第2話 鬼篝り

 社に戻り打合せの際の普段着に着替えた。

 それから本殿に上がった。

 結界もそのままにしてある。黒々とした瘴気が、そこに凝っている。

 結界の中央部分に五寸三宝がそのまま二台立っている。右側の台の結ばれた半紙が小刻みに震えている。

「お改めください」

 ご主人が胡座からよろよろと身を起こし、震える手でそれを受け取った。ページを捲りざまに絶句して取り落とした。傍から奪い取るように奥さまが拾い上げて、溜め息をついて低く呟いた。

「・・・全部、全部、消えてしまった」

 鉛筆で書かれたものは全て消去されて、鉛筆芯がなぞった溝が残っているはずだ。私は結界へと戻り、もう一方の三宝から半紙の包みのひとつを取り上げて、再びご夫妻に向かい合った。

 ゆっくりと半紙を開くと、その折り目に微細な芯の粉が溜まっている。

「これがお嬢様が書かれていたもの、文字や絵の元です。ただ厄払いにお家の神棚で払い清めてください。ご自宅の方がお嬢様も喜びます。その後はご近所の神社でお焚き上げして頂いて構いません」

「・・娘は、娘は成仏しているのでしょうか?」

「ご成仏されています。この字にはお嬢さまの魂が封じられていました。一生懸命に書かれていて、その念の残りかすが残っていました。悪いものはそれが好物で憑依していました。残念ながらノートの紙片から、不浄なものだけを取り分けることができません。静謐なものはこちらに、そして不浄なものはあれに封じています」

 ご夫妻の眼が、三宝に残るもう一つの包みに飛んだ。それが呪いの本体と知り、怖気が背を這ったようだ。

「あれは私がお焚き上げしておきます」

 ご主人はきちんと正座をして平伏し、言葉にならない歓喜の声で御礼を述べてから汗ばむ手で懐から包みを出した。

「どうぞお受け取りください」と呂律ろれつの廻らぬ声で続けた。

 銀行の封筒とは無粋だが、封印帯を解いていない硬質な感触があったので、有り難く頂戴することにした。ここでの生活には不要なものだけれども、下界に行くときには必要なものだ。

 私は袂からとび色の小袋を取り出した。

「私が育てたお米です。このお米は少しづつ毎日神棚にあげてください。下げたら一緒にご飯に炊いて召し上がってください。この袋いっぱいをあげた頃合いでお焚き上げしてくださいね」

 それは嘘だ。

 お米を育ててはいないし、ただの貰い物のお米。

 私には、そもそも食べ物は必要ない。


 物心がついたのは寛文年間だった。

 三世紀は生きてきたことになる。生まれは堺だった。当時は下り酒の樽廻船で大坂は賑わいを見せていたが、そこからあらゆる地域を巡ってきたことになる。

 この樽沢の神社に棲むようになって、もう20年にはなる。

 歳を取らない巫女として噂になることを避けてきたし、今では「先代の姪」という名乗りで通している。

「鳴神さま、鳴神六花なるかみ りっかさま。ぜひまたこちらに参ります。お焚き上げもこちらにお願いいたします」

 奥さまは花咲くような笑顔を、車窓から覗かせて去っていった。出不精の私でも、駐車してある場所まではお見送りした。

 先刻に祓ったときは、刃の姿で切りつけてきた。まとめた髪の結い紐を断たれた時だ。今度は形状を変えてくるのだろうか。鉛筆の芯の炭素組成もダイヤモンドのもそう変わらないので、注意しないと。

 お嬢さまのノートから分離するのは、炭素と紙面を密着させている水分を、超寒気で分子的に断てばいい。

 

 あの交差点にいたのは、動物霊だった。

 車に撥ねられて死んだ動物の地縛霊で、数体が集まってそれなりの能力を得ていた。見通しのいい交差点であるものの、目眩しで幻惑して、運転者には虚像を見せていた。事故が絶えない交差点になったのはそういう理由だった。運転者の足首に憑依して操ることさえ可能だったかもしれない。

 あの子が交通事故死したのは、そんな吹き溜まりの霊場だ。


 なんかね、たくさんいたの。猫が多かったかな。お腹がすいていて、琴乃がなんか持ってないかって。それで誘われたの。でも学校だったし、あげる

ものなんてなかったの。

 ずっと一緒にいたよ。

 でもよく噛んでくるし、引っかくし。遠くでじっとみていたよ。


 彼女のノートから鉛筆芯の成分を引きはがすときに語ってくれた。

 文字の悪戯書きは別人の手に依るもので、そこまでは見えている。

 それがもうひとつの半紙に封じてある。

 ここからが私の食餌だ。

 壁にもらせていた緋扇を手に、本殿の結界に入った。

 ただ祓うだけなら、こんな舞台装置も装束も本当は必要がなかった。ただの演出だけど、尤もらしく依頼人に観せる必要があった。

 半紙がふるふると蠢いている。

 僅かな変化を見誤らないように近づいた。暫く時間を置いたので、解凍されてしまったようだ。

 やはり。

 しゅん、と空気が鳴って針が眼を突いてきた。

 甘い。読めているわ、それくらい。

 私の呼気が空中に幾つも冷気溜りを作っている。超寒気の地雷のようなものだ。その針は宙を疾走しながら先端から分子的に崩されていく。

 もちろんそれを搔かい潜る針もある。

 緋扇を一閃させて、宙で叩き落とし、かつ扇面で受けた。左右から同時に突いてきもしたが攻撃に工夫も練達もない。

 そして相手には物理的な限界がある。

 最後に襲ってきた一本に。手を唇に翳かざして、呼気を放った。

 周囲の空気ごと氷結し、ぱあっと霧散して、消えた。

 そう。私は雪女なのだ。


 私の食餌は人間の生気だった。

 江戸期から大正年間までは、森や山里での行方不明は、神隠しと言われていた。皮肉にも私は神になり損ねた身ではあるけれど。

 当時から食餌は月にひとり程度だったので、無難にこなせてきた。勿論ながら山狩りの捜索もあったけど、ひと通りすれば詮索もしてはならない穢れとなり、噂にも上らなくなっていた。

 最近は違う。草の根一本までの緻密な捜査が行われる。生きにくい世の中になった。それで私が思いついたのは、お祓いを通じて持ち込まれた霊体の生気を喰べることだ。今回のもなかなか上物だ。

 ただ億劫になって数日はもじもじとしていた。

 下界は私の想像を超えて炎熱のようで、タブレットの気温変化ばかりを眺めていた。

 しかしながらその日が容赦なくやってきた。

 電動アシスト付きのマウンテンバイクを納屋から取り出して、下界に降りる決心をした。川の瀬音が届かない場所まで押して、雪女にとって外気温は只事ではないと痛感した。

 執務所に戻って黒電話でタクシーを予約した。

 人間の金銭には余裕があると気づいたからだ。

 タクシーで安曇野まで下り、JRに乗り換えた。

 ごく平凡な長椅子に向き合って座る車両で、夕日が山を茜色に染めて溶けかけていた。松本駅で乗り継いだ頃には紫色を尾を引いた雲が、天空にまたがっていた。

 目的地は韮崎にらさきという盆地の町のようだ。

 中央本線で2時間ほどだし、夜のとばりが下りたら少しは涼しくもなるだろう。それでも我が身の周囲には冷気を放出していた。制服を着た女子高生が、空調以上に効きすぎるらしく肩を抱いて座っていた。

 悪いことをしたな、と多少は思う。

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