元カノ・トライアングル


「――きーくん♡」

 

 始業式の翌朝、俺が目を覚ますと目の前に雪鳥の顔があった。


「…………」


「…………」


 一拍……二拍と、静寂が満ちる。


 寝起きで脳の処理が追い付いていない俺は、たっぷり十秒かけてこれが夢ではないと認識する。


 鼻先が触れ合いそうな距離に、雪鳥の均整の取れた顔立ち。

 とても可愛らしい穏やかな微笑み。健康的に艶めいた桜色の唇。重力に引かれて垂れたなめらかな髪が、俺の頬をさわさわと撫でている。


 ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「…………え、なにやってんの、雪鳥……」


 驚きを通り越して困惑しかなかった。


 恐る恐る雪鳥から距離を取って体を起こした俺に、彼女は一瞬不満げな表情を浮かべたあと、また笑みを浮かべて言う。


「見ての通り、だらしなくて起きられないきーくんを起こしに来ました」


 雪鳥は、壁掛け時計を見やる。


 現在の時刻は、俺が昨夜アラームにセットした時間を十五分あまりオーバーしている。

 今ならまだ、ギリギリ朝食を取って学校に行く余裕がある。


「それは、なんというか、起こしてくれてありがとうと言うべきなんだろうけど」


「うん、えへへ、どういたしまして」


「……そもそもなんでウチにいんの?」


「きーくんと一緒に学校に行こうと思ってここに寄ったら、おばさんが入れてくれて、きーくんがまだ寝てるみたいだったから、わたしが起こしてきましょうか? って言ったの」


「あぁ、そうですか……」


 何となく事情は理解したが、妙に釈然としなかった。


 起こしてもらう身でおこがましいのかもしれないが、緋彩と言い、雪鳥と言い、勝手に部屋に入ってこられるのはマジで困る。


 俺も、その、年頃の男の子なので、プライバシーというものがですね……。


「ていうか雪鳥って今どこに住んでるの? 昔の家ではないんだろ?」


 囲夜家は昔ウチの斜め向かいに住んでいたのだが、今その家には別の家族が住んでいる。


「うん、おばあちゃん家なんだけど。でもここからは歩いて行けるくらい近いよ」


「へぇ」


「だからわたし、毎日でもきーくんを起こしに来れるよ」


「毎日起こしに来るつもりか?」


「うん」


 当たり前のように頷く雪鳥。


「だって昔はそうしてたでしょ?」


「いや、昔は確かにそうだったけども……」


 よくよく思い返すと、小学生の時は毎日のように雪鳥に起こされていた。


 別に雪鳥に責任を押し付けるつもりはないのだが、俺が早起きを苦手とする原因の一端は少なからず彼女にあるような気がしてならない。


 でも、それと今後俺が雪鳥に起こしてもらうか否かは別問題である。


「雪鳥の気持ちはありがたいんだが、流石にそれは遠慮したい」


「なんで?」


「昔と今は、違うので」


「ふむ」


 雪鳥が思案げに手を顎に添える。


「なるほど、分かりました」


「分かってくれましたか」


「うん。でもわたしの気持ちは、昔からずっと変わってないんだよ?」


 ジッと俺の目を見て、からかうようにくすりと微笑む雪鳥。その笑顔の華やかさにドキリとさせられ、体の芯に熱が帯びた。


 何かに期待してしまいそうだった。


 そして、きっと期待してもいいのだろうという予感があった。

 それが底なし沼だと分かっていながらも、騙されたくなってしまう。


 ――だから、その甘ったるい感情を静かに押し殺す。


 俺は一息吐いてから、「からかうなよ」とあえて軽い口調で雪鳥の今の台詞を流した。


 すると雪鳥が「むぅ……」と不服そうに唸る。


「きーくんがスれちゃってる……。昔はあんなにうぶで可愛かったのになぁ。やっぱりあれかな、わたしと別れたあとにわたし以外の女と付き合ってたからかな? しかも、二人もだよ」


