第3話

 翌朝のことだ。

 おれは再びパーシングスクゥエアまで出かけた。

 待合せは正午で、カンサーの招きに遅れることはあり得ない。

 クラクションが鳴り、長大な真珠色のリムジンがゆらりとその巨軀をねじ込んでパーキングに侵入してきた。

 恐らくは特注で防弾ガラスの上、ボディ内部に鎧が仕込まれているだろう。

 スライドドアの向こうには、LAレイカーズのスタメンが全員座れそうなベンチシートがあった。結局座ったのは、おれだけだが。シートの柔らかさと来たら、そのまま車道にまで尻もちをつきそうなほどだ。正面にはカクテルなどを用意する寄せ木造りのバーがあった。

 待合せ場所を指定したのは、おれの方だった。昨晩にストリップバーからの帰りにカンサーに同乗して判ったことだ。堅牢なこの車で、建物が密集したおれのねぐらまでお出迎え頂いたら、華奢なビルならば根元を削られて倒壊してしまうだろう。この車に腐った卵を投げつける不届き者はいないだろうが、おれが変に目をつけられても困る。

 ひと息ついて思案した。このオーダーの目的は何なのか。

 まだよくわからない。おれの技量にも自信はあるが、それがシド・パレットに釣り合うかというと疑問だ。


 リムジンがハリウッドに到着した。

 サンセットブルヴァードの三叉路にあるマーキスに横付けになった。

 そこに至るまでの間にも居心地の悪さを覚えていた。この通りの家並みは、ドアと屋根の存在と同様に、プールとテニスコートを最低限のように備えている。

 中でもセレブリティの社交場を担っているマーキスが、白亜の絶壁となって聳えている。開衿シャツに革ジャケットのおれがエントランスで、ドレスコードに反してドアマンに拘束されないとも限らない。

 その心配もよそにドアマンはリムジンから儀礼的におれを迎え入れ、機械的に案内した。ピラミッドの大回廊を思わせるホールを抜けて、別荘棟に連結する建物のエレベータで地階に案内して、深々と一礼した。

「待っていたよ。今回のマネージャーのジェフリーだ。準備はもう出来ている」

 半分開けたドアから、同じ褐色の肌をした男がアフロシャツで乗り出して、だみ声をかけてきてホッとした。マーキスは、奏者に関しては寛大な気風らしい。

 マーキスは最高級ホテルの高層棟と、超のつく別荘棟に分かれている。どちらもプールに庭園とテニスコートがあり、その両者をつなぐ連絡棟の地下にスタジオまで準備されている。70年代にはここで生まれたアルバムが星の数だ。

 スタジオ内の防音壁をみて、おれは初めて呼吸を楽にできる気分だ。床はチークが張られているが、この壁まで上質の革で飾り上げられているわけではない。

 スタジオにはドラムが2セット用意してあった。

 明らかにシドのセッティングがなされているものと、配送人がそのまま置いただけのものだ。フロアタムととハイ、ロータムの高さが歪で、バスドラムの位置もズレている。これでは満足な演奏なんて出来やしない。

 ジェフがおれの名前を出して、シドに紹介したが彼女は一瞥もせずにただ「そう」とだけ生返事をした。改めてシドの姿に見入った。

 シドは曲げ細工の椅子に反対に座り、両手を交差して背もたれを抱きしめるように座っていた。その腕にあごを乗せている。黒のパンツルックに緑のサマーセーター、ラフな格好で子供っぽい姿だ。

 赤毛の髪は脂っ気がなく、後ろで纏めていた。メイクをしていない肌にはそばかすの跡があった。目は石のような碧。目線はおれにあるものの、蜃気楼でもみているように焦点が合ってはいなかった。

 窓のないスタジオの奥には音響調整室があり、そこにジェフリーが入っていった。それからスピーカーで指示してきた。

「じゃあ自分仕様にセッティングをしてくれ。それからテストだ。オートマタの曲をこっちで流すから合わせてくれ」


 シドとおれとの違いはリーチの大きさだ。

 体格差があるからだ。シドのサポートに入るのならば、スティックの持ち位置も変わってくる。そしてドラミングのスタイルも違う。

「いいぞ。流してくれ」

 ドラムパートを外したテープ音源が流れてくるので、瞬時に呼応した。

 シドのドラムには緻密な重ね打ちがある。しかも正確なバスドラがある。グループに楽器数が少ないのでフィルもリムショットも多用する。シンバルのカップを叩き高音も演出する。それを苦もなくやってのける分、クールさが勝って、あの表情に表れているのかもしれない。

 おれの手数も少ない方ではないが、記憶を辿りシドの足跡を追うように叩き、かつ音の粒子が揃うことに精神を集中させた。

 ギターソロの終わりぎわに、おれのスティックの挙動にちょっと意趣を加えてみた。そしてラストに盛大にシンバルを叩いた。

「はん、このコ。合格だわ」

 シドが言った。首を左右に振っているが、否定したわけではない。

「ねえ、わかってやっているの。それともミスしたの」

「気づいたか。むしろ崇拝して、だ」

「去年の7月29日のライブのやつよね、それ。まさか観ていたの?」

 おれは初めて笑みを向けた。あのライブでその瞬間だけ違和感があった。テンポも合ってる、グルーヴも悪くない。だがそこに何というか揺れというか、迷いに似た何かがあった。その場のアレンジかも知れないが、それに気づけるのは奏者に限られる。そこが気になっていた。

「大したことではないわ。あのライブの夜は、わたしはアレの2日目だっただけよ。女なんて損ばかりよ」

 シドにも感情というものがあるようだ。

「垂れてきちゃったのよ。太腿までね、血が」


 別棟のヴィラに部屋が用意されていた。

 地中海風の別宅で白い漆喰の壁と、橙色の瓦で葺いてあった。

 後ろ手にシドが鍵をかけ、リビングへおれは歩いた。

 高い天井と天窓があり、陽光が床に映えていた。高窓には金糸と深海のような青で丹念に織られたカーテンが吊ってあった。濃厚な花の香りがした。花瓶に活けられているだけではなく、ベッドシーツにも花弁が散らされていた。

「・・・あなた、SEXは正常なの?」とおれの背中に問うてきた。

「それが性別という意味なら牡で、性癖という意味ならイエスだ」

「ならベッドは別々ね」

 たとえおれがゲイだったとしても、シドとの同衾は御免こうむる。幸いにもここには寝室が3部屋も用意してあった。

 シドは躊躇いなく冷蔵庫を開けて、シャンパンを取り出した。

 口を切って、そのままラッパ飲みした。

 桜色の唇が湿っている。それを手首で拭い、おれに差し出した。

「乾杯しましょう」

「何に?」

「新しく生まれるものに」

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