第5話「甲斐甲斐しい兄に這い寄る影」

 今日は散々な一日だった。

 ウモンはもう、ぐったりと疲れて部屋に戻った。

 そのまま、ばたりとうつ伏せにベッドに倒れ込む。

 ここは、王立亜空学術院おうりつあくうがくじゅついんの生徒たちが寝起きする学生寮だ。中央の共用スペース以外は、西と東にそれぞれ男女が分かれて暮らしている。

 最後の最後まで、たっぷりと今日もマオに振り回された。

 慣れっこの毎日だが、流石さすがに今日はもう限界である。


「やば……もうすぐ消灯時間か。風呂は……明日の朝で、いいか……」


 指一本、動かしたくない。

 それでもギギギと首を動かせば、寮舎の庭に巨大な影。

 そう、ナユタの乗っているゼルガードである。

 銘冠持ちネームド亜空魔デモンでも、召喚状態を解除して戻すことはできる。しかし、その方法をマオが勉強してなかったため、実体化したまま庭まで飛んできたのだ。

 因みに、人一倍強力で無尽蔵な力を持つマオからは、魔力が駄々漏だだもれ状態である。


「マオの奴め……いつもいつも、本当にいっつも。でもまあ、無事でよかったかあ。俺の再試験、どうなるんだろ」


 だんだんまぶたが重くなってきた。

 いよいよ今夜は寝落ちコースである。今が春でよかった、寒くもなく暑くもない。それでも最低限、着替えをしようと思ったその時だった。

 突然背中に、柔らかな重みがのしかかってきた。


「お兄ちゃん……来ちゃった!」

「……は? また?」


 そう、またである。

 ふんわりとしたおひさまの匂いは、妹のマオだ。

 因みにここは男子寮で、女人禁制である。

 こういうとこだけは行動力が有り余ってて、本当にしょうのない妹なのだ。

 首元に吐息がこそばゆくて、耳元にささやかれる言葉が甘ったるい。


「ねね、お兄ちゃん。また一緒に寝よ?」

「あのなあ! 毎晩だが、お前と寝た事があったか?」

「やだもぉ、小さい頃はいつも一緒だったよ?」

「十年前だろ、それ! ほら、離れろ!」

「やぁーだぁー、もぉクソねみだよー」

「汚い言葉使うんじゃありません!」


 最後の力を振り絞って、マオを自分から引っ剥がす。その反動でウモンも、どうにか上体を起こした。見れば、だぼだぼのパジャマに袖を余らせたマオが、二へへと笑っている。

 そのひたいを指でビン! と弾いて、ウモンは立派に声を固くさせた。


「いいから戻って寝なさい。あのなあ、お前……ここは男子寮なんだぞ? そんな格好でウロウロしてたら危ない。俺たちみたいな年代の男子は、本当に危ないんだよ」

「そしたら、お兄ちゃんが守ってくれるよっ! そうじゃないならアタシ、戦う!」

「やめなさい! ほら、帰れ帰れ!」

「ちぇー」


 ドアを開けば、いつの間にか廊下の窓の外にゼルガードが立っていた。いつも手を変え品を変え、マオは男子寮に忍び込んでくるのだが……流石に今日は目立ち過ぎている。

 そして、月明かりに立つナユタの姿に、他の部屋から出てきた少年たちの目は釘付けだ。

 月と星とが象るシルエットは、まさに太古の女神像そのものなナユタだった。


「おーい、ナユター? ごめん、アタシやっぱ帰れってさー」

「わかりました、マスター。お部屋までお送りします」

「んーん、下まで下ろしてくれるだけでいいよ。ごめんね。それより……ナユタ、本当にゼルガードの中でいいの?」

「……私はゼルガードからは離れられないんです」


 そう、ナユタは妙な太いひもでゼルガードの中と繋がっている。ある程度紐は伸縮自在のようだが、どうもゼルガードからは離れられないようだった。

 窓から出てゆくマオを見送り、やれやれとウモンは溜息を一つ。

 無邪気に手を振るマオを手に乗せ、ゼルガードは振動と足音を残して去った。

 他の部屋の連中も、一人、また一人と戻ってゆく。

 程なく消灯時間となって、今度こそウモンはベッドに沈んで寝入った。


「はあ……とりあえず明日、ウラニア先生に事情を説明しよ。ついでにインリィ先生にも」


 ベッドで毛布にくるまり、目をつぶる。あっという間に睡魔が訪れ、ウモンは夢へと旅立った。

 疲れている時は夢も見ない、どろのように眠るなどというが。

 だが、今夜は律儀にも、先程学生寮の共有スペースで起こった日常が再現された。





 夕食時の食堂は、若き少年少女でごった返していた。王国中から召喚師を目指して、もの凄い数の子供たちが留学してくる。しかし、召喚師となれる者たちは数えるほどだ。

 それでも見やれば、そこかしこに人間と同じくらい、亜空魔の姿がある。

 向こうのテーブルでは、女子会といった雰囲気の中で精霊種エレメントのシルフが宙を舞っている。かと思えば、こっちのテーブルには魔獣種ビーストのウェアウルフを執事代わりにするお坊ちゃんもいた。

