第2話 チョコ

 学校祭も本番になった。

 いつもよりも一時間早く登校して、みんなで最後の打ち合わせをする。

 外装や内装の飾り付けも完成して、最後は全員で衣装に着替えた。男子はエプロンをするだけだが、女子は袴姿なので一度更衣室へ行き、少しして帰って来た。

 ガラガラ、と扉を開けて女子達が家庭科室に入ってくる。

 その可愛いらしい衣装に、俺達男子は目が釘付けになった。

 女子はそれぞれ色の違う、振袖の袴を着ている。革のブーツがオシャレだ。

 華やかで大正娘という感じがする。

 鮮やかな唐紅の着物を着た誰かが、パタパタと袖を揺らし、俺に駆け寄ってきた。

 マイだ。

 明るい栗色の髪を、頭の上でお団子に結んでいた。横髪が、くりんと巻いてある。 

 マイが切長の目で、ちらりと俺を見た。

 俺は驚いて言う。

「最初、誰か分からなかった」

 マイは振袖を持ち上げ、小首を傾げて俺を見つめる。

「どう、かな」

 俺は周囲の目が気になって、思わず控えめな褒め方になった。

「良いと思う」

 マイは顔を赤くした。

「ありがとう、嬉しい」

 お団子の付け根には赤い花の髪飾りもついている。

 ふだん意識して見ていなかったが、改めてみると、マイは目鼻立ちも整っていて、とても綺麗だ。

 褒められて照れ臭かったのか、マイは背を向けてしまった。

 女子はポニーテールにして、みんな大きなリボンを付けたりしているが、マイのようにガッツリ普段しない髪型にまで変えて、簪(かんざし)のような髪飾りをつけている人は少ない。

 生徒会長も許されるオシャレには全力投球なのが可愛らしかった。

 何かもう少し褒めてあげた方が喜ぶかな、なんて思っていると、凛花がやってきた。

 蒼い着物に、濃紺の袴。

 凛として、背筋を伸ばすその姿は、俺にリンドウの花を彷彿とさせた。

 凛花は俺を見て、ニコリと笑い、駆け寄って来た。

 横髪を三つ編みに編み込んで、後ろに回し、赤い大きなリボンで留めている。

 洒落じゃなくアニメに出て来そうな恰好で、男子はみんな騒いでいた。

 凛花もストレートの黒髪が、少しウェーブ掛かっていて、軽くアイロンで巻いたのだと分かる。

 凛花も本気だ。学校祭に気合が入っているようだ。

 凛花は俺の前に立つと、振袖の手を少し持ち上げて、首を傾げた。

「どっちが好き?」

「ん?」

「私と、マイの格好」

 俺は答える。

「両方良いと思うよ」

 凛花は不服そうに眉を寄せて、腰に手を当てた。

「どっち?」

「どっちも良いよ」

 ここでどちらかを選んで答えたら、角が立つに決まっている。鈍感だと呆れられる俺も、流石にその位は分かる。

 それを見透かしたかのように、マイが振り返り、俺に顔を近づけて問う。

「本心は?」

「ど、どっちも‥‥本当に。選べません」

 俺が白旗をあげると、二人の声が重なった。

「「もー!!!」」


 和気藹々とみんなで最終準備、確認をする。

 机の上にスタンドを用意して、ラミネート加工したメニューを差し込んでいく。

「あっ」  

 マイが小さく声を漏らす。

 俺はたまたま近くにいて、凛花の声に気が付いてたずねた。

「どうした?」

「ちょっと指切っただけ」

 マイは大丈夫、と気丈に笑う。

 俺は鞄から、カットバンを取り出してマイに渡した。

「よかったら使って」

「いいの?」

「うん」

「ありがと」

 マイが指に絆創膏を貼るのを見届けていると、マイが少し笑って俺に言った。

「さすが、用意が良いのね」

 俺は頷いて答える。

「何かあったら大変だからな。消毒液とガーゼと氷嚢袋(ひょうのうぶくろ)も持って来た。何かあったら言ってくれ」

「えぇ、用意しすぎ!」

 マイがアハハ!と声を上げて笑う。

 マイが思い切り声を出す笑いは、心から笑っている時だ。

 俺は冗談で返す。

「マイこそ、笑いすぎだ。俺は真面目に持ってきたんだから」

「そっか、ふふ、頼もしいわ、ありがとう」

 マイは指に絆創膏を貼り終えた後、そっと近づいてきて、小声で言った。

「翔」

「ん?」

「今日、一緒に‥‥後半、回らない?」

「え?俺と?」

「うん」

 去年はマイは同じ水泳部の子と回っていたはずだ。今年もそうだと思っていたが、何故俺?

「二人ってこと?」

「…うん」

「大勢の方が良くない?部活の子は?」

「今回はその、翔と周ろうかなって」

 二人きりだと、マイは誤解を受けるかもしれない。俺もそれは本意ではないし。まあ、そこまで気にしている人も居ないと思うが、マイが何も気にせず楽しめる方が良いだろう。

 俺は考えて、言った。

「凛花も呼ぼうよ」

「呼ばなくていい!」

「え、なんで」

 マイは怒ったように腕を振って言った。

「いっ、一緒に回りたいって言ってるでしょ!!」

「二人だけじゃ寂しくない?」

「寂しくない!二人がいいの‥‥二人がいい」

 マイは少し悲しそうに言った。

 俺は違和感を覚えた。

 そんなに二人きりで回りたいって、友達の付き合いじゃないよな。

 学園祭を男女で楽しむって、普通、彼氏彼女的な感じだよな。

 ‥‥まさか俺を好きとか?

 そんなことあるかな?

