逆行の樹影、ガラスのリノウ

増田朋美

逆光の樹影、ガラスのリノウ

その日は、間もなく台風が来ると言うことで、なんだか偉く雨が降っていた。そうなると、刺青師の蘭のもとには仕事は少なくなってしまうのだが、何故か、今日は、二時間突いてくれと、やってきた女性客がいた。腕に入れたリストカットのあとを消してくれということで、腕にガーベラを彫ってくれという依頼であったが、結構そのあとはヒドいもので、難易度の高い刺青になってしまい、すぐに完成というわけには行かなかかった。とりあえず、二時間かけて置いた、タイマーが音を立ててなったときは、まだ仕上げの段階には至っていなかった。

「はい、それでは、二時間たちましたので、また、仕上げをしますから、予約を取ってください。希望日をお伺いしましょう。いつがよろしいですか?」

と、蘭が言うと、

「はい、今日仕上げというわけには行きませんか?」

と、女性はそういうのである。

「いや、それはできませんね。手彫りは、彫る側にも結構体力いるんです。一人に付き、二時間までしか、突くことはできないんですよ。」

蘭がそう言うと、

「そうなんですか?でも私、痛みに耐えるとかそういうことは、平気ですよ。だから、仕上げをしてくれませんか?」

女性は、急かされた様に言った。

「今日は無理です。一週間先とか、その辺りにしてください。月一回でも結構です。」

「でも先生、半端彫りにはしないでとおっしゃいましたよね。もう、今日以外、突いてもらうことはできないかもしれない。なので、できれば、今日中に仕上げていただきたいんですけど。」

急に女性はそういうことをいい出した。

「今日以外突けないかもしれない。それはどういうことですか?なにかわけがあるんでしょうか?引っ越すとか、そういうことですか?」

蘭がそうきくと、

「はい。引っ越すというわけではないんですが、しばらく、姉の家に滞在しようと思っているんです。ちょっと、手伝ってあげないと行けないんじゃないかと思いまして。」

と、女性は言った。

「お姉さん、ですか?なにかお体でも悪くされたんでしょうか?」

蘭が聞くと、

「ええ、こんな事、先生に言うのもなんだか恥ずかしいんですが、最近どうも姉の様子がおかしいんですよ。だから、しばらく、姉の家に行って、しばらく姉のそばにいようと思うんです。」

と、彼女は言った。

「確か、ほっている間に、お話をしましたね。確か、統合失調症か何かのお姉さんがいて、高校を中退していらい、ずっと家にいらっしゃったけど、今年から、通信制の高校に通い始めたとか仰ってましたね。そのお姉さんが、どうかしたんでしょうか?」

蘭がまた聞くと、

「はい。くれぐれも、他言をしてほしくないんですが、高校に入る前は、落ち着いていたんですけど、通い始めてから、姉がまた変なことをいう様になったんです。はじめは、高校に入って、面接試験とか、そういうことの疲れが出たのかなと思ったんですが、最近になって、学校が怖いとか、言うようになりまして。他に、肉親は私しかいませんから、しばらく一緒にいたほうがいいと思ったんです。」

と、女性は言った。

「はあ、そうですか。わかりました。そういう事情があるんだったら、いつまでも待っていますから、また、彫りたくなったら、来てくれればいいですよ。それで、いいですから。そういうことであれば、仕方ありません。お姉さんのそばにいてあげてください。」

と、蘭は、優しく言った。と、同時に、女性のスマートフォンがなった。

「はい、綿貫です。はい、ええ。私は、妹の、綿貫妙子です。はい。ああ、たしかに姉の名前は、綿貫小夜子ですが、姉がどうしたんでしょうか。えっ!姉が学校で?、、、ああ、ああ、わかりました。すぐに行きますから、ええ。保健室ですね。わかりました。」

綿貫妙子さんは、急いで電話アプリを切った。

「あの先生、今日はもう帰ってもいいですか?あの、彫った代金は、後で現金書留でお送りしますから。先生、本当にすみません。」

「いえ、それはいいんですけど、お姉さんの小夜子さんが、どうしたんですか?」

と、蘭が急いで言うと、

「ええ、言いにくいことですが、姉が授業中に幻聴を起こして、暴れたそうなんです。」

と、妙子さんは、急いで帰り支度を始めた。

「幻聴を起こして暴れた?お姉さんはどうしているんですか?」

蘭が聞くと、

「ごめんなさい先生。姉を迎えに来てくれと言うものですから。今は保健室で休んでいるそうですが、学校の先生にえらい迷惑をかけてしまったようで、お話ができないそうです。」

