第18話 傾国の美女

 「失礼します、呂桜りょおう様」


 そんな言葉とともに夏徳かとくは天幕の中に足を踏み入れた。机に向かって何やら書いていた呂桜が筆を止めて、その端正な顔を持ち上げる。左右には天幕の入口と同様に屈強な兵士二名を従えている。


 さして広くもない天幕の中でご苦労なことだと、暑苦しさを感じながら夏徳は思う。


 顔を上げた呂桜は夏徳の顔を見て、一瞬だけ考える素振りを見せた。ようの国の帝、りょく帝の三女である呂桜。歳は今年、二十五歳になると聞いている。


 他の姫とは違って、将軍の真似事をなぜしているのかは知らない。そもそも、そのような理由に夏徳は興味などなかった。夏徳の中にあるのは姫のお守りなど面倒だといった思いだけだった。


「来たか、夏徳。父上……いや、陛下より西方方面の侵攻を早めよとのお達しがあったのだ」

「はあ……」


 夏徳は頷く。その姿を見て呂桜は不快げに眉を顰めてみせた。美人が怒ると妙な迫力が出てくるな。夏徳は呂桜のそのような顔を見ながら心の中で呟いた。


 もう少し自分が若ければ、一国の姫でもあるこのような美人と一緒にいられることは嬉しいのだろうか。夏徳はそんな場違いのようなことを考える。


 癖のない長く伸ばされた黒色の髪と薄い茶色の瞳。肌の色は戦場に立っているために透き通るような白さというわけではないが、その美を損なうものではなかった。


 甲冑を着ていなければ傾国の美女といった趣きさえあるのかもしれない。


 そんな心ここにあらずといった夏徳の心情を察したのか、呂桜はさらに深い皺を眉間に寄せた。

 それを見て夏徳は心の中で溜息を吐いた。


「失礼しました」


 夏徳は頭を下げた。


「ちょうど、はしらの国をどう攻めるか。それを考えておりました」


 夏徳の取ってつけたかのような言い訳に、呂桜は面白くなさそうな様子で鼻を鳴らした。


「そんなものは我々の西方軍が進軍して飲み込むだけだ」


 まあ、それはそうだが。

 呂桜の真っすぐな言葉に夏徳は内心で頷いた。柱の国との戦力差は明らかで、そこに柱の国が策を弄するなどといったような姑息な目論見が入る隙間はない。陽の国としては、ただ兵を進めるだけでよかった。それは夏徳も大いに同意するところだった。


「それはそうですが、将軍、兵たちにも休息も与えねばならないかと」

「休息だと?」


 呂桜が発する声の高さが跳ね上がった。


まるの国を占拠してから既に三週間。兵たちは十分に休んだと思うが?」


 怒りのためか呂桜の声は少しだけ震えているようだった。やれやれだなと改めて夏徳は思った。知ってはいたことなのだが、何とも好戦的で気が短い姫様だと夏徳は改めて思う。


 姫の身でありながら、他の男兄弟と同じように将軍となって戦場を駆け回る。呂桜のこの思いはどこからきているのだろうか。夏徳は再度、そう考えていた。


 確かに呂桜は側室の子供であり正妻の子供ではなかったが、そんな子供は他にもいるはずだった。なので、正妻の子供ではないからといって陽の国内で蔑まれることもないはずだし、そういった話を耳にしたこともない。


 そんな夏徳の疑問を知る由もなく、呂桜は言葉を続けた。


「一軍を任されたとはいえ、所詮は小国が並ぶ地域を相手にする西方軍だ。我々が勝って当然。制して当然なのだ。その上で我々が優位性、有能性を父上、帝に披露できるとすれば……」


 我々? 私が、の間違いだろうと夏徳は不貞腐れたように心の中で呟く。


「おい、夏徳! 聞いているのか!」


 夏徳は静かに頷く。実際は途中から何も聞いていなかった。


「分かりました。兵站が整い次第、柱の国に向けて出立いたします。期限は三日後までにとします。それでよろしいでしょうか?」


「う、うむ」


 夏徳の言葉に反論の余地がなかったようで呂桜は頷いた。


 柱の国を制した後は大陸を東西に分けている山脈の麓にある小国とも呼べない村のような国だけだ。夏徳は記憶を辿ってその国々の名前を思い浮かべる。


 くまの国、次はきりの国だったか? 

 夏徳は心の中で呟くのだった。

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