 勘違いしてたら恥ずかしいな。

 好きなんて一言も言われた事ないしな。

 でも二人が良いっておかしいよな。

「マイ」

「なに?」

「いや、何でもない。後半回ろう」

「うん!」

 嬉しそうにマイは頷き、タッタッタ、と女子の輪の中に帰って行った。


 俺は厨房に戻り、男子の前半厨房メンバーと、冷凍庫のアイスや冷蔵のドリンクを確認し、みんなで製作した紙のカップを並べて準備をしていた。

 いろいろ気になる事はあるものの、考えても答えは出ない。

 俺が黙々と作業をしていると、仕切りの暖簾をくぐって、誰かがやって来た。

 蒼い鮮やかな振袖を揺らして、丸い猫目で何かを探すように周囲を見ているのは、凛花だった。

 凛花の登場に男子たちは色めき立つ。

 誰も声を掛けられない中、陽キャの男子が凛花の前に立って話し掛けた。

「凛花さん、後半一緒に回らない?」

「えっと、また今度ね!前半一緒に頑張りましょ!」

「えー」

「ごめんね~」

 凛花はにこやかに笑って上手く受け流す。真面目に断って空気を悪くしない所が流石に慣れているな、と思って見ていると、凛花は一番奥に居た俺を見つけた。

 パッと笑ってトトト、と走って来た。

「翔、やっほー」

「凛花、向こうの準備は?」

「打ち合わせは終わったわ。今、自由時間」

「そうか、おつかれ」

 俺が言うと、凛花は目をパチパチさせた後、くるりと体勢を変えて俺の隣に並んだ。

 そして、早口で、小声で言って来た。

「翔、今日一緒に後半回らない?私、合唱部の友達が欠席の子の代打で後半に変わっちゃって、フリーになっちゃったから。暇なのよ」

 思わぬ誘いに、俺は驚いた。

 男子達も耳をそば立てている。

 これはマズイ。

 俺も小声で答えた。

「ごめん、ちょっと先約があってさ」

「え、そうなの?」

 凛花は唇を尖らせる。

「うん、ごめんな」

「うーん」

「クラスの子と回ったら?」

 俺が言うと、凛花は頤に手を当てて考え込む仕草をした。

 もう少し押されるかと思いきや、凛花はあっさりと肩を竦めて言った。

「しょうがないわね」

「ごめんな」

 凛花はぷっと頬を膨らませて帰って行った。

 凛花が居なくなると、それから直ぐ、男子に詰め寄られた。

「おい、お前、どうして断るんだよ」

「だって、先約があったから」

「そんな事言ってる場合かよ、お前ら、イイ感じじゃん」

「え?」

「準備期間もハンカチでペンキ拭いてもらってたりしたじゃん。あんなの絶対、お前のこと好きだよ」

 他の男子も口々に言う。

「放課後とか、海野はお前のこと待ってるし」

「え?」

「昇降口のとこ、いるじゃん。そんで、お前と一緒に帰ってるだろ」

 俺は思い返す。

 あれは普通に部活終わりにエンカウントしてるだけだ。

「家が近所で帰り道も同じなだけだよ。あと部活の終わり時間も最近合ってるだけだよ。本人がそう言ってたし、一緒に帰ろうなんて、言われたことないよ。毎日じゃないし」

「だから、偶然を装ってるんだよ」

「海野はそんな複雑なこと考えないよ。好きになったらハッキリ告白しそうなタイプだし、考えすぎだって。さっきの誘いも、俺が好きなんじゃなくて友達が用事あって、一人になったから、一緒に回らないかって言われたんだよ。俺、海野とは幼稚園から付き合いのある友達だしさ」

 男子達は肩を竦める。

 仲良くなった男子が俺の肩を叩いて言った。

「お前は鈍感なんだって肝に銘じておけ」

「何だよそれ」

「なんか俺、海野を応援したくなってきた」

 ふと、マイのことを思い出す。

 マイは俺のことが好きなのかな。

 俺は鈍感だから、気がする、と思った事は、事実の可能性が高いのかもしれない。

 でも、みんなは凛花が俺を好きだと言う。

 俺は凛花は違うと思う。

 だって、フリーになったから俺を誘ったって理由もあるし、二人きりが良いなんて言われてない。

 凛花は好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、ってハッキリしているタイプだから、デートの誘いならもっと分かりやすく言うだろうし。

 でも、マイの場合は違う。

 凛花を呼ぼうとしたら、二人が良いって言い張るし、理由も俺と周りたいって事だし、流石に変だ。

 みんなは、マイに対しては、そう思わないのかな?

 よく分からなくなってきた。

 でも、そうか、凛花はみんなの前でペンキを拭いたり、俺を誘ったりしてたけど、マイが俺にそういう事を言う時は、二人きりの時が多い。

 みんなは知らないんだ。

 マイは大胆じゃないし、恥ずかしがり屋だ。

 みんながいない時を狙って俺に話しかけていたのかな。

 やっぱりマイは俺の事を気にしているのだろうか。

 俺が悶々と考えていると、チャイムが鳴った。

 いよいよ、学校祭の始まりだ。



 袴を着たクラスの女子が木のお盆を持って働いている。男子は主に片付けと厨房だ。

 俺はお客さんが帰った後、おしぼりなどのゴミを片付け、デーブルを拭く。

 ちらりと女子達を見た。

 マイはお盆を持って飲み物を運び、みんなにニコニコと太陽のような笑顔を振りまいている。

 女の子達だけでなく、先輩の男子集団も来ていたりした。

 マイを見て、「カワイイ〜」と褒める。

 マイはぺこぺことお辞儀をして、「ありがとうございます」と愛想笑いをしていた。

 マイはモテるよな。

 やっぱり俺が好きとか考えられない。

 俺より顔が良いやつなんて、山ほど居るし、マイなら選び放題だ。俺だったらイケメンと付き合う。

 俺は首を振った。

 マイは顔じゃなくて中身で人を見るタイプだ。

 となると、やっぱり俺の可能性はある?

