序章(7)『別れ』

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 冷たい湿った感触で、アイトの意識が徐々に戻り始めた。

 ポツポツと振る雨粒が、地面にうつぶせになったアイトの頬に落ちる。

「ここは…どこだ…? 確か、土手で…」もうろうとする意識の中、起き上がろうとするが全身に痛みが走りうまく体が動かない。

 かろうじて動く首であたりを見渡す。木々が生える薄暗い風景の中に見覚えのある、ベンチがる。

「走り込みで来る…電波塔の…公園…?」

 何故、小山の電波塔の近くにある小さな公園にいるのか? 土手下に落ちた後なにが起きたのか? ヒナタは無事なのか?

 答えの出ない疑問だけが、頭をぐるぐるとかき乱し、不安と恐怖の感情でいっぱいになる。

 冷たい風が吹いてくる。

 驚き目線を向ける。一瞬、青白い光に視界を奪われる。光は大きな帽子の装飾品から放たれていた。その帽子を被るのは、あの黒いドレスの女だった。

『逃げろ‼』と心の中で絶叫するアイト。しかし足も手も、もがくのが精一杯。ジタバタしているうちに、黒いドレスの女が唱え始める。

「ターニクセィ ヘカティー コーズモス フィーリン」 

 黒いドレスの女の周囲を、水色と黒の二色の水しぶきが取り囲む。

「いったいなんなんだ…、これは⁉」

「ほー、意識が戻ったか」

 這いつくばるアイトを不気味な笑みを浮かべ見下す黒いドレスの女。

じきに魔術世界への、異世界転移が始まる。大人しくしていろよ。さもなくば体の一部が転移に失敗して、最悪死ぬからな。お前にはいろいろと聞きたいことがある、簡単に死んでくれては困る。それと用が済めば、眷属の海魔獣かいまじゅうどもの餌にしてやるから、楽しみにしておくといい。ふはははは…」

 高笑いをする黒いドレスの女。その後ろから高速で木製のクナイが飛んでくる。

 スパン‼と、飛んできたクナイは水しぶきに当たり砕け、木片となって飛散する。

 驚いた黒いドレスの女が後ろを振り向く。飛散した木片が瞬時に煙に変化した。それを吸い込んだ黒いドレスの女は、せき込み咽る。

「おのれ!何者だ‼」

 黒いドレスの女からアイトの注意がれたのを見計らったように、物陰から人影が飛び出してきた。その外見は白い修道女のような服装で十字のネックレスをみにつけ、顔は布に 覆われていて素顔がわからない。

 白い修道女の動きに迷いはなかった。

 即座にうつぶせになったアイトをお姫様抱っこし、その場から離れる。木々の中を自分よりも少し大きい体格のアイトを軽々抱えながら駆ける。

 進行方向に大きな木の根があり、飛び越えるためにアイトを強く抱き寄せる。

 アイトの顔が白い修道女の首元にれるほど近づく。すると、ほのかに嗅いだことのある甘い香りが白い修道女からする。

「…母さん?」

 ふとそう呟くアイト。それと同時に白い修道女は立ち止まり、アイトを下ろす。

「あなたは昔から、気づくのが早いですね」

「昔から…?」

 左の薬指にはめていた木製の指輪を、アイトの左の薬指にはめる。

「念のため、これをあなたに渡しておきます。詳しい事は安全なところに逃げきれ、…!」

 話の途中何かを察したのか白い修道女は、逃げてきた方角を振り返りながら首から十字のネックレスを引きちぎる。

 早口で「ビゲェネビィソ」と唱える。すると十字のネックレスは繊細な装飾の入った美しい銀色の十文字槍に変化した。

 すぐさま槍を、地面に突き立てる。

 ちょうどそのタイミングでゴゴゴゴ‼とけたたましい音と共に、水色と黒のマーブル模様の巨大な光線が槍に直撃する。

 槍が光だす。その光は膜となってアイトと白い修道女を包む。光の膜に光線が辺り2つの光線となって左右に分散し、数秒で光線は終息した。

 光線が通った場所は、情景をえぐり取った、見るも無残な状態になっていた。

 土手で受けた攻撃とは全くの別ものの攻撃に、こんなものが直撃したら死ぬ…最悪を直感するアイト。

「今の魔力…まさか……」白い修道女が呟くと、光線が襲ってきた方から重たそうな物を引きずる音が近づいてくる。

「ふふふ…さっきはよくも小癪こしゃくな真似をしてくれたな。だが、これで合点がいったぞ!封印魔術をかけられた男。その男を守る女。貴様の容姿、魔術師の王国ヒュアキントスの女官のものだな」

 大型のライフル銃を引きずり、不敵な笑みを浮かべる黒いドレスの女が、アイトたちの方にゆらゆらと歩いて来る。

「やはり!どうして、あなたが⁉」と白い修道女が黒いドレスの女を見て驚く。

「この体の知り合いだったか?ならちょうどいい、この場で二人まとめて消し去ってやろう。特にそこの男は確実にここで消し去ってやる。神託の魔王復活させし者。厄災の王子!」

