08.自分と他人の境界線


 *


 みぞおちと左胸に猛烈な痛みを感じたあと、私は強烈な吐き気に襲われた。

 あれほどまでに惨い死に方を体験したのだ。当然である。


「はぁ、はぁ……」


 動悸がおさまらない。

 汗がとまらない。


「おいモナ、大丈夫か?」

「うぇっ」


 ガタガタと震える足はもう限界で、そのまま石畳に膝から崩れ落ちた。

 そんな私の異常事態をすぐに察したのだろう。リチャードが慌てて駆け寄り、丸太のような太い腕で私の体を強く抱く。


「落ち着け、大丈夫だ」


 背中を優しく撫で、時にポンポンと軽く叩き、彼は私の耳もとで何度も優しく囁いた。


「俺がいる、安心しろ」


 彼の声と体温が、荒れた心を安らかなほうへ導いてくれる。

 誰かに抱かれて心が安らぐのは、奇妙な感覚だ。


「ありがとう、もう大丈夫だ。少し落ち着いてきた」


 動悸はいつの間にかおさまり、吐き気も引いていく。

 今でも鉄マスクに殺された瞬間は鮮明に思い出すが、不思議とさっきまでのように取り乱すこともなくなった。


「……悪かった」


 背を大きな手で優しく叩かれるのが、今はそこはかとなく心地よい。


「どうして謝る」

「いやその、まさかこんな風になるとは思わなくてよ。ひでぇ記憶だったんだろ?」

「まあ、ヒドい死に様だった。とはいえ、術を使うのも久しかったからな。

 これは私のブランクが招いたものであって、キサマが謝るようなことではないさ」


 いくら見知らぬ他人の記憶といえど、浸りすぎれば自分と他人の境界は静かに消える。

 久しく使っていなかった術を使い、勝手を忘れてサムソンの意識に没入してしまっていたのだろう。まるでサムソンの惨たらしい死が、今もどこか自分の記憶のような気がしてならない。


「少しひとりで考えたい。すまないが、後処理を頼んでいいか?」

「分かった、無理はすんなよ」


 背中にまわしていた両腕を離すなり、リチャードは私の頭をポンと叩いた。

 サムソンの頭蓋骨を手渡して彼の背を見送ってからの私の精神状態は落ち着き、ようやくサムソンの記憶を思い返せるほどには回復していた。


「魔法のカギ、か」


 サムソンは自身の最期を悟り、カギを側溝へ投げ捨てた。どうやらあの鯖だらけの古臭いカギはウーズナム社や銀髪の男にとって大切なものだったらしいが、鉄マスクは側溝めがけて投げられたそれを気にも留めなかった。

 おそらく鉄マスクの目的はサムソンの財産ではなく、別にあるのだろう。たとえば、人を惨たらしく殺すことが趣味の猟奇的な連続殺人犯なら合点がいく。


「リチャード、お前はたしか貴族院について無駄に詳しかったな?」

「無駄にってなんだよ」


 こちらから話しかけたとはいえ、石棺のバカみたいに重たい蓋を持ちあげながらも私の声に耳を傾けられるのはやはりおかしい。


「たとえば、国境を渡るための通行銅証の精巧な偽物を大量につくることができたのなら、運送会社は儲かると思うか?」

「そりゃ儲かるだろうよ。通行銅証は発行にも維持にも金がかかって、普通の運送会社じゃ二枚持ってりゃ多い方だからな。まさか、ウーズナム社が通行銅証の偽物を持ってるってのか?」