 俺は頭の片隅で考えながら、手を動かした。厨房で冷蔵庫からデザートを出したり、オーブンで温めたりして皿に盛り付け、女子のメニューのメモを確認して、お盆の上に乗せていく。

 時計を見ると11時だった。

 その時、女性の金切り声が聞こえた。

「だから、どうしてって言ってるの!」

 俺は厨房を出て、店内の様子を見た。

 真っ赤な口紅をした、若い子連れの女性だ。

 凛花が懸命に説明している。

「でも、決まっているんです。新品のカップだけを渡すのは無理です。一人だけ特別にする事は出来ません」

「お金は払うって言ってるじゃない!容器だけなのに、どうしてダメなの?」

 凛花は女性の気迫に押されて黙り込む。

 俺は間に割って入り、女性に頭を下げた。

「申し訳ありません」

「謝って欲しいって言ってるんじゃないの!話聞いてる?」

「はい。すみません」

「だから!新品が欲しいって言ってるの!」

「申し訳ありません、それは出来かねます」

 俺はひたすら聞き役に徹し、ひたすら頭を下げた。

「ええ、そうですね。はい。そう思います」

 子供が言った。

「ママ、お化け屋敷行きたい」

「もういいの?」

「うん。早く行こうよ」

 女性はその一言ですんなりと席を立った。

 俺達をギロリと睨みつけ、帰って行った。

 凛花がしょんぼりして言う。

「ごめん。私が最初、まじめに説明しちゃったのが良くなかった」

「そんな事ないよ、凛花は悪くない。気にするな。俺も平謝りしていただけだし」

 凛花は意外にも真面目な所がある。

「あんなの向こうが悪いんだから」

「うん‥」

 俺は元気づけようと、凛花の肩を叩いた。

「頑張ろう、あと少しだよ」

 凛花は顔を上げ、俺を見ると、無言で視線を逸らした。

「凛花?」

 一歩下がって、凛花は言った。

「そうね」

 凛花は踵を返して、静かに接客に戻って行った。

 ちょっといつもと様子が違う気がしたのは、蒼い袴と大人びた髪のせいかもしれない。

 


 再び厨房に戻ると、サボッて前半遊んでいた男子が女子に怒られていた。

 クラスメイトの女子が言う。

「高槻君、休憩していいよ。こいつらに働かせるから」

 女子はサボっていた男子に向き直って言う。

「あんた達の分まで、高槻君が全部やってくれたんだよ!」

 俺は仲介に入る。

「ぜんぜん大丈夫だよ」

「高槻君、もっと怒っていいのよ?てか、怒らないとダメ」

「いや、ほんと大丈夫だから」


 というわけで、俺は交代した。

 ベランダに出て、お茶を飲みながら青い空を見た。

 風が気持ち良い。

 俺は壁に凭れて座り、気付けば眠ってしまっていた。

 花畑で寝転がる夢を見た。

 良い香りがする。

 ちょん、と鼻に蝶々が止まる。

 俺が目を開けると、目の前に誰かの顔があった。

 くるっとした長いまつ毛。

 猫のような丸い黒瞳。通った鼻筋、艶やかな桃色の唇。

 俺が口を開く前に、細い人差し指を俺の唇に当てられる。

 凛花が悪戯っぽく囁く。

「静かに。みんなが来ちゃうでしょ」

 喧騒の中で、凛花の鈴を転がすような声が耳に通って聞こえる。

 凛花は微笑むと、俺の手を導き、さらさらの黒髪に触れさせる。

 指から水が溢れるように、自然とストレートの髪が流れる。息を呑むほどに柔らかくて、シャンプーの良い香りがする。

 小柄な身体とは裏腹に、大きく隆起した胸に毛先が落ちて広がる。

 俺はドキドキする心臓を押し留め、表面上は平然とした風に装い、素直な感想を口にした。

「どうして女の子の髪ってサラサラしてるの?」

 凛花はくすり、と笑い、顔を寄せて問う。

「どうしてだと思う?」

「‥‥努力?」

 凛花は答えずにそっと笑む。

 その時、ガラガラと家庭科室とベランダを繋ぐ扉が開かれた。

 マイだ。

 マイが目を剥いて言った。

「な、な、何してるの!!!」

 俺は慌てて凛花と身体を離す。

 弁明した。

「何もしてない。寝てたら目の前に凛花が居た」

 マイは凛花を見て、怒った。

「し、し、信じられない!!ほんと、あんた、最低!」

 凛花はいつものように、揶揄いモードで言う。

「あらあら、そんな言葉遣いしていいの?翔の前なのに」

 マイは拳を振り上げて、顔を真っ赤にして怒った。

「か、揶揄うのもいい加減にしなさい!ほんとに‥‥ほんとに、怒っちゃうんだから!!」

「ふーん?翔とは話してただけだもの。邪推しちゃうなんて、そんなに翔が好きなの?」

 マイは俺に向き直り、手をブンブン振って言う。

「翔、その、違うから!」

「え?」

「そ、そんなわけないから」

「え、ああ、うん」

 マイが俺を好きっていうのは、やっぱり冗談なのか?

