2章(1)『胸焦がし日』

 しとしとと、窓を打ち付ける雨音が、早朝の稽古場に響いている。

 梅雨の雨が春に暖まった空気を冷ましていく。

 僕は、この時期の朝稽古が好きだ。

 畳を踏みしめ感じる、ヒンヤリとした冷たさ。青く薄暗い稽古場と肌寒い空気が、頭を冷やし、普段以上に集中をませていく。

「つぎ、いきますよ」

 凛とした声とともに、180㎝ほどの木製の棒が、冷えた空気を切って上から振りかかってくる。

 咄嗟に手に持った木製の棒を横にして受けるが、すぐさま股下目掛けて棒が振り上げられる。すかさずこちらも、上げた棒を下げて攻撃を受ける。

 反撃しようと手元で棒を滑らせるが、はたりと間合いを開けられる。

 その身のこなしは、舞のようで、長く艶のある赤紫の髪が優美にはためいていた。

「動きがにぶいですよ」

 と、眼前にいる棒を構えた道着どうぎ姿の母に指摘される。

 —今度こそは、母さんに一撃あたえる…。

 師へ挑む闘志が静かによぎる。

 それは、稽古を始めてからの目標であった。

 中学生になってから身長が母よりも少し高くなり、日々の鍛錬で筋肉も付いてきた。

 これまでの稽古で、母よりも数段ガタイの良い大人の男たちをなぎ倒してきた。

 —大丈夫、いける…。

 そう自身を鼓舞し、半身はんみ構えから左足を突き出し、勢いよく棒を振り下ろす。

 カン!乾いた音が響く。

 打ち込まれた棒を母は適格に持ち手の間で受け止め、素早く後ろの腕を上げながら身をひるがえしアイトの棒を受け流す。そして瞬時に構えをとろうとする。

 —ここだ!

 バッ!

 道着から音を上げながら、母めがけ棒を突きだす。

「攻めが、単調ですよ」

「えっ」

 突きだされた棒を、母は道着にかすめるすれすれで避ける。そして、棒を手放す。

 一体何を!?と、動揺が走ったとき。

 ダッ—。

 一歩。空拳くうけんの母に間合いを詰められる。

 —棒を引き防御、いや、後ろに逃げ…!

「ぐっ!?」

 胸ぐらを勢いよく引っ張られ、全身が浮いたと思ったと同時に、背中が畳に落ちる。

「奇策に判断がにぶりましたね。次からは何が来ても冷静に判断できるようにしてください」

 ぐうの音も出ない指摘に、天井を睨みつけながら自身の未熟さと力量差を痛感する。

 そんな仰向けに倒れる教え子に、母は和らいだ表情で手を差し出す。

「棒さばきは良くなりましたね、アイト」

 その言葉は、目に入った力を抜いた。そして、小さな自信とまた今度こそはという挑戦心を湧きあがらせる。

「稽古はここまでにしましょう。朝食の準備をするので、先にシャワ—を浴びてきてくださいね」

 と言って、稽古場をあとにする母の後ろを追う。

 投げられた衝撃からか、体がふらつく…。

 そう思いながら一歩踏み出した時、氷でも踏んだかのように足が滑った。

 前のめりになり、母の背に倒れかかる。

「うわっ!」

 悲鳴に反応して、出入り口の引き戸を開けようとしていた母が振り向く。

 ドン

 と、戸に肘を打ち付け、戸を背にした母に覆いかぶさる。

 鼻と鼻が紙一重で触れ合うかどうかというほど距離は近く、まるでこのままキスでもしてしまいそうだと、不意に可笑しな思考が脳裏をよぎる。

 —って! 何考えているんだ、僕は—!

 可笑しな思考を振り払うように首を左右に振る。

「大丈夫ですか?」

 と、真顔で母が問う。

「うん、なんとか…」

 ふいに、こんなにも母の顔を間近で見た事はあっただろうかと思う。

 ハリのある小顔に、整った目鼻、そしてじっと自分を見つめる鮮やかな赤紫色の瞳。その瞳はどこか妖艶な美しさがあり、吸い込まれるような魅力があった。

 ドクン……。

 不意に鼓動が高鳴たかなる。それは段々と早まっていき、同時に喉が詰まったように息苦しくなり、頬が熱くなっていく。

 —なんなんだ、この不調は…⁈

「顔が赤いですけど、本当に大丈夫ですか?」

「へッ! 平気だよ…」

 思わずでたうわずった声に、恥ずかしさからたまらず顔を背ける。

 そんな自分を心配してか、顔を寄せてくる母。

 母のほんのりと赤く染まる火照った頬が近づく。その視線は、普段では目にすることのない、どこか物憂げな上目づかいだった。

 そんな母に、先ほどまで感じることのなかった、非日常的で心が弾むような感情が湧きあがる。

 —これって……。

 湧きあがった感情が何なのか、直感した答えが脳裏を過ぎろうとしたそのとき。

 全身に悪寒と鳥肌が立ち、先ほどまでの母に対する感情が、心底虫唾の走ることに思えてくる。

 —すぐに母から離れなくては…!

 咄嗟に、手に力を入れその場を離れようとする。

「あン」

 と、へんに浮ついた声が上がる。

 目線を手の方へ向けると、手が母の胸を鷲掴むように押し当てていた。

 熱湯をかけられたように顔が熱くなる。

「ごめんなさい!」

 謝罪しながら母の胸から手を離そうとするが。

「な、何しているの、母さん?」

「もう少しだけ……こうしていて」

 と、絡み付いてくる声で、胸に押し付けられた手を掴み離そうとしない母。

 何を言っているのか、何が起きているのか全く理解できず、頭が混乱する。

 そんな自分をよそに、母は空いている片手で器用に道着の帯を外す。

「ちょっ、母さん?」

 道着を羽織った状態になった母。道着の隙間から露わになる柔肌。張りのある豊満な胸と対照的に引き締まった腹部。

 母は、掴んだ手を自身のへそに当てる。そして、胸に向かって腹を撫でるように動かす。力なく導かれる自分の手。その手は、動揺している自分の体の一部ではないかのように、ごく自然に母の身体を撫でている。

 みぞおちから乳房の間を抜けて、細首を指先でなぞり、下唇のもとで止まる。

「アイトの好きにしていいんですよ」

 と母は、口元の指先に口付けし、頬張った。

 その瞬間、外からの雨音が消え。

 ジュプ……。

 と、隠微な音が鮮明に響く。

 同時に腰の辺りから込み上がってくる熱と快感、そして身震いするようなゾッとする感情。

 思考が同時に二つ存在しているのではと思うような、相反する考えにもうどうすることも出来なくなり必死で母のことを考えた。

「確かに母さんは、道着の下に肌着を着てこなかったり、裸エプロンで料理していたり、寝ぼけて夜中に布団の中に入ってきたりしたけど!」と、母の恥部を思い返しながら断言する。「母さんはこんなに…! こんなにエッチじゃない‼」

 そう叫びながら、アイトは壁の付いた手で勢いよく自身の横顔を殴り飛ばす。


 —痛くない…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リゲインズ 第1部  明知宏治 @Sophokles

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