妙子さんは、急いでリュックサックを背負った。

「わかりました。僕がタクシーを呼びますから、僕もお手伝いしていいですか?」

不意に蘭が、そういったので、妙子さんはびっくりする。

「放っておけないんですよ。僕も過去に、そういうことをした人を、相手にしたことがありましたので。一緒に、お姉さんを迎えに行きましょう。」

蘭は、すぐにスマートフォンを取り出して、民間救急をしてくれるタクシー会社に電話した。精神障害のある人を運んでもらうには、そういう企業にお願いするのが一番なのだ。

「あの、先生がお手伝いしてくださるって。」

妙子さんは、そう言っているが、

「いえ、大丈夫です。こういうときは、家族以外の人間が手伝ったほうが、ことがスムーズに運びます。僕のことは、単に、妹さんを担当していた刺青師と紹介すればいいんです。」

と、蘭は出かける支度を始めてしまった。数分後に、黄色い救急車と俗に言われている民間救急車が蘭の家の前に止まった。二人は、運転手の助けを借りて、それに乗り込み、妙子さんが、望月学園高校へと言うと、運転手は、わかりましたと言って、サイレンも鳴らさないで、走りだした。蘭が運転手に事情を説明すると、運転手はわかりましたとだけ言った。

望月学園高校は、通信制ということもあり、よくある高校という感じではなかった。大きな建物があって、広い運動場があるという感じの高校ではない。小さな、4階建てのビルであった。でも、具合の悪い生徒が多いのか、保健室という部屋は、ちゃんとあるのだった。妙子さんたちが走ってそこへ入ると、優しそうな顔をした老年の養護教諭の先生が、彼女を出迎えた。

「こちらの車椅子の方は?」

と、養護教諭の先生が聞くと、

「ええ、僕は、妙子さんを担当しています、刺青師の伊能蘭です。それで、綿貫小夜子さんはどうなのでしょうか?」

蘭は答えた。

「落ち着いてはいるんですが、なんだか自分のしていることを、ひどく悔いているようで、ずっと、泣いているんです。こういう障害のある人は、仕方ないかもしれないですが。」

養護の先生は、妙子さんに言った。

「お姉ちゃん、迎えに来たわよ。一体、どうしたの?授業中に大暴れするなんて、何かあったの?」

妙子さんがなだめるようにそうきくが、椅子に座ったままの小夜子さんは答えない。ちゃんと、スーツ姿で、学校に行くという感じの服装なので、不良生という感じではなかった。だからちゃんと勉強したいという気持ちで来ているんだと思うのだが。

「お姉ちゃん、なにか言ってよ。話してくれなきゃ、何もわからないじゃないの。」

妙子さんが、ちょっと苛立ったような感じでそう言うと、蘭がその間に入って、

「はじめまして、妙子さんに施術をしました、刺青師の伊能蘭と申します。失礼ですけど、妙子さんも僕も、あなたが、なぜ授業中に大暴れをしたのか、理由を知りたいのです。何も悪いことはしませんから、理由を話していただけませんか?」

と優しく、小夜子さんに言った。小夜子さんは、焦点の定まらない目で、蘭をじっと見つめ、

「はい。怖かったんです。」

「怖かった?」

妙子さんが、小夜子さんの言葉に苛立った様子で言った。蘭が、それを止めて、

「怖かった理由を話してくれませんか?僕達は何もしません。あなたをどこかへ連れて行くとか、そういうこともしません。ただ、理由を知りたいだけなんです。」

と言うと、

「学校のトイレの床の模様です。」

小夜子さんは答えた。

「学校のトイレの床?そんなものがなんで怖いのよ!」

妙子さんが呆れた顔でそう言うと、養護の先生が、こういう病気の人は、普通の人が気にしないようなことを、気にしてしまうことだってあるんですよ、と妙子さんに説明する。

「具体的に言ってみてください。なぜ、床の模様が怖かったんでしょうか?なにか、別のものに見えたんですか?」

蘭がそうきくと、

「はい。学校のトイレの床の模様が、人間の目の様に見えて、まるで百目足が出たのではないかと思われるほど、怖かったんです。」

と、小夜子さんは、そういった。

「そうなんですか。理由がわかりました。綿貫さん、もし可能であれば、学校の先生に、そのことをちゃんとお話してみてください。そうすれば、あなたは学校に通えるようになりますね。」

