序章(3) 『察しの良い妹弟子と悲しくなる兄弟子』

 ●

「いってらっしゃい」

「いってきます…」

 高校の制服を着たアイトを、カジュアルな服装にエプロンを身につけた母が玄関の前で見送る。

「はぁ~、思いっきり頭突きをしてから一度も母さんの顔を見られなかった…」

 朝食時、心配そうに「おでこ大丈夫?」と聞いてくる母に対し「へっ、平気だよ、むしろ目が覚めた」と冷や汗をかきながら答えたことを思い返す。

「ああ、昔はこんな事なかったのになぁ…」

 思春期になったからだと思う、母を女性として見てしまう感情。その感情の半面には常に、戸惑いと不快感、抑制しようとする感情が生まれていた。

 正直、悪夢よりも厄介なんじゃないのかこの悩み…。憂鬱になるアイト。

「はぁ~」と、うなだれながら溜息をする。すると明るい声が後ろから聞こえてくる。

「ため息をつくと幸せが逃げちゃうよ!」

 アイトが後ろを振り向くと、真新しい少し大きめの中学校の制服を着た、立花ヒナタがポニーテールをゆらしながらこちらに向かってくる。

「おはよう アイトニ―!」

「おはようヒナタ」

 ヒナタは母が師範をしている護身術道場ではアイトの妹弟子で、近所に住んでいることもあり、小学校入学以前からよく遊んでいた。ほぼ兄妹のような関係だった。

「今日はすごい稽古の音だったね。師範がアイトニ―を止める声で目が覚めちゃったよ。ソラもびっくりして、アイトニ―のことを心配していたよ」

「そっ、そうか。 すまん、近所迷惑だった」

「アイトニ―師範と何かあった?」

「えっ…どうした急に⁉」

「アイトニ―元気ないし。この頃、師範のこと避けていない?」

「そそっ、そんなことないぞ!」

「え~っ 明らかに目を逸らして、距離を取ろうとしている時があったような…」

「うっ、それは…‼」

 アイトの全身に強烈な悪寒が走る。

 この妹弟子、確実に感づいている!

 そう思った瞬間アイトの脳内で冷めた目で軽蔑した視線を向けるヒナタが現れる。

『アイトニ―が師範のことそんな目で見ていたなんて!不健全だよ!』

 考えろ!考えろ! 守らなければ、兄弟子としての尊厳を!

 口元を手で覆いながら眉間にしわを寄せ、鬼のような形相のアイトの隣で、あきれたようにヒナタが話しだす。

「まあ、アイトニ―の悩みなんて察しが付くけどね」

「ふぁっ‼」

 衝撃のあまり目を見開き、口を大きく開けるアイトがヒナタを凝視する。

「フハハハハ 何その顔、ゾンビが驚いた顔より酷いよ。アイトニ―。アハハハハ」

 妹弟子の楽しげな笑い声とバカにしたような発言に、自分に兄弟子としての尊厳とかないのでは…… 悲しくなるアイト。

「アイトニ―、師範と喧嘩したんでしょ」

「喧嘩?」と予想していなかった答えに、戸惑うアイトを見たヒナタが不思議そうな顔をする。

「あれっ、違った?」

「いいや!合っている!合っている!大正解だ、ヒナタ‼ そう最近、僕は母さんと親子喧嘩をしているんだ‼」

 アイトは心の中で歓喜した。妹弟子から期せずして言い訳のネタを得ることができたことに。

「そうそう、それで師範の方はもう喧嘩のことを済んだことだと思っているけど、アイトニ―は喧嘩のことを意固地になって今でも根に持っているんでしょ」

「いや~そうなんだよ。母さんが俺のとっておいた、牡丹餅ぼたもちを食べちゃってさあ~」

「えっ、アイトニ―そんなことで…」と軽蔑した妹弟子の声に、もっといい理由なかったのか!と嘘の下手さに絶望するアイト。

「そんなことで喧嘩していたら、天国のおばあちゃんが悲しんじゃうよ」

 その言葉に5年前に亡くなった、祖母のことを思い出すアイト。

 父方の祖母で、アイトが住んでいる家と道場は元々、祖母の所有していたものだった。10年前、父の海外単身赴任をきに、母と祖母の家に住むことになった。

 父とは10年間、行き違いが多く対面であってはいない。不思議と会えないことが当たり前で、会って話をしたいといった感情すら湧かない、意識の外の人だった。毎年、父から誕生日プレゼントに、未開の民族が作った木彫りの装飾品と手紙が届く。貰ったとき、一年に一度だけ父という存在を意識することができた。

 実質今は、母と二人暮らしである。

「そうだな、ヒナタの言う通りだ。母さんと仲直りするよ」

 話を切り上げるために、明るく前向きな返答をするアイトに、ヒナタは安堵したのか元気な声で返事を返す。

「絶対約束だよ!今度、稽古しに行くときまでに仲直りしてね!」

「ああ、分かった。約束する」

 言うは易く行うはかたし、だな。ふと顔を上に向けたアイトは思う。

 母に対する思いを抑えて、行動をコントロールしなくてはいけないことに。

 そうだこれは、平常心を保つための修行だと思えばいいのだ。と考えるのをやめ、開き直った解決法が思い浮かぶ。

 しかし、すぐさまネガティブな妄想が頭をよぎる。

 もし理性と倫理のタガが外れてしまったら…

 背後から母に卑猥な行為を行おうとして、母にれる寸前。

 反射的に繰り出される母の強烈な一撃が急所に当たり、もだえ苦しむのが眼に浮かぶ。

 それを見て何事もなかったように、「まだまだ修行が足りないようですね」と笑いかけてくる母。

 妄想でも勝てない、子供扱いされる、異性として見られていることに気付かれないことに、何だか落ち込むアイト。

 一方で本心は、母が親として子の暴走を止めてくれることを、期待しているのではないのか。自分は母を外見では、女性として見てしまっている部分はあるが、中身は母だと認識している。

 でもなぜか落ち込んでいる。 なぜ… どうして… なんで納得できない…

 悩みすぎて頭が痛くなってきた。

「ところで、そんなに変か、僕の顔?」気を紛らわすためにヒナタに質問するアイト。

「変っていうか、アイトニ―目のクマが酷いから、フフフッ…。ごめん、思い出しちゃってつい」

「いいんだ。ヒナタが楽しそうなら僕はそれでいいよ…」苦笑いで返事をするアイト。

 ふと、上を向くアイト。そうしていないと、涙がこぼれてしまうかもしれないから。

「はぁ、今日、天気悪くなる予報だったか?…」

 心曇るアイトと、同調するように空に黒い雲がかかり始めた。

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