「……その言い方だとまるで俺が二股したみたいになってるけど違うからな? 二人ともちゃんと真面目に付き合ってたつもりだから。お前も知ってるだろ……」


 雪鳥には連絡を取り合う中で、女の子と付き合っていくためのアドバイスをもらったことが何度かある。


 その流れで、雪鳥は俺に付き合っていた女の子がいることを知っている。


「でもこの前フラれちゃったんだよね。かわいそうなきーくん」


「……あの、それに関してはまだ傷が癒え切っていないのであまり触れないでもらえると」


 そうでなくても昨日の晴花と雪鳥のやり取りが思い出されて胃が痛い。


「なるほどー、きーくんはまだ傷心中なんだね」


 雪鳥がくすりと微笑んで、ベッドに腰を降ろしてきた。すすっと俺との距離を詰めて、身をすり寄せてくる。


「わたしが慰めてあげよっか。おはようのちゅーでもする?」


「…………しない」


「あ、今ちょっと迷った? もしかして昔のこと思い出しちゃった?」


「アホか」


 距離が近い雪鳥の額を手でそっと突き返して、俺はベッドから降りた。

 いい加減切り上げないとせっかく起こしてもらったのに遅刻する。


 おでこを手で押さえながら雪鳥が唇を尖らせた。


「むぅぅ。きーくんのあしらい方、なんか手慣れてるって感じで複雑だなぁ」


 誰のせいだと思ってんだよ……。


「まー、いいや。早くしないときーくんが朝ごはん食べる時間なくなっちゃうもんね」


 軽い口調で言いながら立ち上がった雪鳥は、勝手知ったる様子で俺より先にクローゼットを開けて制服を引っ張り出してくる。


 いや、あの。あの……。


「はい、きーくん」と、身支度用の一式を手渡される。


「…………」


 言いたいことは色々あったが、時間も時間なのでその全てを一旦呑み込むことにする。

 だが、これだけは今言わねばならなかった。


「あのさ、雪鳥」


「んー? なぁに? きーくん」


「着替えるから、出てってもらえますか」


「あ、見てちゃダメ?」


「バカなの?」



 ◆〇◆



 太陽が燦々と輝く快晴の空の下。


「――あ、きーくんちょっと待って。まだ寝ぐせが」


「――お前は俺の母親かッ!」


 四空高校の校門前、一人の女子生徒が背伸びをして、男子生徒の髪に手を伸ばしていた。

 単なる偶然か、はたまた神の悪戯か。そのやり取りは、当の男子生徒――天本季刹の元恋人である朝野晴花の視界内で行われていた。


 傍目には――少なくとも晴花の目には、それは仲睦まじい男女のカップルが人目もはばからずイチャついているようにしか見えなかった。


 ……何なら、あの女の季刹に対する距離感は、彼と付き合ってた当時の晴花より近いように思われた。


「…………」


 カバンの取っ手を握る晴花の手に、ギリギリと万力のような力がこもる。


(なんなの、あれ……ッ)


