感覚質

悠木葉

短いお話

 僕はこの世界が好きだ。春は桃色に染まり、夏は緑と青のコントラストに心踊り、秋の紅く燃え上がるような景色には心を奪われ、冬には白銀に塗られた地面を踏みしめる。それぞれの季節にそれぞれの色が現れるこの世界が好きだ。

 どうにかして言語化してみたが、僕が感じているものの本質はおそらく言葉になっていないだろうし、できたところで理解はできないだろう。こういった自分しか感じることの出来ない「感じ」を感覚質クオリアというらしい。どこかで見たか聞いたかしたが、どこであったかはあまり思い出せないし、間違って解釈しているような気もする。完全に解明されている概念でもなく、専門家の中でも意見が分かれているらしいので、間違っていても仕方ないとしよう。それとは別にクオリア関係なしに説明が下手なのはご愛嬌ということにして、これからは曖昧で適当な昔話をしたい。話半分で聞いて欲しい。




 四季といつものはぐるぐると輪廻転生かの如く無限ループである。春夏秋冬その順にイレギュラーが生じることは無い。それぞれの季節がそれぞれ特徴を持ち、僕はそれら全てを愛している。

 ある年にこんなことを考えながらその四季を生きていた。


 四月、春。桜舞い散るこの季節。春というものはやはり桜のイメージが強いが、桃色に世界が染まるのはだいたい四月だけで、五月にはもう緑が見え始める。なので「春」という季節は4月限定のものとすべきだという暴論が自分の中にある。まあなんだと言っているが、春は過ごしやすくて個人的には一番好きな季節だ。新高校生のフレッシュな姿を道で見かける度に、もっと青春をエンジョイすればよかったという後悔が心を抉るがそれでも好きだ。大学生となった今、青春という純粋純情純潔の権化などはなく、不純不浄不潔な性春しかない。どこで要らぬものが混ざったのかははてさて誰にも分からず、これは日本三大七不思議に数えられるとどこかの阿呆が言っていた。

 そんな大学生の悲しき実情は兎も角として、年度のはじめがこんな華々しい季節であるというのはとても嬉しいことなんだと、どこか他人事のように思う。年度の初めがやれ9月にしろだのなんだの言われてはいるが日本人にとってはこれが一番な気がする。

 こんなことを、枝ひとつ落ちていない角柱のコンクリートが立ち並ぶ街を闊歩しながら頭の悪いことを考える。

 話が脱線してしまったが、桃色の桜の美しさを感じられるのは感覚質のおかげなのだとすると頭が上がらない。


 八月、夏。緑や青という爽やかな色をイメージするのに全く爽やかでない季節。ただ蒸し暑いのだ。ヒトのボイル焼きなど誰が食べたいと思うのだろうか、一年中問い詰めたい。

 ただ夏の青青とした世界は好きだ。青春と青青。微妙に字が似てる気がするが、そんなことはどうでもいい。潮のかおりにあてられ、日の光にあてられる。夏の明るい感じは人々の心を高揚させる。それとともに草木は人の心を落ち着かせる。ある意味最も過ごしやすくて楽しい季節だろう。主に夏休みの影響かもしれないが。

 冷房の効いた快適な屋内でひとり窓から輝く外界を覗きながら物思いにふける。

 夏の青青とした雰囲気を感じられるのも感覚質のおかげなのかと思うと頭が上がらない。


 十月、秋。世界が落ち着きを見せる季節。瑞々しい葉は風情を見せ始め、あつい空気はその勢いを落とす。春とはしばしば「もっとも過ごしやすい季節」の座をめぐって争っている。

 読書の秋ということで確かに過ごしやすく、食欲の秋ということで食べ物も美味しい。

 それよりもやはり秋は紅葉だ。緑から一転紅く染まり、青い空との共演もさることながら夕焼けとの共鳴も恐ろしく美しい。

 こんなことを、評論小説を公立の図書館施設内でゆっくり読みながら思う。

 これも感覚質のおかげなのかと考えると頭が上がらない。


 二月、冬。白銀の季節。場所によっては雪は降らないしなんなら僕の地元がそうである。しかしそんな地域に住んでいようと冬といえばやはり雪であり、白銀の世界である。僕が小学生の頃1度だけ雪が降り、少しだけではあるが積もったことがある。その時に踏んだ雪の感覚を十年近く経った今でも覚えている。

 雪を踏んだ時のみ感じられるあの不思議な感覚は、 雪国の人はそうでも無いだろうが僕にとっては特別なものとなった。

 こんなことを、東北の積雪量のニュースをこたつに入りながら見て思い出す。

 雪の感覚を味わえたのも感覚質のおかげなのであるならば頭が上がらない。




 話半分で聞いて欲しい。

 色の感じも、雰囲気の感じも、踏みしめる感じも全て感覚質のおかげなのだろうか。そうであるならば僕がこの世界を好いていられるのは感覚質のおかげだ。色も匂いも空気も足の感覚も。感覚質というものは悪魔なのかもしれないし、天使なのかもしれない。本来的に人類には「五感」というものは存在しないのかもしれない。僕たちはやはり水槽で泳いでいるのかもしれない。


 こんなことを考えていた日の話--いつだっか忘れたが、昔話であることには変わりないのではあるのだが--はここで終わりにしたいと思う。長いようで短い話ではあったが、なんにせよこんなものに付き合ってくれたことには感謝しなければならない。ありがとう。

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感覚質 悠木葉 @yuukiyou

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