The Introduction To One Of Three Ex-Girlfriends Of His~常昼雨月~
『え……』という、先輩の戸惑った表情が、雨月のまぶたの裏に鮮烈に焼き付いている。
今日は高校の入学式だった。
しかし入学式の内容も、そのあと教室に移動して行われたHRの内容も全然覚えていない。
初めて見る顔ばかりのクラスメイトたちの前で行った自己紹介も、自分がどんな言葉を発したのか、そもそもまともに喋ることが出来ていたのか、全く頭に残っていない。
自室のベッドの上で布団を被って丸くなる雨月の頭の中にあったのはたった一つ。かつて恋人だった先輩のことで――。
……そう、確かに恋人だった。
先輩は、人生で初めてできた雨月のカレシだった。
先輩と付き合っていた当時のことを、雨月は今でも昨日のことのように覚えている。
先輩にかけてもらった言葉を、先輩と遊びに行った場所を、先輩と触れ合った時の感触を、先輩と過ごした全ての時間を、鮮明に記憶している。
先輩は雨月にとっての全てだった。そしてそれは今も同じである。
――常昼雨月という少女の特徴をまず一つ挙げるなら、それは自己評価が恐ろしく低いということだ。
背が低かったり、間抜けだったり、胸が小さかったり、癖っ毛だったり、空気が読めなかったり、何かと地味だったり、人には言えない趣味があったり、コミュ障であったり――などなどなど。
雨月が己に感じているコンプレックスは枚挙に暇がない。
しかしながら、そんな雨月にも奇跡が起こって、カレシがいた時期があった。
中学生の頃、雨月と付き合っていた男の名前は
雨月より学年が一つ上の先輩であった。
季刹はいつ見てもカッコよく、消極的な雨月と噛み合うような積極性を持ち、それでいてちゃんと気遣いもしてくれて、いつでも存分に甘えさせてくれて、言い過ぎでも何でもなく雨月にとって理想のカレシそのものだった。
……そう、あまりに理想的過ぎた。一緒にいる時間を重ねれば重ねるほど、限界を越えて季刹を好きになっている自覚があった。
付き合って二か月も過ぎる頃には、雨月が季刹に対して抱く想いは溢れかえり、自分でも抑えが効かなくなっていた。それはもう、我のことながら怖くなるほどに。
(――先輩のことが好きすぎておかしくなりそう……)
雨月の一挙一動は季刹の一挙一動に左右され、季刹の発する言葉一つ一つが雨月の思考を掻き乱した。
季刹が自分以外の誰かと喋っているのを見るだけで気が狂うかと思うほど嫉妬した。
その誰かが女でなくても、老若男女誰であっても関係なかった。
季刹の側にいない時間はずっと落ち着かず、文字通り片時も離れず季刹の側にいたいと本気で願っていた。
……明らかにおかしくなっていた。
それを自覚してなお、まだまだ季刹を好きになっている自分が恐ろしかった。
自己評価の低い雨月は自分が季刹と釣り合っていないと常々考えており、だからこそ自分より魅力的な誰かが季刹を奪っていく未来をよく予感していた。
いずれ来たるその日が来てしまった時、自分がどうなってしまうのか想像できなかった。
そして、季刹を永遠に自分のものにしたいと考えるあまり、季刹を殺して自分も死のうかと真面目に考えている己にふと気付いた瞬間、もうこれはダメだと思った。
(――このままだとボク、ほんとに先輩を殺しちゃうかも……。それはダメ。絶対ダメ)
何より、ただでさえ魅力がほとんどないのに、こんなヤバいことまで考えてしまうめんどくさい女と一緒にいては――、
この先きっと際限なく迷惑をかけ続けてしまうこんな女と一緒に居ては、季刹が幸せになれる訳がないと思った。
季刹を真に愛する雨月が一番に望むことは、あくまで季刹自身の幸せであると――そう己に言い聞かせた。
だから雨月は、季刹と別れることにしたのだ。
季刹と別れることを決めた雨月は彼に『別れたいです』と切り出した。
だが、季刹は中々それを受け入れようとはしなかった。
別れたくないとすがってくる季刹に甘えてしまいそうになる前に、その甘い誘惑に溺れてしまいたくなる自己を押し殺して、雨月は離縁の手紙を書くことにした。
コミュ障である雨月は自分の想いを素直に伝えるために、頻繁に手紙を書いて季刹に手渡すということをしていた。伝えたいことをまともに伝えられず悩んでいた雨月に、季刹が提案してくれたことだった。
己の本音を伝えるために書き始めた手紙に、雨月は季刹と速やかに別れるためのウソをしたためた。
(――先輩、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
そして、心の中でひたすら季刹に謝り続けながら書き上げた手紙を彼に渡し、雨月は季刹との接触を自ら絶ったのだった。
「…………………」
季刹と別れた時のことを思い返し、雨月はこれで良かったのだと思う。
だが、今日季刹と顔を合わせてしまったのは完全に想定外だった。
季刹と別れて以降、雨月は季刹に関する情報を完全にシャットアウトしていた。
彼の妹の緋彩にも、季刹に関することは絶対に話さないで欲しいとお願いしていた。
そう、現実の季刹を知ることで、彼と復縁したいという想いや、彼と関わる者たちに嫉妬の念が湧き上がってしまうのを避けるために。
だからまさか、自分の受験した高校が、まさか季刹と同じところだとは思ってもみなかった。
〝現実の季刹〟のことはずっと考えないようにしていたから。
今日、現実の季刹を見てしまったことで心の底から湧き出し渦巻く諸々の感情を、雨月は胸に手を押し当てながら何度も深呼吸を繰り返すことで抑え込み――封じる。
(明日からは、絶対に、先輩とは会わないようしよう、見ないようにしよう、知らないようにしよう。先輩とボクは学年も違うんだし、会おうとしなければ、そうそう会うこともないよね。今日のはあくまで偶然だから。大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ……)
「…………よし」
どうにか平静を取り戻した雨月は、被っていた布団から顔を出した。
窓の外は夕焼け色に染まっていた。
斜陽が赤く照らす室内の壁は――、季刹の写真で埋め尽くされている。
雨月はスマホから伸びたイヤホンを耳に押し込むと、季刹と付き合っていた頃に録音した彼の音声を再生し始める。
写真や思い出の中にいる季刹になら、現実の季刹と違って、気が狂いそうになるほど心を乱される心配がない。
雨月の頭の中にいる季刹なら、片時も離れず雨月だけに愛を注ぎ続けてくれる。
安心だ。
『――好きだよ、雨月ちゃん』『――雨月ちゃんって本当に可愛いな』
「……っぅぅぅ。えへ、えへへへ、ふぇえへへへへへ。せんぱぁい……」
――
元カレのことを忘れることができず忘れるつもりもない、全力全開後ろ向き少女であった。
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