 因みに、昼間のザフィールみたいな金持ちは、ここにはいない。


『うし、洗濯物はこれで全部か? マオ。あんま溜め込むなよ』

『エヘヘ、ごめーん。学術院にもってると、どうしても』

『お前、また先生たちの研究室に出入りしてるのか? どうだ、楽しいか』

『うんっ! 今、亜空間形成の限界強度について研究してて』


 食堂でウモンは、マオからバスケットいっぱいの洗濯物を受け取った。シャツも下着も大量に積み重なってて、ちょっとした小山である。そんないつもの光景を、誰もが冷やかすように笑って通り過ぎていった。

 マオは、家事全般が全くできない。

 それどころか、ウモンが世話を焼かないと生きていけないのだ。

 天才ゆえのアレなのか、マオは生活力というものがゼロだった。


『先に飯食ってろよ、すぐ洗ってくる』

『えー、あとででいいよ。一緒にごはん食べよ?』

『洗濯場も夜は結構混むんだよ。それとな、マオ。せめて下着くらいは自分で洗ってくれよ』


 妹の下着なんかに興味はないし、裸を見たって動じない。

 と、思う。

 少し自信はないが、そうでなければいけない。

 ただ、見た目と才能以外はダメ人間なマオが、いつかは好きな人と添い遂げることがあるかもしれない。そんな時、せめて身の回りの自分のことは自分でできる淑女レディであったらと思うウモンだった。

 とりあえず、洗濯物を抱えて洗い場へと向かう。

 その後ろを、幼い頃からずっとそうだったようにマオがついてきた。

 まるで子犬である。


『ねね、アタシから先生たちに言ってあげるよ! 今日はあれ、ザフィール先輩が邪魔しなかったら成功してたもん』

『そんなのわからないだろ。それに、お前は自分のことに集中しろな? 俺は、自分のことは自分でなんでも解決する。お前もできるだけどうしてみてくれ』

『はーい! ……明日から、そうする。ように、してみる。あっ! それでねお兄ちゃん』

『なんだ? まだなにかあるのか』

『部屋の方をそろそろ、ね? こぉ、お掃除したいなあ、って』


 勿論もちろん、お掃除したいなと言っても、やるのはウモンだ。

 女子寮に忍び込むのはいつも気が重いし、バレたら本当に除籍処分である。

 だが、放っておくと本の山と論文の束でマオの部屋は埋まってしまう。料理を持ち帰って皿が返ってこないと食堂からは怒られるし、洗濯物に臭いやカビの心配もあった。

 天は二物を与えずとは、よくいったものである。


『……わかった、今度掃除に行くから』

『一応ね、アタシも頑張ったの! ノームを召喚して、よろしくーって』

『あのなあ。召喚術をしょうもないことに使うなっての』


 悪びれずに笑うマオは、確かにまぶしかった。

 黙っていれば可憐な美少女だし、遠目に見れば男子たちの溜息は無限に連鎖してゆくだろう。こんな妹に、一人でも友達がいてくれたらと思うウモンだった。

 そうして今日も洗濯をしてやって、一緒に夕食を食べた。

 健啖家のマオはよく食べるし、ウモンも無意識にほおのソースをナプキンで拭ったりしてやる。いつものこと、幼少期からの変わらない兄妹きょうだいの営みが夢に浮かんでいた。

 だが、そんな微笑ほほえましい光景が突然中断される。





 意識が戻った原因は、自分にのしかかる重さだ。

 ひんやりとしたなにかが、馬乗りになってくる。

 ウモンは寝ぼけた頭で、真っ暗な部屋に身を起こした。


「おい、マオ……お前なあ。いい歳頃なんだから、そろそろ兄離れを」


 だが、そこには妹の姿はなかった。

 マオではないなにかが、のそりのそりとウモンの上に這い寄ってくる。

 なにがなんだか、一瞬理解が及ばない。

 まだ夢の中なのかと思ったが、そうではなかった。


「クッ、なんだ!? いやこれ、絶対マオの仕業だろっ! ……な、訳ないか」


 マオはいつも豪快に空回りしているが、いつでもウモンのことを想っての行動だった。迷惑だというのは結果論であり、ある意味では当然の結果だが……好意しかないのが悩みのタネなのだ。

 つまり、いくらあのマオでもこんなことはしない。

 闇にうごめくなにかは、恐らく召喚された亜空魔だろう。

 だとしたら、マオじゃない……マオは、召喚されたハーピィやウンディーネでさえ、嫉妬の対象にするだろう。ウモンの上にサキュバスがまたがっていたら、発狂する。まちがいない。断言できた。


「と、とりあえず、俺から離れ、ろっ!」


 押しのけようと伸ばした手が、ムニュリと柔らかさに触れる。

 冷たくて、弾力に満ちた感触だ。

 そして、そのままズブズブとウモンは肘まで吸い込まれる。あっという間に、不定形の何かがウモンの全身をくまなく覆って飲み込まれるのだった。

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