚があった。
「ふふ、人の心とは斯様かように弱く、それでいて豊かなものなのじゃな。この世界の者が私を呼ぶ“邪神”でいた頃には存在すらしなかった感情が次から次に湧き上がってきおる」
ふたたびアインはグラスの中身を煽る。仄かに赤く濡れた唇が蠱惑的でジークは目が離せなくなる。
「一応訊いておくが、おまえ酔ってるんじゃないよな……?」
「さて、どうじゃろうな……」
アインは嫣然と微笑む。
「あらためて人間は罪深い生き物だと思い知らされるわ。カラスのままでいれば肩に掴まっているだけで満足できていたものが、今ではまるで満たされやせぬ。いや、敢えて考えないようにしていたのやも……」
グラスを置いたアインは立ち上がり、静かな歩みでジークの傍へと近付いて来る。
「アイン……。これがどういうことかわかって――」
「無論じゃ」
投げかけようとした言葉は唇にそっと触れた指先によって止められた。
「ジーク、気まぐれな我儘だと自分でも理解しておる。されど、せめて今宵だけでも構わぬ。わたしの心の寂しさを埋めてくれぬか……」
ジーク自身も意識しないようにしてきたのだろう。この世界には最低でも彼女が既知と呼べる人間はジークしか存在しないのだ。
ひとたび封印を解かれ、この世の
吐息の触れ合う距離まで近付いてきたアインに、もはやジークは抗えなかった。
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