フラれ男とキラキラ妹
「――ちょっとお兄ちゃん、いつまで寝てるの? お兄ちゃんも今日から学校でしょ」
短いようで長く、結局短かった春休みも昨日で終わった。
今日から高校二年生として登校する俺は、自室のベッドで布団にくるまり、陰鬱とした感情を抱えていた。
布団から出たくない。家から出たくない。……あっ! なんか死にたい。
「それともなに? 始業式からサボるつもり?」
しっかり者の妹が俺の布団を強引に引っぺがしてくる。寒い。死にたい。
「うわ……。どういう顔してるのお兄ちゃん。酷すぎるんだけど。まさかまだ晴花さんにフラれたこと引きずってるの?」
はぁと呆れのため息が聞こえる。
妹のくせに手のかかる弟を見る姉のような眼差しだった。
「
呆れ声が淡々と降り注いでくる。
「ホントいい加減にしてよね。ハッキリ言ってキモいしさぁ、普通にキモいし、私も今日から同じ学校通うのに、カノジョにフラれて学校にも行けなくなるような兄が先輩にいるとかマジで恥ずかしすぎるから。ほんとにキモいよ? 自覚してる?」
緋彩の遠慮のない口撃が、俺の傷心にグサグサと突き刺さっている。
「うるっせぇなぁ……」
辛い気持ちから意識を逸らすように出した俺の声は掠れていて、自然と荒んでいた。
「全部分かってるよ。俺だって自分が情けないことは分かってんだよ。お前こそ分かってんのか? それ以上言われると俺は泣くぞ」
「うっわ、キモ……」
ガチのトーンだった。
緋彩がこちらに向けている目線が、汚物を見るものに変わる。
冗談半分で言ったのだが、どうやら冗談にはなってくれなかったらしい。妹の目から見て、今の俺の落ち込みようがそれだけ真に迫っているということか。
まぁ、実際まだ立ち直り切ってはいないんだけどさ……。
晴花と別れる時は虚勢を張って颯爽とした別れを演じた俺だったが、その後の精神的ダメージは凄まじく、この春休みはほとんど何もやる気が起きなかった。
今朝なんて晴花にフラれたあの瞬間を夢に見たくらいだ。自分の未練がましさが嘆かわしくて泣けてくる。
さっさと吹っ切りたいという気持ちはあっても、俺の豆腐メンタルがそれに応えてくれるかどうかは別問題だった。
……失恋、マジ、辛い。
どれくらい辛いかと言うと、この春休みの間、事あるごとに一人薄暗い部屋で布団を被り、『もう恋なんてしない』と『366日』をエンドレスループで聞き続けて涙をこぼすくらいには辛かった。
ペン立てに差さっている万年筆が視界の端を掠め、つい意識を奪われる。晴花が俺の誕生日にくれたプレゼントだった。
――思えば、あの時から晴花は俺のことを『季刹』と名前で呼んでくれるようになったのだったか。
当時の多幸感と今の切なさがリアルに比較されて辛い。いや、辛い。やっぱつれぇわ。
そんな俺を見て、緋彩がまた呆れの吐息を漏らしていた。
温かみを感じられない妹の視線に耐えかねて、俺はいそいそとベッドから降りる。
何だかんだ言いつつも兄を起こしに来てくれた健気な妹を見やっていると、「なに?」と胡乱な目付きが返される。
「いや、お前の入学式って午後からだよな」
「……そうだけど?」
本日、ウチの高校では午前に二、三年生の始業式、午後から一年生の入学式が行われる。
入学式までには時間が空くにも関わらず、既に緋彩は真新しい制服を着用していた。
可愛いと評判のウチの女子制服だが、服に着られることもなくしっかりと着こなしている。
「気合い入ってんな」
「別に」
ふんと鼻を鳴らす緋彩は、ついこの前まで中学生だったと思えないくらいに落ち着いた美人の風格を纏っている。
緩いウェーブのかかった赤茶の髪が、彼女の肩からさらりとこぼれた。カーテンから漏れる陽光を受け、緋彩の頭には天使の輪っかが綺麗に光っている。随分と念入りに手入れされている髪質だと分かる。軽い化粧もしているし、髪先をクルクルいじっている指の爪には、前までは見られなかった艶めいた光沢がある。
