第19話 古竜
ジークとアインは同時に真上を見上げる。
そこには遥か昔の神話から抜け出し、伝説の存在として語り継がれてきた漆黒の影――本物の巨竜が悠然と滞空していた。
「エ、
ジークは呆然とつぶやいた。
すでに本能は最大級の警鐘を鳴らしているが、今の状況でできることなど何もなかった。むしろ叶うことなら夢であってほしかった。
『我が領域で妙な魔力を感じて見に来てみれば。思い上がった人の子ではなく外なる世界の神が暴れているとは……』
宙に浮かぶ巨体から“声”が発せられる。
脳内へと染み込んでくる念話の響きは巌が喋っているようだった。
科学と魔法の両立により目覚ましいまでの発展を遂げた人類だが、それでも尚手に余る存在はいる。目の前に滞空している巨竜も、世界最強として君臨する個体のひとつだ。
すでに山の奥へと逃げ戻りつつある
「ちっ、もう来おったか……」
アインの漏らしたつぶやきをジークは聞き逃さなかった。
たしかに偵察仕様の
気付いていたからこそ、魔力のチャージ量が魔獣に向けるものにしては膨大なレベルとなっていたのだ。
『さて、重ねて問うぞ、異邦の神よ。ここらで終わりにするつもりはないか』
最後通牒を突きつけるわけでもなく、ただ淡々と語っているだけだ。
だが生物として格の差を見せつける威容が、見る者の恐怖心を胸中に湧き上がらせる。圧迫感からジークは呼吸が荒くなっていると気付いていた。
「冗談じゃないぞ……」
ようやく絞り出せた言葉はそれだけだった。
四対の蝙蝠に似た翼を広げ、全長四十メートルにも及ぼうかとする巨体は圧巻の一言に尽きた。
頭部には王冠にも似た棘の群れが並び巨大な角の山脈を左右に形成している。鏃を縦一列に並べたような長い尾が後方で左右に揺れていた。翼を一切はためかせていないことから魔力で重力を制御しているのだとひと目でわかる。
鎧のように身体を覆う鱗は黒曜石を思わせる漆黒。陽光を浴びて輝くのみならず、ただ存在しているだけで呼吸のように放射される魔力が大気に干渉しており、自らも光を発しているように見えた。
──生物としての格が違いすぎる……!
ジークたちを見下ろす黄金の瞳からは、幾星霜を経た存在でなければ有しない、余裕にも似た風格を漂わせていた。
こちらに視線は向けられているが敵意や殺気の類は感じられない。もしそうであるならとっくに肉体に影響が出ているはずだ。
「よく言ったものよ。棲処を荒らした慮外者に裁きを下しに来たのではないのか?」
『はは、そう身構えるものではない』
言葉とともに竜の鼻が鳴った。
ジークにはそれが嘲弄ではなく困惑の笑みに見えた。無論竜の表情の変化など彼にはわからない。ただそのように感じただけだ。
『我には貴様たちが魔獣と呼ぶ生物を庇護する責任などない。そもそも縄張りを侵されたとして一方的に戦いを挑んだヤツらに責がある』
黒竜は自らを「襲いかかって来た魔獣とは関係がない」と言い切った。
たしかに近年では、魔獣による生物災害はあっても目の前の黒竜のような“幻獣”が起こしたそれは確認されていない。
単純に活動状態にある個体がいなくなってしまったとも言われているが、たとえ一体であっても人類に牙を剥けばそれこそ“大戦”クラスの被害をもたらしかねないとされている。少なくともここで喧嘩を売っていい相手ではなかった。
「ならばなぜ邪魔をしに来た? ヤツらは獣の分際でわたしと相棒に害をなそうとした。ヤツらは時として己の縄張りを知らしめるために麓の村などを襲うではないか。躾がなっておらんものには相応の報いが必要じゃろうて」
――普通に相手を怒らせそうな言葉をよくもここまで躊躇なく並べられるな!?