 凛花が俺の腕を引く。

「早く行こー」

 もうよく分からん。

「俺、マイと約束してたんだ。マイ、どうする?」

 マイはため息をついて言った。

「もういい。お化け屋敷以外ね」



 お化け屋敷に行った。

 マイが俺の腕を引っ張る。

「む、ムリムリムリ、絶対ムリ。やめようよ」

 小動物みたいに身体を縮めて震えている。

 俺は思わず面白くなって言った。

「平気平気」

「ムリ!」

 凛花が言う。

「じゃあ、私と翔で行ってこようかな〜」

 マイは小さく唸って、身を乗り出した。

「行く!!!」

 いざ、三人で中に入った。

 シーン、としている。

 俺を先頭に俺、マイ、凛花の順に進む。

 お化けが飛び出してきて、マイが悲鳴を上げて俺に飛びついて来た。俺は咄嗟にマイを受け止めたが、不思議な感触に右手を動かす。

 少しパコパコしている。

 マイが飛び退いた。

「ふぁっ」

 あ、これサイズ盛ってるのか。

 マイも普段はサバサバしているけれど、女の子らしさを気にしているんだ。可愛いな。

 マイは俺をべしべし叩いて、小声で言った。

「は、早く行って」

「あの、マイ」

「なにも聞かないで!!!」

 あとでちゃんと謝った方が良いかもしれない。

 

 他にも催し物を回って、綿飴を食べたりした。

 時間はあっという間に過ぎて、後半戦も終わり、俺達は家庭科室に戻った。

 簡単に後片付けをして、解散の流れになる。

 恒例で学園祭のあとはどのクラスも打ち上げをする事になっている。

 俺達もクラスメイトと駅前のカラオケ屋に行った。

 みんなが曲を入れ始め、俺は一番端の席に座り、頼んだフライドポテトを摘まんでいた。

 俺は歌が苦手だ。

 いつも皆んなの歌を聴いているだけで、今日もその予定だったが、クラスメイトの陽キャの男子が、急に俺にマイクを押し付けてきた。

「え?」

「凛花と翔で歌えよ」

「いいねー!」

 みんなが盛り上がっている。

「いいよ、俺歌ヘタだから」

 しかも、曲のタイトルが、超王道恋愛ソングだ。

 みんなニヤニヤしている。

 俺が頑なに拒み続けていたその時、マイが急に立ち上がった。

 そして、カラオケの部屋を出て行った。

 俺は違和感を覚えて、受け取ったマイクをテーブルに置いた。

 


   ▲ △ ▲ △



 もう見てられない。

 凛花と翔が一緒に仲良く歌ってるところを見たくない。

 下着のこともバレちゃったし、あたしの胸が凛花より全然小さい事も知られた。胸盛ってることもバレた。不埒な奴だと思われたかもしれない。

 凛花といかがわしい事してたし、もうあたしの事は好きになってくれないかもしれない。凛花のことが好きかもしれない。

 つらい。凛花と翔が仲良くしてる所を見ると、苦しいし、揶揄ってくるとイライラする。

 いろんな気持ちがぐるぐるして抑えられない。

 今日だって一緒に回れる予定だったのに。楽しみだったのに。酷い。

 マイは胸を抑えてしゃがみ込んだ。

 凛花を恨んでしまいそう。大事な親友に、こんな酷い気持ち抱きたくないのに。



   ▲ △ ▲ △



「マイ!」

 夜道の歩道の端っこで、マイがしゃがみ込んでいた。

「おい、大丈夫か?具合悪いのか?」

 俺はマイを覗き込む。

 マイは泣いていた。

 俺は驚きすぎて、言葉を失った。

 マイの涙なんて、初めて見た。小さい頃から知ってるけど、マイが泣いた所を見た事がない。

「どうしたんだよ」

「‥‥」

「話しにくい事なのか?」

 マイはゆっくりと首を振り、言った。

「翔が好き」

 マイが俺にぎゅっと抱きついて来て、俺は度肝を抜いた。

「え」

 マイは絞り出すように、震える声で言った。

「翔が好き。凛花と仲良くしないで」

 言葉を咀嚼し、俺はマイが何故泣いているのか、ようやく理解した。

「今日、二人で回る約束破ってごめんな」

「‥‥ううん」

「それに俺、胸の大きさとか気にしないから」

「‥‥うぅ」

 マイはまた泣き出して、俺は焦った。

「本当だよ。むしろ、可愛いなって思ったんだ。スカートの丈はいじらないのに、そっちはいじるんだと思って」

「‥‥嘘言わなくていい。男の人は大きい方が良いんでしょ」

 マイは泣き続ける。

 サバサバしているマイが、たったそれだけの事を泣くほど気にしていると思わなくて、俺は絶句してしまった。

「いや、人それぞれじゃないか?俺は小さくて気にしてる女の子というのも、すごく刺さるというか‥‥」

 これじゃ俺がヘンタイみたいだ。

 俺はマイの頭に触れて、言い直した。

「お団子も可愛かったよ。普段見ない髪型だったから、びっくりしたし」

「本当?」

「うん」

 マイが俺から身体を離す。

 栗色の瞳が俺を映し込む。

 俺はポケットからハンカチを取り出して、マイの目に軽く押さえた。

 マイが小さく笑って言う。

「ありがと」

「うん」

「あのね、翔」

 マイが俺を真っ直ぐに見上げる。

「翔が好きっていうのは、冗談じゃないの。それは、分かってて」

 俺はどう答えれば良いかわからず、ただ頷いた。

「うん」

 マイは照れ臭そうに言った。

「心配してくれてありがとう。追いかけて来てくれて、正直、すごく嬉しいかも」

「おう」

 俺はマイの両腕を取って、立ち上がらせた。

 俺は赤い目のマイにたずねた。

「このまま帰る?」

 マイは首を振った。

「でも、みんな心配するかも。私は学級委員だしちゃんと最後まで参加しないと‥」

「体調良くないってチャットで言えば良いよ。俺も家まで送るから。その赤い目の方がみんな心配するよ」

「‥‥送ってくれるの?」

 マイが驚いたように言う。

「流石に、泣いている女の子を一人で帰したりはしないよ」

「ありがと」

「気にするな。ごめんな、今日気を遣えなくて」

「ううん、送ってくれただけで嬉しい」


 マイを送り、俺は告白に対しての返事をハッキリとしていない事に気が付いた。

 カラオケに戻ろうと思っていたが、マイに告白された事で頭がいっぱいで、話を合わせるのが面倒になった。

 俺はそのまま帰ることにした。

 


