第4話
異変は数日後に起こった。
シドのペースが乱れていた。
スタジオにも出ずにヴィラに篭っていた。それにもジェフリーは、「何いつものことだ」と平然と流していた。
ジェフのアレンジは的確でいいグルーヴを産んでいるが、気に障るのはこの音はおれの音色であって、シドではない。彼女のドラミングを想定して、それに模倣しているのは、不可視の型に嵌め込まれたように息苦しい。
部屋に運ばれた朝食もそのままだった。
フルーツを少々は食べた様子だ。流石に心配になった。
ノックをして、彼女を呼んだ。もの憂げな返事がしたが、よく聞き取れなかった。構わずに部屋を開けた。カーテンの引かれた薄暗がりに、ベッドシーツに包まっていたのはひとりではなかった。
あの女が傍にいて、まだ焦点の定まらないシドを抱きしめていた。
「今日も居たのか」
「そうよ、悪い?」
女は素裸のままベッドを下りて、バッグを取った。
「今日はダンスのレッスンなのよ。起こしてくれて、助かったわ」
おれの眼を見ながらキスを投げて「お店ではヘザーよ」とすり抜けて行き、リビングのサンドイッチを摘んで口に入れた。裸の乳房が揺れている。女はくすりと笑った。
「やあねえ、ギャラも貰ってないのに。不道徳だわ」と言って、寝室のドアを尻を弾ませて閉めた。衣擦れの音がするので、リビングで服を着ているようだ。
「おれが何か言える立場ではないが」とシドに視線を向けた。首までシーツをたくし上げているが、散乱している下着を見れば結果は分かる。
「これはサポートだと聞いてきた。しかしおれの音になりつつある。おれはキミの代用品でしかない。今は想像して演っているが、虚しさしかない。あるべき音を聴かせて欲しいだけだ」
「・・・気分が乗らないだけよ。もうしばらく待って。貴方には生理現象なんて判らないでしょう」
気分転換にジムにいった。
磨き上げられた無垢材の床には汗染みなどひとつも泣く、整備の尽された器材にはグリスの拭き忘れもなかった。正面はガラス張りの大窓が並び、その両端まで高層棟宿泊者用のプールが広がっていた。
6月なのでまだ肌寒いが盛況のようだ。まるで異世界だと思った。ここから車で10分戻れば、路上で麻薬と銃と女が並ばずに買える。ひとの生死も、意志も、運命さえも、全てに特売の値札が貼ってある。
プールの周囲は漆紺のパラソル群が風を受け、そのパラソルごとに椰子とミモザで視線を防ぎ、ゲストに自然な影を落としていた。おれはこの肌なので、そこには入れない。ヴィラのプールを自由に使えるが、日中はスタジオにいることが多く、まだ使ってはいない。
そこにあのヘザーの姿を認めた。
おれはジムを出て、そのパラソルのレイチェアの元に歩いていった。
その途上で多くの宿泊客が鼻を鳴らせていたが気にもとめなかった。ボーイの眉は曲がってはいたが、ヘザーの隣にすぐにレイチェアが用意されたのは、立派な経営方針の表れだ。
「ここで何をしている。レッスンではなかったのか」
「午後になったわ。ひと泳ぎする時間程度にね」
ヘザーはレイチェアに黒いビキニでうつ伏せに寝そべって、白いティテーブルに様々なフルーツが幾何学的に刺さったトロピカルドリンクを飲んでいた。ヘザーの姿は、おれの経験上では厚着に過ぎるくらいだ。男性客の視線が、誤解を持っておれの顔に粘着質に絡んできたが、無視をした。
「ここもカンサーのつけか?」
「吹くわねえ。この払いはあたし持ちよ。そんな事言わせないわ」
半身を起こして、ティテーブルに肘を突いて、ストローを咥えた。
「ねえ、気が付いているの」と喉を潤したヘザーの眼が、悪戯っぽい光を帯びた。
「何のことだ」
「まあ、そんな感じだったよね、アンタ。シドのこと、大事にしてあげてね。まだ安定期になってないから」
「安定期?」
「ああ、まだ知らないんだ」
「あのコ、妊娠してるわよ、そう2ヶ月か3ヶ月ってとこね」
「なぜそれが分かる、彼女が言ったのか」
「わかるのよね。ねえ、どれだけあたしたちが女の裸に見慣れてると思う。楽屋で服を着ているのは、不感症の舞台マネージャーだけよ」
絶句するおれにヘザーは勝ち誇るように、追い討ちをかけた。
「それにね。庇うのね、お腹を。愛し合うときに。もう決まりね」
その日の食事はレストランで摂った。
ヴィラで、シドと相対してルームサービスで食べる気力が湧かなかった。
今回のオーダーはサポートどころではないのではないか。彼女が妊娠しているのであれば、ツアーにも出れないアルバムになる。この場に他のメンバーがいないというのは、妊娠を隠蔽しているからではないのか。
部屋に戻り汗を流すことにした。
バスルームには、卵を縦に二等分したような陶器のバスタブが誂えてあった。
壁に翡翠色のタイルが巡らせてあり、左側には透明なガラスを囲われたシャワーブースがあった。せっかくなのでおれはバスタブを使うようにしていた。自分のねぐらでは水シャワーしか出ない生活だったのだ。
背後でドアが開き、シドが入ってきた。振り返らずとも、シャワーブースのガラス面に影が映っていた。トイレでも使うかと思っていたが、洗面台の縁を握り締めて立っていた。何か耐えていたようだが、すぐに膝を降りながらそこに嘔吐を始めた。酸っぱい匂いがひたひたと伝わってくる。
「おい、大丈夫か」
返答ができないらしい。おれは泡に塗れた姿で彼女に向かった。
「寄らないで!」
唇に吐瀉物を残しながら、彼女は身構えた。腰にスイッチナイフがあった。
「貴方は何を言われてきたの。目的は何?」
泡をタイルに落としながら、シドの敵意に溢れた眼を見た。
「おれはただドラムのサポートを」
「額面通りのことを言わないで。この子は産むわ。絶対によ」
血の気が引いていく。駄目だ。興奮しすぎてhappy triggerになりつつある。新兵が暴発するのはこんな瞬間だ。
おれは全裸のまま、身を当てていく。逃げるな。逃げたほうが怪我をする。怖がるな。ナイフの刃は小さい。しかも彼女の身体に衝撃を当てるわけにはいかない。無我夢中だった。おれの身体が泡で滑りやすいのが幸いだ。右手を絡め取り、捻りあげ、シドを受け止めながら倒れ込んだ。ナイフが跳ねて遠くへ飛んでいく。
体勢を入れ替えて、シドを抑え込んだ。呼気が荒い。子宮の負担にならないように上半身だけだ。チアノーゼを起こしかけている。気道を確保した。
「安心しろ。おれは看護兵だった。胎児は無事だ。」
脇腹が熱い。タイルに鮮血が溢れている。
おれの血であることに安堵した。
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