膨大な量の汗が全身に噴き上がってくる中、ジークは必死で生存戦略を考える。
たしかにこの山奥で戦ったのは軽率だったかもしれない。その上で、まさかここまでの状況になるとは思ってもいなかったのも事実だ。
――いや、まだ可能性は残されている。
見たところ、黒竜は戦うために来たのではなさそうだった。交渉の余地はある。
もっとも、交渉事であればアインには任せられない。そこはきちんと信用していなかった。
『貴殿の言い分はよくわかった。しかし、本来この星に属さぬものが無闇矢鱈と荒ぶるのはいかがなものかと思い、介入させてもらった次第。そこはどのように考える?』
「たしかにわたしはこの星に生まれた存在ではない」
『ならば尚更のこと引いてはもらえぬか』
古代竜が力を振るえばどうなるかわかっていた。
人間がここ数百年でどうにか体系化した魔法など嘲笑うようにすべてを吹き飛ばす。
同時に彼らが重んじるのは秩序であり、この自然の風景が焦土と化すことを肯定してはいない。
「されど、こちらにも事情がある。わたしが今生きているのはこの星であり、此度の件も自ら暴れようとしてこうなったわけではない。ゆえに――」
「わかった、黒龍の
半分言葉を遮る形でジークは口を開いた。
「……ジーク?」
アインは信じられないと言わんばかりの表情を向けて来る。ジークからすれば「おまえの方が信じられない」と言ってやりたかった。
こんな自然豊かな山奥で、誰の得にもならない怪獣大決戦をやらかしたいのか。
「だが、俺たちもこの山に住んでいた身だ。近くに我々がいるようでは魔獣たちも落ち着かないのではないか?」
『道理ではある。そこは我が責任をもって見定めよう。この山から下らせぬこともそうだが、他の場所でも人の領域に無闇矢鱈と分け入らせぬようにする。無論、無期限とはいかぬが……』
「そうか。そこまで譲歩してもらえるなら、こちらも刺激しないようしばらく山を離れていよう。準備期間はもらうがな」
『こちらこそ過分な配慮痛み入る。ならばこれは我が方の借りとしよう』
ジークの内心に苦い思いが生まれる。
過分とはやけに人間臭い表現をしてくれる。力で押し通すなど造作もないだろうに。
「ふん、大きな貸しじゃぞ。貴様が星の支配者ヅラできるのもここでこちらが引くからだと忘れるでない。此度はジークに感謝するんじゃな」
『たとえ言葉だけでもあまり思い上がってくれるな、異邦の神よ。もしもふたたびこの地にまで破壊が及ぶのであれば、我は調停者として力を振るわねばならん』
伝わってくる響きから前半はアインに苛立ちつつも冗談の範疇で言っているのだとわかった。しかし、後半部は聞き逃せない。
たとえジークが約定を守ろうと、他の誰かがそれを壊せば終わりだ。そこまでは黒竜も責任は負わないだろう。あえて確認するまでもない。
「そんな事態にはさせない」
だからこそ、ジークは竜を真っすぐに見上げて言葉を放った。
「竜からすればさぞや人は愚かに見えるだろう。だが、転ぶたびに学んで少しずつマシになっていくと俺は信じている。その醜く儚い営みを途絶えさせないために俺は人の世に戻る。必要とあらば竜とすら戦う覚悟を持ってな」
他の誰でもない、自分自身に向けた言葉であり、ひとつの決意だった。
『なるほど。我おまえに啖呵を切って見せるとは、小さきものながら面白い。数奇な
竜に何が見えているのかはわからない。だが、問う必要もないと思った。行けばわかる話だ。
「ジークフリート・フォン・ライナルトだ。ジークと呼んでくれ」
『覚えておこう。ジーク』
「オイコラ、黒竜!
慌てて地面に降り立ったアインは、ジークの腕に飛びかかるように抱き着いてから器用に地団駄を踏む。まだまだカラスの癖が抜けていないのかもしれない。
竜からは笑いの波動が伝わってきた。苦笑に近いが……。
『我が名はザイルナーク。……そういえば人の子に名乗ったのは数百年ぶりだな』
答えた黒竜はそっと翼を大きく広げる。この会話も終わりということらしい。
「光栄、と思っていいのかな?」
『またいずれ。良き形でこの地で会えることを』
去り際に黒竜の残した言葉がしばらくの間ジークの頭から離れなかった。
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