   ▲ △ ▲



 マイはお風呂に入って少しだけ泣いた。

 嬉しかった。嬉し過ぎてなんだか涙が出る。

 お団子も褒められたし、胸は確かに負けるけど、それでも大丈夫って言ってくれた。

 もっと早くから、自分の気持ちを素直に打ち明けていれば良かった。

 同時に強く思った。

 あたしは本当に翔が好き。

 翔を絶対に落としてみせる。

 凛花には渡さない。

 覚悟、決めなきゃ。



   ▲ △ ▲



 凛花はぶらぶらと帰路を辿る。

 結局、二人は帰ってこなかった。

 凛花はスマートフォンを取り出してマイのチャットを開いた。

 二人とも体調が悪いって嘘だよね。

 というか、みんな私と翔が付き合う流れだって思ってて応援しているみたいだった。

 マイが出て行ったのは、私と翔がデュエットする流れになった時だ。

 私のせいかもな。

 せっかくマイは翔と二人で回れるチャンスだったのに、私はそれを見て見ぬふりが出来なかった。

 邪魔ばかりした。

 マイはいつも笑ってるから、そんな気にしていると思わなかった。いや、言い訳かもな。

「‥‥」

 焦った。

 二人が仲良くして欲しくなかった。

 正直、翔と二人で回れるとは思ってなかった。マイの先約があったのは予想外だったけど、自分は翔を困らせたいだけで、話すきっかけが欲しかっただけで‥‥‥嘘。一緒に回れる可能性も少しはあるかと思って期待した。

 凛花はスマートフォンを取り出し、マイのチャット画面を開いた。

 でも何を言えば良いだろう。ごめんねって言っても白々しい感じがする。マイだって、気にしないでって返すしか無いだろうし。

 凛花はチャット画面を閉じた。

 二人が今なにをしているのか、考えたくなかった。



 月曜日。

 凛花はぼんやりと、窓際の席で静かに勉強する翔の姿を眺めた。

 学園祭、カッコよかったな。

 厄介な客から庇ってくれて、守ってくれて‥‥凄く頼もしかった。一人で黙々と仕事をしてるのも寡黙な男って感じで良かった。

 マイが翔の所へやって来て、何かを話す。

 翔は笑顔で談笑している。

 少ししてマイが教科書を開き、翔に教え始めた。

 凛花は思わずため息をついた。


 マイは完璧な女の子だった。

 みんなに優しくて頭も良くて、協調性がある。

 幼稚園からの幼馴染で、仲良くなったのは小学校一年生の時からだ。よくお互いの家で遊んで、休日も外に出掛けた。

 親友だし、マイのしっかりした所や、勉強の才能に胡座をかかず努力を怠らない姿勢を尊敬してる。

 私の事も尊重してくれる。相談にも乗ってくれる。作曲のこともマイにだけ打ち明けてる。応援してくれてる。

 マイのことは大好きだ。

 これからも付き合いを続けたい、大事な友達だ。

 ‥‥でも‥‥


 

 昼休み、昼食は女子の輪の中で食べてたけれど、その後マイは、翔と話していた。

 普段なら生徒会の活動で忙しくて滅多に遊ばないのに。ちょっと信じられない。仕事よりも、翔を優先しているって事だよね。 

 次第に見ていられなくなって、仲睦まじく話している二人の所へ割り入った。

「何話してるの?私も混ぜてよ」

 マイが凛花に振り向き、言った。

「あ、そういえば、凛花に伝えたい事があったんだ。翔、ちょっと話してくる」

「え?ああ」

 マイは凛花の手を引っ張って、廊下に出る。

「なによ?」

 マイは凛花に向き合い、顎を引いて静かに言った。

「あたし、翔が好きって言ったよね?本当にこれ以上邪魔したら怒るからね」

 本気のトーンで、そこまで怒っているとは思わなくて、凛花はビックリして謝った。

「この前はごめん」

「謝るくらいならしないでよ。迂闊に凛花に相談したあたしも馬鹿だったけど、まさか凛花も翔が好きだなんて、思いもしなかった」

「なに言ってるの?翔が好きなのは‥」

「認めなよ。翔が好きだから、翔とあたしが仲良くして、傷付いたんじゃないの?だからあたしに意地悪するんじゃないの?」

 マイは射抜くように、凛花を見た。

 凛花は素直に言った。

「ごめん。そんな深く考えてなかった」

「謝るくらいなら、やらないでよ。あたしは本当に本気なのに、冗談だって思われたくないのに。酷いよ凛花」

 マイは踵を返して走り去った。

 マイが泣きそうな顔で言うから、本当に悪いことをした気持ちになった。いや、実際、自分はそういう事をしていたんだと気付かされた。

 罪悪感に苛まれるよりも、実感が湧かなかった。

 マイが泣くなんて相当だ。ずっと我慢していたんだろう。

 マイの辛そうな泣き顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 凛花はしばらくその場を動けなかった。