蘭が優しくそう言うと、

「でも、もう学校に来るなと言われてしまいました。先生は、私の事を厄介者扱いしているんです。それは、先生の態度を見ればすぐわかります。だからもう私は、退学です。」

と、小夜子さんは泣くのだった。この事の真偽は、ちゃんと確かめる必要があった。もしかしたら、小夜子さんが、そういうふうに言っているだけなのかもしれない。

「小夜子さん、大丈夫ですから、とにかく落ち着いてください。」

と、養護の先生がそういうのであるが、小夜子さんは泣いてばかりだった。

「少し、落ち着くために、学校から出たほうが良さそうですね。」

と蘭は養護の先生に言った。

「今、民間救急車を依頼していますから、それに乗って、彼女を、医療機関に届けましょう。」

「医療機関!私が行く場所は、そこしか無いのね!」

小夜子さんはまた高い声で言った。妙子さんが、お姉ちゃんと少しきつく言うと、

「大丈夫です。医療機関には、行きません。逆を言えば、あなたの仲間がたくさんいるところです。騙して病院に連れて行くとか、そういうことはしませんから、安心してください。」

蘭は優しく言った。養護の先生も、そうですかと言って、どこに連れて行くかわかってくれたようだ。

「私、学校に事件の詳細を聞いてきます。先生は、」

と、妙子さんが言うと蘭は同じ様に学校へ残るといった。それなら、私が、彼女を、連れていきますと養護の先生が言った。

「大丈夫です。何も怖い場所ではありませんし、むしろ、安心することができると思います。」

と蘭は、できるだけにこやかに笑ってそう言った。小夜子さんは、養護の先生と一緒に、保健室を出て、蘭が用意した民間救急車に乗り込んだ。蘭と、妙子さんは、学校に謝罪をするため、校長室に向かった。

民間救急車はサイレンも鳴らさずに走り出した。普通に道路を走っていく。一般の救急車ではないので、信号機でちゃんと止まるし、逆走もしないのであった。それに、窓の外から景色が見えるようになっていた。

「あの、先生、いつも走っている、病院に行くための道じゃありませんね。」

と、小夜子さんがそう言うと、運転手が、

「はい。病院には行きませんから安心してください。」

と、運転手が言った。そして、富士山エコトピアのある方へ走っていく。しかしエコトピアにも行かずに、その近くにあった、和風の建物の前で車は止まった。運転手に促されて、小夜子さんは、入り口に降りた。すると、玄関の引き戸がガラッと開いて、

「いやあ、新人会員さんだね。蘭から、電話で話は聞いたよ。まあ、大変な目にあったなあ。とりあえず、中入ってゆっくり休めや。」

と、杉ちゃんが彼女を出迎えた。養護の先生にも促されて、小夜子さんは、製鉄所の建物内に入る。製鉄所の中に入って見ると、聞こえてきたのはピアノの音だった。それを聞いて小夜子さんは、

「このソナタ、私が、学生時代に弾いていた曲です。」

と、涙をこぼしていった。

「へえ、珍しいねえ。グリーグのソナタを弾いたなんて、なかなかいないよ。まあうるさかったら、辞めさせるから、すぐに言ってね。」

杉ちゃんがすぐそう言うが、

「いえ、なんだかすごく懐かしいんです。もう一回弾いてみたい。」

という彼女。杉ちゃんは、そうか、じゃあここへ来てくれと言って、彼女を、四畳半に連れて行った。もちろん、グリーグのピアノ・ソナタを弾いていたのは水穂さんであった。小夜子さんは、水穂さんの顔を見て、

「わあ、きれいな人。ショパンの生き写しみたい。」

という。水穂さんは、ピアノを弾いている手を止めて、弾いてみますか?と言った。小夜子さんは、ハイと言って、水穂さんの代わりに、ピアノの前に座った。そして、グリーグのピアノ・ソナタを弾き始める。確かに、水穂さんのような正確なピアニズムではないが、でも、ちゃんと、曲になっているし、強弱もついている。

「なかなかうまいですね。かなり弾ける方のようですね。」

水穂さんが、彼女の演奏を聞きながら、そういうことを言うほど、小夜子さんの演奏はうまかった。第1楽章が終了すると、水穂さんも杉ちゃんも、拍手をした。

「いやあ、いい演奏だった。ぜひ、第2楽章も聞かせてよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「いいえそれが、第1楽章しか弾いたことが無いんです。第1楽章をやってすぐに、ピアノを辞めてしまったので。理由は、高校に入ったからなんですけど、今思えば、あのときピアノを辞めなければよかった。なんで、やめちゃったんだろう。辞めなかったら、私の人生、違うものになっていたかもしれない。なんで、あんなボロボロの学校にいって、病気にまでなって、こんな、人生しか得られなかったんでしょうか。私は、本当にだめな人間です。」

