再会と再開の春


 ざわざわという騒めきが渦巻いていた。

  一緒のクラスで良かったとか、離れたとか、これからよろしくとか、そんな声がそこら中から聞こえてくる。


「――え」


  校舎横に張り出されていたクラス分けの張り紙を見て、俺の胸中には激しい動揺と困惑が去来していた。


 ――俺の心を波立たせる要因は、主に二つ。


 一つは、二週間ほど前に別れたばかりの俺の元カノ――朝野晴花とまた同じクラスになってしまったこと。

 もう一つは、小学校卒業と同時に親の仕事の都合で遠くに引っ越したはずの幼なじみの名前が、俺と同じ二年B組の欄に記されていたことである。


 ――囲夜かこいや雪鳥ゆとり


 こんな珍しい名前が他にも、それも俺と同学年にいる可能性は極めて低いと思うが、かといって、この氏名が俺の思い浮かべる本人のものであるとも考えにくかった。

 だって雪鳥はもっと遠い別の高校に通ってるはずだし、今でも定期的に連絡は取り合っているのだから、地元に戻ってきて俺と同じ高校に編入することになった――とかなら事前に連絡があるはずだ。


 ……そのはず、だが――。


 そんな風に俺が頭を悩ませていた、まさにその瞬間だった。


「――きーくん♡」


 ふよん、と。やわらかくて弾力のある何かに背中を包まれる。

 耳の側で弾けたくすくすという笑い声には、聞き覚えがあった。


「……え?」


 背後から手を回してくる誰かから逃れ、一歩距離を取る。そこにいたのは一人の少女。

 照れくさそうに微笑んでいるその顔を、俺が見間違えるはずもなかった。


「な、なんで、雪鳥が……」


「えへー、びっくりした?」と、彼女はいたずらが成功した子供のように口元を綻ばせる。


「いや、そりゃ……」


 俺の困惑は加速するばかりだった。

 目の前にいるこの少女は、俺が知っている囲夜雪鳥本人だ。最後に会った時と比べて確かに成長はしているが、間違いない。


 ――ということは、つまり……?


「え、転校?」


「うん、そうだよ」


 前髪を指先で整えつつ、雪鳥が頷く。晴れやかな笑顔だった。


「そんな話聞いてないんだが……」


「だってきーくんを驚かせようと思って言ってなかったから」


 あっけらかんと言う雪鳥。


「あぁ、そうですか……」


 そういえば雪鳥は昔からいたずら好きの気質があった。


 雪鳥の話によると、諸事情でまたこっちに戻ってくることになったらしい。


「直接会うのって前にわたしがちょっとこっち来た時以来だから、二年ぶりくらいかな? それにしても、きーくんおっきくなったねぇ。びっくりだよ」


 めいっぱい背伸びして腕も伸ばした雪鳥が、指先で俺のつむじをなぞってくる。


 さらりと揺れたセミショートの髪から、シャンプーかリンスの甘い香りが漂う。ブレザー越しにブラウスを押し上げている雪鳥の胸が眼前に強調され、咄嗟に目を逸らした。

 そちらも随分大きくなられたようで……という台詞を胸の内に留める。


「あれ、筋肉も結構ついた? カッコよくなったねぇ。えへへ」


 今度は俺の腕を取ってさわさわと揉み始めた雪鳥は呑気そうにしているが、俺はそれどころではなかった。

 去年までは学校にいなかった可愛い子と親し気にしている俺に好奇と妬みの視線が集まっているのが原因……ではなく――。


 俺が逸らした視線の先に、別れたばかりの元恋人――朝野晴花がいたからだった。


 晴花の視線は誤魔化しようがないほどしっかりとこちらに向けられていて、あろうことか、こちらに近付いてきている。


 ――一体、どういうつもりなのか。


 最近まで恋人だったとは言え、俺と晴花は互いの了承の上に穏便に別れたのだから、この状況に後ろめたいことなんてないし、そもそも俺は今更雪鳥と色恋どうこうの関係になるつもりはない。

