第5話

 腕の中で目覚めた。

 小さな子供を抱いている印象だった。

 チアノーゼを発症した身体をじっくりと温めなくてはならない。

 溺れることを防ぐには支えが必要だ。

 意識が戻って、びくんとその身体が脈打った。おれは素裸のままシドを抱きしめて、バスタブの中にいた。胎児のようにシドを丸く座らせ、その身体を後ろから温めていた。バスタブの湯で、おれの脇腹の傷の出血は止まっていた。

「大丈夫だ、胎児は無事だ」と同じ言葉を口にした。

 シドは下は履いていたが、胸は露わになっていた。それでもおれは扇情的な気分にはなれなかった。

「貴方なの?」

「ああ、おれは州兵で看護兵を務めていた。応急処置しかできないが」

 彼女は安堵の深いため息をついた。

「一体、何があった。何があって警戒していた」

「てっきりボスに言われて、堕胎でも強制するのかと思ってたの」

「おれはただドラムのサポートをオーダーされただけだ。その他には何もするつもりはない」

「・・ごめんなさいね、色々と疑っていて」

 あの距離のある態度や思わせ振りな言動の意味が、すとんと胸に落ちた。彼女が覚醒したので、おれは距離を取ろうと後ろに下がったが、かえって背中から体重を預けてきた。

「片親だったのね、私。生まれはニュージャージーよ。父が酒乱なので逃げ出して、17のときにこちらに来たのよ、貴方は?」

「ずっとLAだ。しかも州兵のキャンプ以外にはスキッドロウから出られない。このホテル暮らしは夢のようだ」

 初めてシドが笑ったのが、その背から伝わった。それから声を潜めて、諦念を込めて言った。

「いいえ。悪夢なのかもね。目を付けられたのよ、連中に」

「カンサーなのか?」

「あのアイルの豚野郎は、ただの掃除屋よ。ゴミ箱から使えそうな玩具を拾うのがお仕事よ」

 残念ながら、おれもその玩具のひとつらしい。

「おれは事情をまるで知らない。その児の父親は誰だ」

「・・・わからない。私は薬を打たれていたから。多分、3人か・・4人のうちのどいつか」

 首を捻じ曲げて、ぎらりと瞳を光らせた。先刻の凶気めいたものがそこに宿っていた。

「最初はトレイにパンケーキを置いて働き出したわ。チップを弾む客について行くと、脱げばまだ売りものがあることを知ったわ。それからカンサーに行き着くまでにどれだけ無茶をしてきたか」

 口中に鉄の苦い味が蘇った。懺悔と悔恨にはいつもこれを味わうことになる。

「輪姦されたのよ、私は。黒人だったってことしか、覚えていない」

 この肌のことをniggerと差別用語を用いたあと、それに気づき申し訳そうに睫毛が3度動いた。

「そいつらはどうなった。カンサーが黙っちゃいないだろう」

「・・・どうかしらね。あの連中がサンペドロ湾に沈んでいるか、バーで今でも玉突きしているかで、誰が笛を吹いているかがわかるわね。でも私にはどうでもいいことなのよ。話したでしょう。玩具がどう扱われるか」

「・・・それでも産むのか?」 

「若いときにね、散々、堕胎もしてきた。もう産めないと思ってた矢先なのよ」

「きみはノーマルなのか?」

 ちらりとブロンドの裸体が脳裏に見えた。

「性別なら牝で、性癖なら相手しだいよ。ねえ、貴方はどうなの」

「おれはな」と言葉にしかけたが、耳うちして告解した。

「ごめんなさい」

「いや、きみは悪くないさ」と濡れて束になった髪を撫でた。

 もう一度言うと、またこちらを向いてキスしてきた。

 一瞬の、友だちへのキスだった。


 朝食は二人で摂った。

 昨夜のことで距離が近くなったようだ。

 シドは縞模様のサマーセーターをざっくりと被り、辛子色のボトムスを履いていた。

 フルーツにオムレット、バゲットも焼き立てが銀食器のカーゴに収められて、ボーイが運んでくる。食事中も取り立てて会話はなかった。

 ウッドデッキに出ると、箱庭のような池があった。

 どの別荘棟もその池に面してはいるが、段違いの建物配置や植栽でお互いの目線が重ならないように考慮してあった。

 隣りにシドも並んだ。

 彼女は久しぶりにスティックを手にして、水面をなぶる風に赤毛を揺らせていた。視線が合うと照れくさそうに一歩踏み出して、ウッドデッキの柵の前に立った。鋳造された黒い支柱に、オーク材の手すりが渡してあった。

「昔ね。これが私のドラムだったの」

 支柱から細いリズムが始まる。ライドシンバルの音色がする。

「おれもだ。奇遇だな」

 手すりを叩きだし、タムの旋律を生み出す。おれも柵の前に歩む。ピンと掌を水平に構えて、手すりを打ち鳴らす。パーカッションの音域だ。彼女は直ぐに対応してくる。限られた音源でも、それが原点でもある。

 かつてバルコニーに立つ黒人少年がいた。娼婦と薬の売人が往来する小便臭い路地を眺めながら、ひたすらに叩いていた。その同じ光景を見ていた白人少女もいたらしい。大陸の東部と西海岸で相対して打っていたのかもしれない。

「初めてね、セッションしたの」と語りかけてきたのに、掌で応える。

「今日からはスタジオに入るわ」

そのとき昨夜奪った、セルフォンのコールが鳴った。初めて使うので、戸惑いながらフラップを開いた。


 昨晩はノックもなかった。

 強いて言えば、金切り声がそうであったかもしれない。

 やむを得まい。タイル床にはおれのもらい傷からの血痕が残っていたからだ。

シドを残したまま、おれは再び泡を撒き散らして、バスタブから飛び出した。そしてヘザーの前に立ち、頬を打った。身構えながら、後退るヘザーからハンドバックを奪った。

「一体、何するのよ!何があるというの」

おれはそのバッグから、黒く重たい塊を取り出して彼女の顔に突きつけた。拳銃などといった不粋なものではなかった。

「分不相応なものを持っているな」

言いながら彼女の爪をかわして、反対の左頬も打った。

 セルフォンのフラップを開いた。葉巻の匂いが染みついていた。こんな通話料のかかる代物をダンサー風情で持てるものではない。ダウンタウンでは、口笛ひとつで集まってくるからだ。

「カンサーへのアポイントを取れ」

怨嗟と狼狽に踊る瞳を、見下ろして言った。

「本当は、お前がカンサーの眼なんだろ」 

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