第13話
朝起きて、ゆっくりと背筋を伸ばしながら深呼吸する。冷たい息を体に取り込み、それを温かく変えて排出する。
生の温かさを感じながら意識を覚醒させれば、次にぐぅと鳴るお腹が生の実感を与えてくれる。
そういえば、ここは晩ごはん出るんじゃったの。節約せなばとか言っているわりに二食分食べそびれている自分の迂闊さを感じながら、準備を整える。
背嚢を背負い木剣を提げるだけなので、準備などあってないようなものである。だが武器と呼べるものをしっかりと持つと、それだけでしゃっきりと気分が引き締まったような気になる。
(気持ちの問題なんじゃろうけどの)
爺が物思いに耽りながら歩いていると、すぐに受付が見えてくる。
腰をさすっていた手を小さくあげ、昨日注意されたことを思い出しながら挨拶。
「おはよう、アリスちゃん」
「おはようございます。昨日は随分とお楽しみだったみたいで」
未来の看板娘、アリスの機嫌はあまり良好には見えなかった。やはり昨日、客でもない人間を連れてきたのが悪かったのかもしれない。
「すまんの、なるべく声は抑えたつもりだったんじゃが」
「漏れてましたよ。うちの壁はそんなに防音性能高くないですからバリバリ聞こえてました」
「あー、すまんの」
「ま、いいですけどね」
アリスは許しているのかいないのかよくわからないいつも通りの声音でそう呟いた。
無感情で無表情……というわけでもないのだが、どうにも掴みにくい子である。
いつも受け付けに立っているところを見る限りでは、普通の女の子らしい一面と言うのはあまり見えてはいない。
そういえば、彼女の両親は一体何をしているんだろう。
母親は受け付け横に並んでいるテーブルに料理を運んでいるのを見たことがあるが、彼女の父親に関しては一度も見かけたことがない。
「お父ちゃんは、ご健在かな?」
「ええ、ピンピンしてますよ。……さっさと死ねばいいのに、あんなクソ親父」
「……」
ディルは生まれて初めて、アリスの心からの強い感情を感じた。
彼が見てとったのは憎悪、それも実の両親に向けるものとは思えないほどに嫌悪と侮蔑に満ちたものであった。
どうやらどこにでもあるそこそこのグレードの宿屋と思い入ったこの場所にも、普通ではない事情というものはあるらしい。
まだ年若い女の子に、ディルはそれほど負の感情を溜め込んで欲しくはないと考えていた。
若い頃に色々と経験しておくのは大事なことではあるが、やはり女の子に辛い思いをさせるのは忍びない。そんなことを思えるだけの男としての自分が残っていることに、ディルは少し驚いた。
戦いで本能が揺り動かされたのか、あるいは孫にどこか似ている彼女のことを放っておけなくなったのか。
それはわからなかったが、なんにせよ思うところがあるのは事実。両親を憎むのはよくないこと、そう言って叱るのは簡単だ。だが血の繋がりなどというものは、食べるものに困れば身売りをせざるをえないようなこの世界では、最低限の絆すら保証できるようなものではない。事実ディルも未だにおぼろげに覚えていられるくらいには、自分の両親の苦い記憶が脳裏に焼き付いている。
爺は少し悩んでから、髭をもしゃもしゃした。
もしゃもしゃっとした髭をビローンと伸ばすと、伸縮性に富んだアゴヒゲが綿布のように広がっていく。
「ジジイ、八分咲き」
寒風が吹き荒んだ、そして絶対零度の視線が爺の身体を冷ややかに貫いた。
はぁ、と小さい吐息が耳朶を打つ。
「つまらないですよ、持ちネタですかそれ?」
「いや、今考えた」
「アドリブ補正で、五十点あげます」
「そうかい、それなら上等かの」
人付き合いをせざるを得ない受け付けという仕事ならば、必然人と話す機会は増えるだろう。多分その中には愚痴を話せるような人間も、興味を引くような異性もいることだろう。
(わしと話すことで少しでも、気が紛れるようになればと思ってやってみたんじゃが……やっぱりダメじゃの。ジェネレーションギャップの溝が深すぎる)
いつもより多めに腰を曲げたディルがよぼよぼと宿を出ようとすると、その背中をコンコンと指でノックされる。
振り向いてみるとそこには黒く堅そうな二枚のパンと、そこに挟まれた何かの肉らしい茶色い物体が見えた。
「二日食べてなかったので、これあげます。今後の点数の上昇に関する期待も込めて」
「ほっほっほっ、遠慮なくもらうとしようかの」
爺は葉にくるまれたそれを受けとり、そして宿を出た。
歩きながら早速食べようかのと包みを開いていると、アリスに店の入り口に食べかすを残すなと怒られた。そしてジジイはしゅんとした。
最後までしっかりと締まらないのが、良くも悪くもディルという人間の本質なのである。
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