「本物が二枚、偽物が六枚。全部で八枚の銅証で荒稼ぎしていたらしい」

「ここ数年で急成長したとは聞いていたが、そんなカラクリがあったとはな。それなら荒稼ぎしてたのも納得いくが……」


 ウーズナム夫妻の遺骨を納めた石棺を元の場所へ戻すには、一度それを持ちあげる必要がある。

 顔色ひとつ変えずに石の塊を軽々持ちあげたリチャードの姿は、とてもじゃないが同じ人類と思えなかった。


「そいつは無理だぜ」

「その心は?」

「単に銅を加工するだけなら街の工房でもできるが、通行銅証はワケが違う。ありゃ宮廷に仕える魔術師がメチャクチャ高度な技術で加工を施してるっつう話だぜ」

「偽装できる可能性は?」

「ゼロとは言わねぇが、最低でも魔術師の協力は必要だな。それもハンパなヤツじゃなく、魔術学校を首席で卒業できるくらいの技術者だ」


 昨今は国内の生産者を守るために穀物取引法が制定されたこともあって、この国は外国との取引に異常なほど敏感だ。

 穀物に限らず、国産物の価値と各地の辺境伯たちを守るため、国境を超えられる商人を信頼できる一部に限定することで不当な貿易を排除しようという魂胆だろう。

 しかし通行銅証の偽装が簡単にできてしまっては、王国政府の制定した法も意味を成さない。


「ひとり心当たりがある。サムソン・ウーズナムは殺される日の昼、高そうな服を着た紳士と会っていたんだが、どうも後ろめたい関係性らしい」

「そいつの名前は?」

「分からなかった。サムソン・ウーズナムにとって印象の薄い名前だったのか、それとも名前を知らないのか、どちらかだろうな」


 足もとに置いていたランタンを拾いあげ、私たちはまた暗い納骨堂を歩きだした。


「名前を知らないとなると、随分きな臭い話になってくるな。もしかしてそいつが悪の親玉だったり」

「誰が誰の親玉でもかまわん、私たちがするべきは魔法のカギを誰よりも早く手に入れることだ」

「魔法のカギ?」

「ヤツが築いた財産そのものであると同時に、ウーズナム社の悪事のすべてでもある。死に際、ヤツは最後の力を振り絞って側溝に投げた」

「おいおい、それじゃあもうとっくに誰かが拾ってんじゃねーの」


 リチャードの言うことはもっともだ。

 魔法のカギが欲しいのは、おそらく銀髪の男を含んだ内情を知る者たち。彼らは偽装銅証をはじめとした悪事を隠蔽するために探すだろう。

 ほかにも、掃除していた者や通行人が偶然拾得した可能性もある。


「サムソン・ウーズナムが鉄マスクに殺されたのは一週間前だ。むしろその可能性のほうが高い」


 一週間前に落ちたカギを誰かが持ち去った可能性は、少なく見積もっても七割から八割。

 今から現場に向かってカギを手に入れられるかは絶望的だった。


「そんじゃ、どーすんだよ」

「だがこれは私たちが見つけた唯一の手がかり。わずかな可能性だろうと、今は縋るしかない」

「殺された現場は狭い裏路地だろ? ふたりなら隅々まで探してもそんなに時間はかかんねぇな」


 ようやく納骨堂をでた私たちを待っていたのは、キツネの家族。

 どうやら墓地を寝床にしていたらしいが、納骨堂から灯りをぶら下げて出てきた私たちを見た途端に大慌てで逃げだす。


「寝ぼけたことを、探すのはお前だけだ」

「俺だけ!?」

「今から頼む」

「今から!?」


 幸い、見回りが来るよりも早く私たちの用事は済んだ。

 墓地を出て坂をくだり、等間隔に並んだ街頭が照らす細い路地でランタンの灯りを吹き消す。


「そろそろ一度くらい朝の礼拝に顔を出してやらなければ、ヘレン婆さんに怒鳴られるんでな」

「そのまま寝ずに出りゃいいじゃねーかよ」

「バカ言え、普段から睡眠の質が悪くて困っているのに追い討ちをかける気か」


 夜は人が静かになる分、ノイズが鮮明に聞こえだす。特に修道院となると、ノイズの数も街中に比べて非常に多い。

 霊体の破片となって彷徨っても、聖堂にいけば救われるというバカバカしい概念が奥底に刻まれているのだろうか。


「サムソン・ウーズナムの殺害現場は知っているな?」

「そりゃまあ」

「なら話が早い。こちらも用事があるんでな、隅々まで探し終えたら修道院で合流するとしよう」

「ったく、騎士をアゴでつかうシスターなんか聞いたことねぇっての」


 ランタンとマッチ箱をリチャードに託し、私たちは別々の方角へ散った。

 数々の馬車や労働者たちが行き来する昼間の賑わいと打って変わって、真夜中のアトラス街はどこか寂しく、まるで違う世界に迷いこんでしまったかのようだった。


 

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