 頭が沸騰するかと思った。胸の奥が引き絞るような痛みを訴えている。


 確かに――。確かに、だ。


 季刹に別れを切り出したのは――晴花自身は牽制のつもりだったとは言え――晴花の方からである。


 そして、季刹がそれをあっさりと受け入れたのがたったの二週間前。


 ……たったの、二週間だ。


 その間、晴花は四六時中季刹のことを考えて眠れない夜を過ごし続けているというのに、何なのだアレは。


 …………分かっている。自分が悪かったのは分かっている。


 もっと構って欲しい――そのたった一言が言えず、どうにも捨てきれない妙なプライドのせいでとち狂った最悪手に出てしまった自分が愚かで悪いのは、分かっている。


 それでも、付き合っていたカノジョと別れてたったの二週間で次の女に切り替えているあの男を見ると、今すぐアイツの頬を張り倒して「バカ」と叫びたい衝動に駆られる。


「――っぅ」


 その時ふと、晴花の頭にとある可能性が浮かんだ。


 もしかすると季刹は、あの女――季刹の元カノだの何だのと薄ら笑いを浮かべて宣っていた囲夜雪鳥とかいう腹黒そうな女――と、浮気していたのではあるまいか。


 季刹は晴花と付き合いながらも囲夜雪鳥に絆されていて、最近の彼の心が雪鳥に移っていたから、季刹は晴花との関係を少しも進めようとせず、晴花が切り出した別れ話をああもあっさりと受け入れたのだ。


 一度その可能性に思い至ってしまうと、もうそうとしか思えなかった。


 だって、あまりに辻褄が合い過ぎている。


(……どうせ、あの胸に誘惑されたんだわ)


 晴花は視界の先――季刹の隣にいる雪鳥の豊満な胸元を射殺すように睨みつけた。


 男の性欲の強さと単純さは晴花も理解する所である。


 男が巨乳に弱いというのも、春休み中に調べた何かの恋愛指南サイトに書いてあった。


 晴花は自分の容姿とスタイルにこそ絶対の自信を持っているが、胸の大きさは平均の域を出ない。


(あのバカ……ッ)


 晴花が心中で叫び、季刹に視線を飛ばした瞬間――、季刹がビクリと肩を震わせ、こちらに振り返る素振りを見せた。


「っ!?」


 咄嗟に晴花は校門横の塀の陰に隠れる。


(どーしてっ、私が隠れなきゃいけないの!?)