と、小夜子さんは言った。

「いいえ、人生なんてそういうものですよ。誰でも、しなければなかったとか、行かなければよかったとか、そういう気持ちになることは、何度もあります。僕も、そうでした。本当に成功する人はごく一部です。大概の人は、落ちぶれて、だめになることがほとんどです。僕みたいに、芸人のような身分しかなれなかった人間もいるんです。それでいいじゃないですか。もし、あなたが、成功していたら、今のような出会いも、なかったかもしれませんよ。」

水穂さんが、小夜子さんに言った。小夜子さんが部屋の周りを見渡すと、本箱にたくさんの楽譜があるのがわかった。その背表紙には、様々な作曲家の名前が確認できるが、その中には、「ゴドフスキー」と書かれているものが見られた。

「すごい、世界で一番むずかしいと呼ばれている作曲家ですね。」

小夜子さんはそういうのだが、同時に、目の前にいる人物は、げっそりと痩せていて、大変華奢な雰囲気があることを確認した。ゴドフスキーなんて、ジャイアント馬場くらいの体格の人ではないと、弾くことができないということも聞いたことがある。それを、無理やり弾くなんて、この人は随分無茶をしてきたんだなと小夜子さんは思った。

「誰でも、できなかったことはあるものだ。そんな事、善悪つけないで放置しておくのが一番いいんだよ。ていうか、できることなんて、それくらいしか無いさ。だから、お前さんも、目の前にあることをどうするかだけ思っておけばそれでいいんだ。お前さん、学校に行っているんだろ?それは、お前さんだけしか獲得できない財産だと思うぞ。だからさ、細かいことなんて気にしないで、頑張って勉強しな。それでいいじゃないか。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

一方その頃、渋い顔をしている校長先生を前に、蘭と、妙子さんは、交渉に難渋していた。実は、小夜子さんが、授業中に暴れだしたのは、これが初めてではなかったらしい。こんな度々事件を起こされては、退学してほしいと、校長先生は言うのだが、妙子さんは、姉をどうしても、学校に入れてほしいと頼んだ。

「お願いです。姉には、迷惑をかけないように、言い聞かせますから、学校にいさせてあげてください。」

妙子さんがそう頭を下げると、

「僕からもお願いします。できれば、学校のお手洗いの床を塗り直してあげてください。」

と、蘭も頭を下げた。

「そうですけどねえ。学校は一人の生徒さんのためにあるわけじゃないですよ。それよりも、多くの生徒が、学ぶ場所だということを、お姉さんには自覚してもらいたいものですな。いくら、病気を持っているから仕方ないと言っても、他の生徒に迷惑を掛けるというのは、困るんですよ。言い聞かせるだけでは、行けないこともありますよね。」

校長先生は、いかにも教育者がいいそうなセリフを言った。

「そうでしょうか?」

と蘭は、校長先生につんのめった。

「確かに、大勢の生徒さんが来る場所ですから、一人ひとりが迷惑をかけないようにしなければならないことは、あるとは思いますが、でも、ここはそういうことを言われ続けて、学べなくなった人を、受け入れている学校でもあるのではないでしょうか?その中には、ときに失敗する生徒さんだっているはずです。それに、どう対処していくのかを全く教えていないのが、日本の教育です。失敗をすれば、すぐにゴミのように捨てて、二度と帰ってこさせないのではなく、もう一度、やり直す方法を伝えていくことも必要だと思います。このままですと、小夜子さんは、どんどん傷ついて、更に病んでしまうことになると思います。結局の所、彼女も、この社会で生きていかなければならない。そのときに、社会に対して怒りを持っていたら、生きていくことはできなくなります。だから、彼女に、社会のことを伝えていく場が必要なんです。それを担うのは、教育機関しか無いんですよ。お願いします。彼女を、もう一度、教育させてあげてやってくれますか!」

「そう、そうですねえ。確かに、そういうことでもあるんですけどね。しかし、」

「しかし!」

校長先生が言うと、蘭はすぐに反論した。すると、妙子さんが、床に手をついて、

「お願いします!姉の居場所は、今は、学校しか無いんです!」

と、懇願した。それができない蘭も、

「お願いします!彼女を学校にいさせてやってください!」

頭を下げて懇願した。校長先生は、二人を困った顔で見た。

一方、製鉄所では、小夜子さんが、水穂さんに貸してもらった、ゴドフスキーのコウモリ序曲による交響的受容を悪戦苦闘して弾いているところだった。大変な難曲で、女性が弾くのは、無理だと言われている作品であるが、小夜子さんは、なんとか弾いてみたいと一生懸命やっていた。そういうところがもっと高く評価されてもいいのにな、と、杉ちゃんも水穂さんも思った。

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逆行の樹影、ガラスのリノウ 増田朋美 @masubuchi4996

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