第3話 鬼篝り


 韮崎の市街を歩いていた。

 初めて来た場所ではあるが、琴乃の記憶を垣間見ているので、道の選び方にそう苦労はなかった。

 そこは住宅街であり、本道が脇道が交差する三叉路で、その奥に忌み深い鬼門があった。恐らくはそこに小さな祠があったはずだが、人の世の常で解体されて影も形もない。これでは霊の吹き溜りが生まれるはずだ。

 暑いので髪は上げて簪で留めている。

 その場所はすぐに分かった。

 鬼門から二間ほど離れた場所に、花束とお菓子のようなものや飲み物のパックが並んでいる。歩道の境としてコンクリートの車止めの帯がある。そしてそのお供えのある箇所には、黒々としたタイヤの跡が残っている。

 そのお供えには安倍川餅が多いのは、この地域の風習だろうか。

 手提げ袋から茄子を取り出して、髪の中からあの針を数本抜き取った。それを四肢に見立てて茄子に刺して、お供えの傍にそっと置いた。

 年経た雪女の髪に刺されて、生きた心地ではなかったろう。

 そこへ。

 闇を裂いて。

 人影が現れた。

 見覚えのある背格好。

 喪服のような服の色味が暗がりに溶けていて、その姿は沼から大鯰が魚影を現したかのように見えた。


 逢魔おうまときという時間がある。

 魔に邂逅かいこうする黄昏たそがれの時間だ。

 逢魔が辻という場所もある。

 魔が巣食う三叉路の袋小路。

 そこは旧甲州街道と河川に挟まれた住宅街の一角だ。

 そこへ。

 ひたひたと足音が響いてくる。

 その姿が、あらと声をかけてきた。

「六花さま、鳴神六花さまではありませんか?」

 ええ、と声を返した。

 その瞬間にひょろひょろと物悲しい音を引いて、大輪の花が空中に開いた。そして轟音が頭上から降り注いだ。

 釜無川の方角から歓声が響いている。

 今日は旧武田家臣の御魂みたまを慰める花火大会が催されているが、その三叉路は交通規制がかかっていて、車が行き交うことはない。

 しかも逢魔が刻の空洞の時間までは、浴衣を肩に引っ掛けた若者が騒々しく喋りながら歩いていたが、今は違う。

 数日前に逢ったはずの奥さまが、険相の上に微笑みを糊塗ことして、静かに嗤わらっていた。

「よくこの場所がお分かりで」

「ええ。教えて頂いたたんですよ。琴乃ちゃんに」

「まあ、それで・・・」

「まだありますよ。教えて頂いたこと」

 じわりとその眼が底光りをしていた。

 そう。あのノートを塗り潰した鉛筆。

 書きなぐった暴言、淫猥な女性器の絵、家族の顔を漆黒にした人物がそこにいた。おぞおぞと彼女に周囲に瘴気が立ち籠めてきた。

「まあまあ、お喋りな娘でしたから」

 また宙に火箭が飛んで、天空で炸裂して深紅の華が轟いた。

 しゅっっと口中から触手が飛んできて、お供えのなかに潜り込んだ。一間を超える長大な長さで、蟾蜍ひきがえるの蒼黒い舌のような触手だった。そうして私の供えた精霊馬しょうりょうまを摘まみだした。

 茄子にあの針を刺してお供えした精霊馬。

 それを巻き取って口に含んだ。

 そして奥様はそれをひと呑みに嚙み砕こうとした。

 彼女は、手持ちの刃物を取り返したかったのだろう。

 しかしその頬を貫いて、針が四方に飛び出した。鮮血が肌を伝わってまだらに滴っていく。それは意外だったのだろう。皺がれた悲鳴をあげていた。

「驚いた?私がそれを躾けたのよ。貴女のいうことは聞かないわ」

 その針に縫い留められた歪な顔で、凄絶な微笑で返した。

 

