序章(5)『アイトの母』

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 古民家の縁側の窓が開く。

 洗い物の入った洗濯カゴを持つアイトの母が、えんに立っている。

 新聞の天気予報では今日は晴天で、洗濯物を干すには最適な日とのこと。

 これが終わったら布団も干して…。と段取りを確認しながら、洗濯カゴをその場に置き、濡れ縁の下にあるサンダルを取ろうとする。


 バン、バン‼


「!」

 唐突な、大きな弾けた音に、すぐさま辺りを見渡す。

 女子高校生が3人。古民家の前の道路を走っている。

「急がないと学校に遅刻しちゃうよ」

「待って~ 昨日、徹夜でソシャゲのイベント周回をして寝不足なの~ 全力ダッシュとか勘弁して~」

「あんた、いい加減イベント周回は授業中にやりなさいよ」

「いや、授業中にソシャゲしちゃいけないでしょ」とあきれ顔でツッコミをするアイトの母。

 ふと我に返る。

 女子高校生たちが何事もなく走り去るのを見て、先ほどの大きな弾けた音は、気のせいだったのか…と少し不審に思いながらも安堵する。

「いけませんね。こんなことでは…」と言い、凛とした表情を作る。

 最近、緊張感が欠けている。特にアイトの前だと…。

 寝ぼけて、アイトに抱きついたり… 入浴後、下着だけ着て家事をしていたり…

 今朝も、肌着を着忘れていることを指摘されるまで気づかなかった。

 改めてそれらを思い出すと、作った凛とした表情はたちまち歪み、湯気を出しながら真っ赤に染まった。

「いけません‼」と強く頬を叩き、自身を一喝する。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸してから口を開くアイトの母。

「いくら、これが私のさがであっても! 今はアイトのため、賢母であり慈母であり、手本となる大人であらねば!」と願うように、志を確認する。


「おはようございます」と元気な女性の声が聞こえる。短髪で大きな目をしたスレンダーな女性が歩いてくる。洗濯カゴを足元に置きアイトの母が一礼する。

「おはようございます、立花の奥様。今朝はとんだ騒音を出してしまい、申し訳ありませんでした」と挨拶の後、平謝りするアイトの母。

「そんなの気にしなくていいわよ。むしろヒナタを起こしに行かずにすんで助かったわ。あと奥様はよしてよ、加灯さん。ヨウコでいいわよ」と笑いながら茶封筒をアイトの母に渡す。

「これ、今月の月謝です。どうですかうちの娘は、頑張って稽古していますか?」

「ヒナタさんなら、いつも元気に稽古をしていますよ。道場の中でも技の覚えも早いですし」

「ならよかった。最近、稽古が終わって帰ってくると、アイトくんの加灯さんに対する態度が前と違うって、何だか会話がそればかりで、ちゃんと稽古しているのか心配だったの」

「そうでしたか…」相槌あいづちをしつつ、確かに今朝あったことや最近の出来事を思い返すと、以前と比べアイトの態度が変わったように感じる。

 アイトが小さい時は、膝枕をしても恥ずかしいとは一言も言わなかった。

 むしろ無邪気な笑顔を見せて甘えて来てくれた。その姿を愛おしいと思ったのは一度や二度ではない。

 なのに、最近は…素っ気ない様な、よそよそしい様な、避けられている様な……

 まさか!最近の私の気の抜けた体たらくに、呆れ返ったからでは⁉

 だんだんと険しい顔になっていくアイトの母。

 何か不味い話題を出してしまったのでは、と心配になるヨウコ。フォローしようと、たどたどしく言葉をかける。

「や~ アイトくん、もう16歳だからね~ 親に対する態度が変わってくる年頃よね~ 私にもあったなそんな頃が、もう何十年も前のことだけどね~」

 アイトの母が前のめりになってヨウコに詰め寄る。

「詳しく‼ 詳しく教えて下さい‼」

「えっ⁉」とヨウコは少し驚きながらも、返答する。

「ほらほら、あれよ、親に甘えるのが恥ずかしいように感じたり。親の言う事なす事が鬱陶しく感じたり。まあ、よくある親離れの始まりじゃない」

「そうでしたか、親離れだったのですね! ありがとうございます、ヨウコさん! 勉強になりました!」

 アイトが、呆れ返って冷たい態度をとっていたのではなく、自立しようとしていると知って安堵するアイトの母。何だか知らないが感謝され、とりあえず愛想笑いで返すヨウコ。

 ブーブーというバイブレーションとアラーム音が流れる。ヨウコがズボンのポケットからアラーム音の鳴るスマートフォンを取り出す。

「あら、もうこんな時間。ソラの送迎のバスが来ちゃう。それじゃあ加灯さんこれで」といってヨウコは忙しなく自宅に帰っていくその時。


 バン!バン!バン!バン!バン!バン‼


 と連続した大きな弾けた音が、聞こえてくる。

 しかし、この騒音に気づいたのはアイトの母だけだった。

 ヨウコは、何事もなかったかのように家に帰って行く。

「あの、ヨウコさん!さっき音が!」

「…音?」

 不思議そうな様子のヨウコを見て、悪寒が走るアイトの母。

「いいえ、なんでもないです…」といい洗濯カゴを持つ。

 ヨウコが見えなくなると、すぐさま洗濯カゴを縁側に置き、縁側の窓を閉める。

 忙しなく自室に駆け込む。

 ドレッサーデスクの引き出しを開け、奥に手を突っ込み引き抜く。手の中には、小さな木彫りのフクロウと木製の指輪が。

 ふと、ドレッサーデスクに置かれた写真立てに目が行く。

「何事もなければ、いいのですが…」そう呟くと、早口で呪文を唱える。

「カモヒラーズ テロス、メダンフィエスィ テロス」



 窓が締めきられた縁側。

 そこには手つかずの洗濯カゴが、凄然せいぜんと置かれていた。

 黒い雲が晴天を覆い、予報外れの雨が窓を濡らし始める。

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