 マイは翔のことを自分に一番に相談してくれたのに、こんなやり方は無かった。分かってるのに、応援出来なかった。それどころか、邪魔ばかりした。

 自分は最低だ。分かっているのに、それを素直に認められない。反省はしても、後悔は出来ない。

 どうして‥

 凛花は右手を握りしめた。

 理由なんて一つしかない。

 悪行をしてまでも譲れない、自分の気持ちがあったからだ。今も。


 

   ▲ △ ▲ △

 


 最近はよく昼休みにマイと他愛ない話をする。

 俺はマイをチラ見した。

 明らかに何かあった感じがする。

 いつもならマイなら理路整然と、何があったのか説明してくれるのに、たずねても歯切れが悪いし、さっきから言葉少なだ。

「凛花と何かあったのか?」

「‥‥喧嘩」

「なんのことで」

「‥‥‥秘密」

「ふぅん」

 踏み込んで良いものか、少し悩む。

 マイは立ち上がって言った。

「ちょっと生徒会の用事思い出した。やってくる」

「ああ、うん。がんばれ」

 マイは笑ってうなずいた。

「ありがと」



   ▲ △ ▲ △



 休日になり、俺は売れ残りのパンを番重に入れ、バイクに乗ってロスパンの売り込みを始めた。

 お得意さん順にルートが決まっていて、五軒目の「朝陽」の表札の前で俺はバイクを止めた。

 少し緊張する。あれからマイは俺と距離を置いていて、話が出来ていない。避けられているのかもしれない。

 理由は教えてくれないし、だから結局助けにもなれない。

 告白されて、付き合う流れだと思ったのに、俺からも恋愛の話を切り出せる雰囲気じゃなくて、困っていた。

 俺は首を振った。

 たぶん、マイは俺のことが手につかないくらい、凛花と喧嘩をしてしまって、悩んでいるんだ。

 告白の返事なんて、マイは今必要としていない。

 マイにもう一度、力になりたいって伝えよう。

 インターフォンを鳴らすと、すぐにマイが扉を開けた。

 長袖の水色のパーカーに、白い膝丈のスカートを履いていた。シンプルな格好だけど、清楚な感じで可愛い。

 マイがスカートを履いている姿なんて、珍しい。

 そんな事を言うのも恥ずかしい気がして、俺はちらりと見るに留めた。

 マイが笑顔で言った。

「お疲れさま」

 普段と同じ、落ち着いた様子で俺は少し安堵した。

 俺もいつものように返す。

「お疲れ様。ロスパン売りに来ました。どうですか?」

 俺は箱を見せる。

 マイは番重の中を覗き込み、幾つかパンを指差した。

「これと、これとこれ」

「毎度あり」

 お金を受け取り、パンを渡すとマイは俺にたずねた。

「この次はどこ行くの?」

「隣を回ろうと思ってる。杉村さんち」

「もし、それでも余っていたら、凛花のところに行ってあげて」

「え?なんで」

「なんでも」

「‥あのさ、本当に、俺頼りないかもしれないけど、悩みがあったら教えて欲しい。一緒に考えることくらいは出来るだろ?」

 マイは無言で首を振った。

 頑なに喋らないマイに、俺は悲しくなった。

 好きって言ってくれたけど、俺はそこまで頼りないと思われているという事か。

 俺が視線を落とすと同時に、マイが明るいトーンで言った。

「もう一個、買おうかな。その、お腹へったし、明日の朝ご飯、考えてなくてさ。あー、これ、新しいパンだっけ?」

 マイがパンを指差す。

 気を遣わせてしまった。

 俺は挽回したくて、マイに負けない明るさで答えた。

「うんそう、クルミのパンで、生地にもクルミが練り込んであるから濃厚な味になってるよ、マイは豆とか好きだし、オススメだよ」

「ほんと?じゃあ、それと‥‥」

 マイは少し迷ったように、チョコスコーンを指差した。

 俺は不思議に思った。

「バニラ買わないの?まだあるよ?」

「えーっと、今日はチョコの気分なの」

「そうなんだ?」

 マイは少し苦笑した。

「うん」

 別れ際、俺は言った。

「あのさ、しつこいけど、何かあったら遠慮なく相談しろよ」

「うん、ありがと。頼りにしてる。今は‥もう少し自分で考えたくて」

 マイは困ったような顔で、小さく頷いた。

 俺はマイの目を見ながら、ヘルメットを被った。

 頼りにならない訳じゃない。案にそう言ってくれている。

 マイにはいつも気を遣わせてばかりだ。

 時間がほしいって事なら、俺は辛抱強く待つしかないのかもしれない。

 俺はバニラスコーンと幾つかの調理パンが入った番重を後ろに括り付け、バイクを発進させた。



 凛花は箱の中を見て、顔をしかめた。

「なんでバニラしかないの‥‥」

 凛花は俺の顔をじっと見る。

 俺は冷や汗をかきながら、「すみませんお客様、これしか売れ残っていなくて」と誤魔化す。

 マイのささやかな嫌がらせだと理解した。

 同時に、心底驚いた。

 こんな事をする人間だとは思わなかった。

 マイは‥‥

 マイは?

 俺はマイを、どんな性格だと思ってた?