色気付いてるなぁ、と思う。スカートも短いし。
中学の時は随分とモテていたらしい緋彩だが、高校でもさぞモテることだろう。
今の緋彩にカレシはいなかったはずだが、どうせその内手頃なイケメンでもたらし込んできゃっきゃうふふとイチャつき始めるに違いない。
――だが、俺は知っている。
恋人とイチャつく甘い時間は、その瞬間こそ至福に感じられるが、後で冷静になって我が身を振り返ってみると正直色ボケた大バカにしか思えない――と。
今この瞬間でさえ、俺は恋愛に振り回されるかつての己の醜態の数々を思い返して死にたくなっている。
目の前に妹がいなければ頭を抱え枕に顔を埋め発狂していた所だ。
未練という名の呪い。身を切られるような後悔の数々。もうたくさんだ。
全部ぜんぶ、恋愛なんていう底なし沼に脳を侵されてしまったことが原因である。
ある人は言った。
失恋しても、また次の恋を探せばいい――と。
でも違うのだ。次の恋を探しても、その恋を失しないという保証はどこにもない。
詰まる所、全ての悪因は〝恋愛〟という一点に収束する。
恋愛なんてものに現を抜かすからこんなにも辛いのだ。それこそが真理だ。
――だから俺は、決めたのである。
「なぁ、緋彩」
「……なに」
「恋なんてものは、一時の錯乱状態に過ぎないんだ」
「………その話、最後まで聞かなきゃダメ?」
緋彩が近年稀に見る嫌そうな顔をしていた。
しかし俺はそれを無視して言葉を継ぐ。
「こんな話を知っているか? 脳を科学的に解析すると、恋愛感情というのは人間が進化の過程で得た感情ではなく、動物が古来より持つ欲求に分類されるそうだ」
「……なんでお兄ちゃんがそんなこと知ってるの」
「春休み中、辛すぎてネットで色々調べた」
緋彩が頭を抱え、「あぁ……」と呻く。
「どうしてこんなのが私のお兄ちゃんなんだろう」と小さな声で呟いていた。切実な声だった。聞かなかったことにする。
「恋愛という沼に落ちた人間は、脳にある恋愛中枢が刺激され、ドーパミンなど人に快楽や幸福感を与える神経伝達物質の産生が促進される、らしい。これだけ聞くと恋愛は良いことのように思えるが、ドーパミンによる快楽には強い依存性があり、一度その幸福感を味わってしまうと他のことに手が付かなくなっていく。さらに、恋愛に脳を侵された人間は、脳の理性を司る部分の働きが鈍り判断基準が曖昧になったり、想い人に負の感情を抱きづらくなったりする、という研究結果もあるらしい。つまりだ、緋彩、分かるか?」
「お兄ちゃんがバカってことなら」
「その通り、恋は盲目というかの有名な文言は、科学的にも証明されている紛れもない事実なんだよ。恋愛なんて、己をどうしようもなく狂わせてしまう無益な呪いでしかない」
「恋愛が人をおかしくするってことは、よく分かりました……」
緋彩が肩を落とし、残念で可哀そうなものを見る目を俺に向けている。
「……で、結局、お兄ちゃんは何が言いたいの?」
「――俺はもう恋愛はしない」
「…………」
「感情ではなく欲求に近い恋愛感情に抗うのは難しいかもしれないが、それでも俺は欲のまま生きる獣ではなく、理性ありし人間だ。もう二度と錯乱まがいの恋心なんぞに振り回されることなく、しっかりと自己を律し、恋人の有無いかんでリア充非リアを区別する薄っぺらいパンピー共とは違う真に充実した生活を送ると決めたんだ、俺は」
拳を硬く握りしめ堂々たる宣言を終えた俺を見て、こめかみを指で押さえた緋彩がこの朝一番の大きなため息を吐いていた。
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