「僕が、厄災の王子⁉ なんで、悪夢の話を知って…? それに厄災の王子は処刑されていた! 何を言っているんだ…⁉」混乱するアイト。

「厄災の王子が処刑された? ヒュアキントスの愚民どもと同じことを…まさか、お前もあの愚民どもと同じように虚構魔術をかけられているのか?」

「虚構魔術…?」

 高笑いする黒いドレスの女。

「実子に事実を隠し、護衛を付けて俗世界に逃がせばよいと? ぬるい、甘すぎるわ!愚民の王は、悪王であったか‼傑作だな‼」

「この子の前で、王の侮辱をするな‼」

 けたたましい声をあげ、白い修道女が素早い動きで袖口から木製のクナイを、黒いドレスの女に向け飛ばす。

 しかし、即座に黒いドレスの女のライフル銃の弾丸がクナイを粉砕した。

「ふふふふ…そんなもの、不意打ちでなければ無意味!長話もここまでだ!消えよ、我が復活の妨げ、厄災の王子‼」

 黒いドレスの女がライフル銃の銃口を上にあげ叫ぶ。帽子の装飾品から、眩しい水色の閃光が放たれる。

「エンファミゾメ モウ、アディレラフォ レヴィアタン!」

 引き金を引く黒いドレスの女。落雷のような轟音と共に、黒と水色の巨大な渦が黒いドレスの女を取り囲む。

 渦は暴風雨を発生させ、周囲の樹木は激しく揺れ、痛々しい音を立てる。

 次第に渦は形を変え、髪の生えた大蛇に変貌した。

「やれ」と黒いドレスの女が合図する。大蛇は大口を開け、今にもアイトたちを飲み込もうと突撃してくる。

 その影響で土は抉られ、周辺の木々はへし曲げられ倒れる。

 先ほどの光線と同様に、槍から光の膜がアイトと白い修道女の周囲を包む。

 バキッ‼と鈍い音とともに槍にヒビが入る。

「まさか、ここまでとは…!」

 白い修道女がアイトの方を振りむく。

「これから、あなたを魔術世界に異世界転移させます」

 唐突な言葉に驚くアイト。

「魔術世界についたら、ヒュアキントスからお父様の使いの者がやってきます。その者を頼ってお父様のもとに」

「父さんの使いって⁉ 母さんは一緒じゃないの⁉」

「私はいけません。異世界転移できる魔力は一人分だけしか―」言葉の途中で耳に響く高い音がし、光の膜が一部砕ける。そこから一直線に水色と黒の光線が白い修道女の右肩を刺す。

「ぐっ!」

「母さん‼」

 アイトの顔に、生暖かい鮮血が飛び散る。震えが全身を駆け巡り、青ざめるアイト。

 白い修道女の右肩から血が溢れ、じわ、と右半身が赤く染まる。

 なんで⁉ どうしてこんなことが⁉ いったいどうなっているんだ‼‼

 次々と起こる理解不能の出来事に、頭の中が不安や恐怖の負の感情で埋め尽くされる。

 そして、ついに耐え切れなくなったアイトは叫ぶ。

「こんなの悪夢だ!そう虚構だ!僕が作った虚構だ‼ これは現実じゃない! 僕が作った虚構なんだ‼」

 パニックになり頭を地面に叩きつけるアイト。濡れた泥が飛び散り、アイトの顔を黒く汚す。

「はぁ、はぁ… いいえ…これは虚構ではなく現実です。 …クスィキボーセテェ」

 白い修道女が荒れた息を整えアイトを諭すように静かに呪文を唱える。

「うっ!」大きな胸の鼓動と冷や汗が全身から出るアイト。

「はぁ…あなたにかけられた、一部の封印を解きました… これで、10年前同様、魔術世界で魔術が使えるはずです」

「10年…前?」

 その言葉にアイトは、この街に引っ越してきた日のことを思い出す。

 もし、黒いドレスの女と母さんが言っていることが正しいのであれば、あの日に自分は魔術世界からこの世界に来たとでも言うのか?

「信じられないのも、無理のないことです。ですがこれだけは信じてください。この世界に来る前のあなたは、ありとあらゆるモノの魔力に触れられ、その力で負傷し疲弊した人々を癒し励ましたこと。この世界での十年間で私はあなたを鍛え、あなたはもう戦うすべを持っている‼」

 光の膜が薄れ強烈な衝撃で、白い修道女の顔を覆っていた布は吹き飛ばされた。そこには見たことのない、口惜しそうな表情で、涙をボロボロとこぼす母の姿が。

「私はまた…… 本当に申し訳ありません…あなたを守ることが出来るのも…ここまでのようです… ターニクセィ ヘカティー コーズモス フィーリン‼」

 アイトの左薬指にはめられた木製の指輪が光だし、アイトの体が次第に半透明になる。

 ガラスを割ったような音が、断続的に鳴る。二人を覆っていた膜の端から次々と水色と黒の光線が差し込んでいき、轟音と共に槍が砕けた。

「かぁ‼母さんー‼」母の方に、消えかけている手を伸ばすアイト。


 母の切ない声。

 それが、母からの別れの言葉になった。


 瞬く間に、水色と黒の大蛇が1つの影を飲み込む。

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