 そうだ、善人だって思ってた。

 でも、マイだって人間だ。普段、菩薩のような心を持っていても、怒っていたら嫌がらせの一つや二つ、したくなるに決まっている。

 凛花は「ふぅん」と言った後、バニラスコーンを手に取った。

「私、チョコが好きだけど、バニラも悪くないと思ってるのよ」

「え、そうなの?」

「今日だけ、だけどね」

 凛花は視線を逸らし、苦しそうな表情をした。

 凛花は怒ってない。自分が悪いって思ってる。

 俺は口を開きかけ、閉じる。

 ピンと来た。

「マイが俺を好きなのは、冗談じゃなかったんだな。それに、学祭の時もマイと回る予定だったのに、邪魔しただろ」

「マイには謝った」

「ひどい奴だな」

 思った事が、つい口をついて出た。

 凛花はキリっと俺を見て、言い返してきた。

「応援したくなかったの。冗談にしたかったの!」

「何でだよ!マイは泣いてたぞ!悩んでたみたいだった。冗談にしちゃ悪質すぎるだろ」

「しょうがないじゃない。べつに私、マイから翔との恋愛を協力してなんて、一言も頼まれてないもの」

「は?俺が言いたいのは、冗談が過ぎるってことだ。ちゃんと謝れよ」

 凛花は立ち上がって言った。

「だから、ちょっと揶揄いすぎただけ!そんなの分かってるし、謝った!だからもういいの!翔には関係ないじゃん!ほっといて!」

 凛花はお財布をそのまま俺に押し付けて踵を返し、ダン、と勢い良く扉を閉めた。

 財布の中にはお札が入っている。このまま受け取る訳にはいかない。

 俺は困り、結局、インターファンを再び鳴らした。

 すると、凛花ではなく、銀縁眼鏡に若い華奢な女性、凛花の母親が出てきた。

 可愛らしく小首を傾げて、両手をちょんと合わせる。

「ごめんなさいね、あの子、ちょっと最近色々あったみたいでトゲトゲしてるの」

「ああ、はい。知っています。俺も今言い過ぎちゃって、すみません」

「翔ちゃんは悪くないでしょう?謝らないでいいのよ?」

 凛花の母親は俺が小学生の頃から、翔ちゃんと呼んでくれている。ちょっとお茶目な可愛い人だ。

「いえ、第三者なのに首突っ込んじゃって、今凛花を責めてしまったので、謝りたいのと、あとお財布をお返したくて」

「あら、凛ちゃんったら、どうしようもないわね」

 くすりと笑って凛花の母親は財布を受け取る。

 凛花の母親は腕を組んで言った。

「凛ちゃんはね〜、分かりやすく見えて、ちょっと何考えているか分からないし、色々隠すタイプなの」

「え、そうなんですか?」

「そうよ、素直じゃなくて、本当のことは言えないみたいなの。だから、今も何に悩んでいるのかわからないし、助けてあげられないのよね」

「そうなんですか」

 俺はマイのことを言おうか迷った。

 でも、俺が母親に喧嘩のことを話したと思われると、凛花はよく思わない気がする。

「凛花とまた話してみます」

「うん。お願いします。凛ちゃんは、恥ずかしがりやなの。だから、口ばっかり達者だけど、ほんとの気持ちは違っていたりするの。あのね、翔君にも怒る気は無かったんだと思うのよ」

 俺は笑って頷いた。

「分かってます。凛花は‥‥良い奴ですから」

 何か俺の知らない事情があって、喧嘩をしていたのかもしれない。

 ただ単にマイに嫌がらせをするような人間じゃない。

 だって凛花は‥‥

 俺の知る凛花は、真っ直ぐで正直な人間だから。



   ▲ △ ▲ △



 マイはチョコスコーンを食べながら、考えていた。

 翔は気づいただろう。

 あたしが凛花に意地悪をしたこと。

 なんとなく、翔にさらけ出したくなった。

 あたしは人よりも寛容だけど、そうじゃない一面もある。

 自分に厳しいから、言わないだけで他人を厳しく見てしまう事も多い。言わないだけで、色々思う時もある。たぶん、凛花よりも酷いことを思っているだろう。

 凛花に負い目を感じているわけじゃないけれど、素直にまっすぐ生きている凛花は偉い。

 というか、凛花は自分で外ではクールキャラって思っているようだけれど、よく喋るし、意見もハッキリ言うし、困った時は開き直るし、面白い。

 女子の間じゃ凛花がお茶目で嘘のつけない良い子だってことは周知の事実だ。

 クールビューティーとか、歌姫とか肩書きがあるけれど、それは凛花の性格と別だとみんな分かって使っている。みんな凛花を可愛く思って、愛しい意味を込めて使っている。

 うちの学校は一年生の時に小さないじめがあった。

 みんな見て見ぬフリをしていたけれど、凛花は教師達に訴え続けた。

 あたしも相談したけれど、教師にはぐらかされるばかりで諦めかけていた。

 だが、凛花は全校朝礼で壇上に上がり、いじめを暴露して、大騒ぎになった(自分は凛花から、美化委員長としての話がしたい、と頼まれて壇上で話す機会を設けた)

 自分の高校は人数がとても多くて、生徒は千人いる。

 あっという間に凛花の訴えは広がり、保護者からの圧倒的な批判を浴びて第三者委員が介入した。

 そんな感じでいじめは終息し、凛花の強気な態度に感化されて、知らんぷりをしていたみんなが変わっていった。

 凛花は意志の強い女の子だ。

 そして、ちょっと不器用で可愛いところがある。

 ツンデレで、言葉が足りなくて、音楽にも深い情熱があって‥‥凛花の良さを、翔はぜんぜん分かってない。

 凛花は親友だ。15年も隣にいたから分かる。


 あたしの悪いところも、翔は分かってない。

 フェアじゃない。だから‥

 そう思うのは、優勢の自覚があるからだろう。

 もう苦しい。あのときは凛花に、あんな風に言ったけど、後悔してる。

 凛花は本気で傷付いてる。

 あたしが凛花を傷付けた。

 いつもは一日経てばすっかり忘れているのに、ずっと俯いて辛そうな顔をしている。

 それだけ本気だったんだ。

 翔が好きな気持ちは、あたしも分かるから。

 握っていたスマートフォンを表に向ける。

 今にも連絡したくなる。

 マイは目を閉じ、スマートフォンを裏返して机に置いた。



   ▲ △ ▲ △



 俺は凛花と話そうと思った。

 事情も詳しく分かってないのに、話を聞かずに一方的に詰ってしまったのは本当に良くなかった。

 もう一度謝りたいし、話を聞きたい。

 だが、あれから凛花は俺を避け続けた。

 マイとも上手くいっていないようで、ほとんど二人は会話をしない。

 そんなに重大な喧嘩なのか?