 そう思いながらも、体は勝手に動いていたのだが――。ドスンっ、と。慌てて塀の陰に飛び込んだ晴花は、誰かとぶつかってしまった。


 衝撃によろけた晴花は、目の前で転倒しそうになっている小柄な少女を反射的に支える。

 癖っ毛の長い髪が特徴的な、メガネをかけた大人しそうな少女だった。


 顔は前髪に覆われ、表情があまり窺えない。晴花と同じ制服を着ているが、リボンの色が違った。一年生だ。


「……ごめんなさい。周りを見ていなかったわ」


「す、すす、すみま、せん……。ぼ、ボクも、ちゃ、んと見てなくて、慌てて、あ……ぅ」


 顔を真っ赤にした少女は、消え入るような声で言った。


「ほ、ほほ、ほんとにすみ、ませんでした、ぁ……っっッ」


 そして少女は逃げるようにして校舎の方へ駆け抜けて行く。


「…………」


 しばらくぼんやりとしていた晴花がはたと気付くと、季刹と雪鳥の姿はどこにも見えなくなっていた。


 一体私は何をやっているのだろう……と、晴花は泣き出したい気分だった。



 ◆〇◆



 ゾクリ――と、背筋が凍えた。


 素晴らしい陽気の春なのに、まるで真冬のような冷気を感じた。本能的な危機を感じて、反射的に振り返る。


「…………?」


 しかし特に何も目立った光景はなかった。


 和やかに校門をくぐる高校生たちの、実にありふれた登校風景しか見当たらない。


「なんだ……?」


「どうしたのー? きーくん」


 陽だまりのような声で、隣の雪鳥がのんびりと言った。


「いや……、何でもない」


「そう? あぁ! きーくんほら見て!」


 突然声量を上げて雪鳥が斜め前の空間を指差す。


 その時、誰かが駆け抜けて行く慌ただしい足音が聞こえたが、雪鳥の声に気を取られてその主を確認することはできなかった。


「……なんだよ、雪鳥」


 雪鳥が指差す方を見ても、ちらほらと葉が混じり始めている桜があるくらいだった。


「うん、もう葉桜になりかけてるなぁって」


「え? あぁ、そうだな。まぁでもそんなもんだろ。春と言えば四月って感じはするけど、実際桜が旬なのって三月末くらいだよな」


「そうだよねぇ」


「…………それだけか?」


「うん、そうだよ」


 にっこりと温かな微笑みを見せる雪鳥。


 たぶんそれだけじゃない気がするが、こういう時はどうせ詮索しても無駄だ。


「分かったよ」


「ふふ、きーくんのそういう所、わたし好きだなぁ」


「俺はお前がたまに怖いよ」


「やだなぁきーくん。わたしはただ、きーくんのことが大好きな至って普通の女の子だよ?」


「そうですか……」


「そうなんです」


 うんうんと頷きながらさりげなく俺の腕を取ってこようとする雪鳥の手を躱す。


「あのさ、一つだけ言っておきたいことがあるんだけど」


「ん、なぁにきーくん」


「頼むから、晴花とは穏便にしてくれ」


「それは、こんなにカッコよくて世界一素敵なきーくんを身勝手にフッて傷つけた朝野晴花ちゃんのことでいいんだよね? 昨日ちょっとだけ喋ったあの子」


「いやそういうとこ! そういうとこ怖いんだってお前は!」


「ふふ♡ 冗談だってばきーくん」


「お前の場合は冗談にならないんだよ……」


 小学生の時、俺が雪鳥と付き合っているのを知りながら俺にちょっかいかけてきた女子を、大勢が見てる前で笑顔のまま淡々と言い負かして号泣させたのを覚えてないのかこいつ。


 あの瞬間、俺は恋愛が絡んだ時の女子の恐ろしさを思い知った気がする。


 あの時の雪鳥の相手はちょっと気が強いだけの普通の女の子だったが、晴花はただ気が強いだけの女子ではない。

 仮に何らかのキッカケで雪鳥と晴花がぶつかったとして、どんな惨事が引き起こされるのか全く予想できなくて怖い。


「俺の味方してくれるのは嬉しいけど、本当に余計なことはしなくていいから」


「大丈夫だよ。わたし、きーくんが本気で嫌がるようなことだけはしないから」


「俺以外が嫌がるようなこともやめなさい」


「……だめ?」


 上目遣いで媚びるように見つめてくる雪鳥。


 どう考えてもわざとやってるが、それでもちょっとぐらっと来てしまう自分が情けない上に言ってることは何も可愛くない。


「ダメ」


「うーん。きーくんがそう言うなら、分かった」


 雪鳥は少し不服そうながらも頷く。


「晴花ちゃんときーくんのことはあくまで二人の問題で、わたしは単なるきーくんの幼なじみってことで、いいんでしょ?」


「幼なじみの物分かりがよくて大変助かります」


「うんうん。すっごく偉いね、わたし。撫でてくれてもいいよきーくん、ほらほらほら」


 ぐぃぃと頭を差し出してくる雪鳥の額を押し返す。


「撫でない」


「じゃあ、もう一回わたしと付き合ってみる?」


「みない。じゃあ、ってなんだよ……」


「じゃあ今他に気になってる人はいないの?」


「いない」 


「そっかそっか。でも気になる人ができたらちゃんと応援してあげるから教えてね。わたしはいつでもきーくんの味方だから」


 からかうように、雪鳥が微笑みかけてくる。


 随分と付き合いが長い俺でも、たまに雪鳥のどこまでが冗談なのか分からない時がある。

 だが、俺をからかうことで楽しんでいる節があるのは間違いない。


「雪鳥も俺ばっかに構ってたらカレシなんてできないぞ」


 自分の恋愛こそもうこりごりだと悟った俺だが、他人の恋愛まで否定するつもりはない。


 緋彩には色々と捻くれたことを言ったものの、幸せな形が最後まで続く恋愛がこの世に存在し得ることも知っている。


 まぁかなり稀なパターンなんだろうけど。


「うんそうだね。きーくんより素敵なひとが見つかったら、考えてみるね♡」


 繰り返し、からかいの笑みを浮かべる雪鳥だった。





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