 服の上からでも主張してやまない雪鳥の胸に一瞬気を取られたことは認めるが、今の俺はそんな浅はかな男の欲に惑わされたりはしない。

 理性的人間になるのだ、俺は。断言してもいいが、やましいことは何もない。


 だけどなぜだろう。こちらを射抜いている晴花の冴えた眼光を見ると、冷や汗が止まらない……。なに、え、怖い。こわい。心臓痛い。


「ん、きーくん、どうしたの?」


 俺の様子がおかしいことに気付いた雪鳥が首を傾げる。


 それと同時、すぐ側までやってきた晴花が俺に声をかけた。


「――久しぶりね、季刹」


「あ、あぁ……、ひさしぶり、晴花……」


 俺の周囲にあった喧騒はいつの間にか小さくなっていて、多くの視線がこの場の三人に注がれていた。


 俺と晴花が付き合っていた事実は校内にも広まっていたので、それを踏まえた上での発言だろうが、どこかの誰かが「え、修羅場……?」と呟いていた。


 違う、修羅場ではない。断じて違う。


 声を大にしてそう叫びたい気持ちを堪えていると、雪鳥が俺の服を引いた。


「きーくん、この人ってもしかして……?」


「あぁ、うん、いや……、えっと……、なんと、言いますか……」


「あなたがこの男の何なのかはどうでもいいけど、一応自己紹介しておくわ。私は朝野晴花、この男……季刹と交際して〝いた〟ことがあるわ」


 過去形の部分にアクセントを置いて、晴花が告げた。それを聞きとったらしい観衆がザワリと揺れる。

 分かっちゃいたが、こうして改めて晴花の口からお互いの関係性を聞かされると、どうにも、こう、くるものがありますね……。


 あと、晴花のファンだと思われる男子共が歓声を上げているのを見ると、己の中にある俗っぽい醜さが浮き彫りになるようだった。


 晴花はもう俺のカノジョじゃない。だからこの独占欲のような何かはお角違いだ。


 あーいかんいかん、平常心を保て俺。理性だ。己を律するのだ。


 俺が脳内で平家物語を諳んじていると、雪鳥が晴花に穏やかな微笑を向けた。


「あぁなるほどやっぱりかぁ。それは奇遇だねっ」 


「どういうことかしら」 



「だってわたしもきーくんの〝元カノ〟だから♡」 



「――――」



 場の空気が凍り付いた。


 俺にその発言を止める余地はなかった。


 その時初めて、それまで涼しげな顔をしていた晴花の瞳が見開かれた。


 晴花が俺を見て何かを言いかけたが、思い直したように口を閉じて息を吐く。

 再び俺に目を合わせた時の晴花は、まるで俺と初めて言葉を交わした時のように冷たい表情をしていた。


「……まぁ別にもう私には微塵も関係のないことだけど」


「そう? あ、わたしの名前は囲夜雪鳥っていうの。雪鳥って呼んでくれたら嬉しい」


「分かったわ。それじゃあね、囲夜さん、〝天本あまもとくん〟」


 雪鳥と俺に苗字で呼びかけ、晴花が去っていく。彼女の通り道にいた男の先輩が慌てて道を空けていた。


 晴花の背中に、雪鳥が陽だまりのような声をかける。


「これからよろしくねーっ。晴花ちゃん」


 お願いだからやめてくれと、俺は心の中で叫んだ。



 ◆〇◆



 各々が新しい自分のクラスを確認したのち、この先一年お世話になる教室に全員が集まってから、始業式の行われる体育館にまとまって移動した。

 始業式は今日の午後に行われる入学式のことに触れつつ、特に何事もなく進行された。


 その後のHRでは、自己紹介や委員会決めが行われる前に、担任の先生から編入生として雪鳥の紹介があった。

 人懐っこく気さくに行われた雪鳥の自己紹は大変ウケが良く、特に男勢が沸いていた。


 教壇に立った雪鳥に調子よく質問をしているにやけ面の男子共が何を期待しているかは大体想像が付く。


 ――はっ、欲にまみれ無益な労を費やす愚か者どもめ……。


 少し前までの自分に向ける意図も含めて偉そうな思考を弄んでいると、終わる気配のなかった雪鳥への質問タイムを担任が打ち切った。それに続く形で、今度は他の者達の自己紹介が始まる。