 ふわりと冷たいものが足首に触れている。

 スカートに中にも潜り込んでくる、不届きものもいる。

 肌に触れた瞬間には、それは冷凍破砕されていく。

 いけない、あまり調子に乗りすぎると、私の衣服の繊維まで破砕されて裸になってしまう。羞恥心などはないが、帰宅するまでにきっと困る。ひとの世はとかくやかましい。

 慰撫するような甘えた鳴き声がひたひたと地面を覆っている。

 感触は猫のそれだが、一匹としてのまとまった姿形はない。

 白いふよふよとした不定形の塊が地表を這いずり回っている。動物霊の混濁した意識は数百なのか、或いはそれが数千匹に達するのか。琴乃を引っ掻いたり噛んでいたのは、これだろう。

 少なくとも人間であれば、足を取られて転倒することもあろう。車を運転しているのであれば、ブレーキを踏み間違うこともあろう。

 ほら。

 奥さまはその意識の汚濁に四つん這いになっている。

 その手足に白い靄が蠢いている。

 ときに中から尾のようなものが現れて、彼女の頬を嬲る。

「ぎぃ・・貴様、おでに一体、何を・・」

 舌まで貫かれているのであろう、呂律が回らないが明らかに奥様の声音とは違う。幾ほどの年月を経た魍魎だろうか。

「動けないでしょ、それはね。凍傷というのよ。もう貴女の手脚は地面に固着しているわ」

 手足の血流は既に凍結させている。

 さあ、吐き出しなさい。

 溜まっているものを全部。


 そこに在ったのは水子地蔵であったろう。

 区画整理の際に、縁起でもないとでも地権者が考えたのだろう。

 その祠と地蔵を取り払い、しかも河原へと向かう私道まで塞いでしまった。元々の四辻が三叉路となり、それで霊道を塞いでしまった。

 そこに凝集したものが、いる。

 生まれ出でることのなかった魂が、いる。

 また光源が天を翔けて、茜色と藍色に天空が染め上げられている。それは黄昏時の色味、魔に出逢う狭間だ。

 藍色が深く闇に沈むときにそれが生まれ出でる。

 白霞の上に平伏するように、彼女が悶えている。

 唇を押し広げて透明な異物が吐き出されている。

 海月くらげのようなそれは、胎児のような姿形をしている。まず頭が出でてぬるりと肩が滑りだした。

 それが根であったということね。

 超寒気を圧縮させた。

 熱を奪い、水を奪い、分子運動を奪い、虚空に散らせる。

 それを喰べて私は命を繋いできた。

 

 重く大気を震わせる炸裂音がある。

 もうその辻は浄化された。

 ゆっくりと奥さまの背中に手を置いた。

「すみませんね。先にお話ししました通り、不浄なものだけを祓うことはできません。貴女自身も祓うことになります。もうその肉体はかなり穢れております」

 彼女は背中を震わせて、拒絶を示して嫌々をしていた。

「さあ、駄々っ子の真似はおよしなさい。あれを一時的にでも肉体に受け入れてしまったのです。そしてお嬢様との時間をも、あれの意識に乗って、その手で汚して消そうとしたのです」

 髪を振り上げて睨みつけた。その眼に冷徹に言った。

「あの男を同じ目に逢わせるまでは・・・堪忍して」

 頬を貫通していた針は、もう崩れて消えている。ただ鮮血と涙でぐしゃぐしゃになっていた。復讐のための力を魍魎にたのんだのは愚かであった。

「そうそれが女なのです。幾つもの魂を、幾つもの命を宿すことが出来る。清濁を分けず飲み干すことができる。意識を完全に奪われる前に魍魎だけを祓い、琴乃さんを浄化しようとしたのでしょう。そんな都合の良いことは望めませんよ」

 その肩から寒気を送り、肉体ごとゆっくりと冷凍破砕した。

 粉々に散って、微細な粒子に消えていくのを見送った。

 それも私の食餌でしかない。

 立ち上がった。かの地で母娘が出逢うかはわからない。

 魔に呑まれたから、魔にすがり、魔に喰われるのよ。

 天空にまた大輪の華が咲いて、ようやく歓声が再び耳に届いた。

 今日は送り火の夜。

 琴乃ちゃんの初盆の夜だった。

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