 トップバッターは窓際最前列に座っている出席番号一番の晴花だった。

 彼女が席を立った瞬間、ピリッと教室の空気がひりつき、俺のお腹が痛くなる。


 今朝の校舎前での一件が既に広まっているのか、クラスメイトたちがヒソヒソと忍び会話を漏らし、チラチラ俺の方を見ている。

 色恋に関する噂話の拡散速度を侮ってはいけない。これまでにも身をもって痛感してきた。ほんと君らそういう話好きよね……。



「朝野晴花です」


 晴花の自己紹介が始まった。


「よろしくお願いします」


 終わった。



 粛々と着席する晴花。シンと静まり返る教室。数拍の間を置いて、誰かが控えめに叩いた手を皮切りにパラパラと空虚な拍手が起こった。



「………………」



 雪鳥と晴花の自己紹介の落差が酷すぎる。空気が重い。次に自己紹介する井上くんが可哀想で仕方ない。


 始業式当日、二年B組のHRはそんな感じでした。



 ◆〇◆



 HRが終わってすぐ、俺は恋愛脳のクラスメイトたちに質問攻めを喰らう前にと教室から飛び出した。去り際、既に大勢に取り囲まれかけている雪鳥の姿が見えた。


 昇降口から校舎を出ると、ウチのクラスより先にHRが終わっていたのであろう他の二、三年生らが、部活のユニフォームやらを着て、入学式のために集まり始めている新入生たちに勧誘チラシを配っていた。賑やかな雰囲気である。


 構内を彩る桜、風に散る花びら、真新しい制服をぎこちなく纏った新入生はこれから始まる新生活に不安と期待の表情を浮かべ、部活勧誘の声が騒がしい。

 まさに始まりの春という感じだった。


 …………俺の恋はこの前終わったけど。


 ひとりでへっと自嘲をこぼしていると、「あ、お兄ちゃん」という聞き慣れた声がした。

 視線を隣へスライドさせる。

 妹の緋彩と、その背中に隠れて身を縮める女の子がいた。


「――あっ」


 俺と顔を合わせた途端、何かに気付いたように緋彩が手で口を覆った。

 思わず、というように、緋彩が背後にいた女の子に視線をやる。


「え……」と、俺が戸惑いの声を漏らす。


「え……?」と、俺の存在に気付いた女の子が顔を上げる。

 

 長く伸びた癖っ毛の隙間から僅かに覗く瞳が、メガネ越しにきょとんと丸くなった。


 その少女を、俺はとてもよく知っていた。


 ――常昼とこひる雨月うづき


 俺が中学生の時に付き合っていた後輩の女の子である。端的に言うと元カノである。


 まさかウチの高校に進学していたとは……。全然知らなかった……。


「!? ひゅぁあぃあ!?!? せ、せせせせせ、せんぱ――ッ」


 雨月ちゃんが飛び上がる。真っ昼間太陽の下で幽霊に遭遇したかのような反応だった。   

 そのまま雨月ちゃんは俺に背を向け悲鳴を上げながら駆け出していく。


「あ! ちょっと雨月ちゃん待って!」


 緋彩も雨月ちゃんを追って遠ざかっていく。


 つまずいてすっ転びかけた雨月ちゃんを緋彩が受け止めていた。



「……………………」



 俺の周囲にぽっかりと空間の穴が産まれ、今の場面を目撃していた観衆たちが騒めいている。視線が痛かった。心が痛かった。辛い……。


 こんな気持ちになるのは、こんなにも辛いのは、全て恋愛が悪い。色恋なんてものに惑わされるからこうなるんだ。



 やはり、金輪際恋愛には関わらないと誓った今朝の俺は――絶対に正しい。



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