 マイも浮かない顔をしているし、俺とも一緒に居ようとしない。

 いつもみたいに、俺に相談してくれれば良いのに。

 二人が喧嘩することは昔からあったし、凛花が俺に愚痴って、マイが俺に愚痴って、俺がガス抜きの緩衝材となって、丸く収まっていたのに、今回は違うようだ。

 部外者の俺が何か力になれる方法は無いのだろうか。



 部活が終わり、俺はその後も少し自主練習をした。

 運動場を一人で走る。

 ずっと頭の中を渦巻いていたモヤモヤが、少しはマシになった。ストレッチをして部室に戻ると、同じ陸上部の同級生がいた。

「あ、おつかれ」

 俺が声を掛けると、同級生は黙って俺を睨みつけた。

 睨まれるようなことをした覚えはなく、俺はきょとんと同級生を見返した。

「‥えっと」

 俺が口を開くのを遮り、同級生は言った。

「お前、最低だな」

「‥‥は?」

 同級生は俺に詰め寄った。

「凛花とマイ、振ったんだろ」

「ちょっと待て。なんでそんな話になってるんだよ」

「だから‥‥」

 同級生は涙ぐんでいた。

 俺は絶句して、後ずさる。

 同級生は俯き、辛そうに言った。

「学祭の帰り、俺見たんだよ、マイとお前が抱き合ってるの。それで、マイが幸せならそれで良いと思ったのに、最近急に仲悪いし、全然マイと喋らないし、マイに元気がない!」

「いや、俺は‥」

「凛花とくっ付いたのかと思ったら、それも違うし」

「え?」

「凛花と、エロい事してたじゃん」

「は?」

「学祭の時!ベランダで!!」

 俺は記憶を辿り、思い出した。

「あれはエロいことじゃなくて、俺が昼寝してたら凛花が来て俺の鼻を摘んでて‥」

「髪触ってただろ!」

 俺は思い返して、言い淀む。

「‥‥そうだけど、それだけだよ」

「ふつう、友達にそんな事させないだろ!

「‥‥」

「俺、本気でマイのこと好きなんだ。マイには幸せになって欲しいと思ってる。お前、酷いことするなよ」

「いや、俺は‥」

「調子に乗るな!」

 同級生は怒鳴り、走り去ってしまった。

 俺はその場に立ち尽くした。

 そうだ、そういえばそんなこともあった。

 マイの事に気を取られていて、凛花の行動なんて、全く考えていなかった。

 凛花は本当に、俺のことを‥‥?

 凛花は、マイと俺の事を邪魔してきた。でも、ただ邪魔したかっただけじゃなくて〈俺とマイがくっ付くのが嫌だった〉そう考えると辻褄が合う。

 もし、凛花が俺を好きなのが事実で、その状態でマイが俺と付き合う事になったら、二人の仲が悪くなるのは当然だ。

 二人の仲がこじれたのは、学園祭の後からだ。

 マイが俺に告白した日と一致する。

「‥嘘だろ」

 学園祭で、一緒に回る予定の友達が忙しくなったから、っていう理由も嘘で、放課後鉢合わせたのも、みんなの言っていた通り、口実だったとしたら。

 そうだ、それに凛花のお母さんも言ってた「分かりにくい子だから、言葉通り受け取っちゃダメ」って。

 確信に変わっていく。

 だからマイは簡単には凛花を許せないんだ。

 そうだ、多分、そうだ。

 でも俺は一体どうしたらいいんだ。


 

   ▲ △ ▲ △



 俺は朝も寝坊をし、手伝いだけでなく、親父のレッスンでもパンの成形を失敗した。

 親父に怒鳴られた。

「出て行け」

 俺は厨房から叩き出され、よろよろと裏口の扉に寄りかかって座った。

 そっか、みんな分かってたんだ。

 最低、と罵られても仕方ない。

 実際、俺はマイと凛花だけでなく、二人の幸せを願う人たちの気持ちを踏み躙っていたんだ。事実は違っても、結果的に俺がみんなを傷つけてしまった。

 俺はこんな気持ちでマイと付き合いたくはない。

 マイは悲しんでいたんだ。

 だから俺と話そうとしないのだろう。

 凛花のことはすごく大事な友達、作曲もできちゃう自慢の親友だって、いつも言っている。

 これ以上、誰かを傷つけたくは無い。

 何とかしないと。

 まず、このパン作りをさっさと終わらせなきゃ。

 俺は、厨房に戻ろうと思ったが、腰が上がらなかった。

 俺が悪いよな。

 凛花も俺を好きなんて、思わなかった。

 部員の高崎君にもちゃんと謝らなきゃ。すごい傷ついてたな。俺、酷いことしたな。

 俺が座ったままでいると、親父がやってきた。

 俺は慌てて立ち上がる。

 親父は言った。

「嫌なら、やらなくていい」

「‥‥え?」

「言葉通りだ」

「やるけど」

「お前はたかつきベーカリーを継がなくて良い」

 俺は、急に俺自身を突っぱねられた気がした。

 動揺し、後ずさった拍子に、扉に背をぶつける。

「そんな、どうして急に」

 親父は無言で射抜くように俺を見た。

「‥どうして今更そんなこと‥」

 たかつきベーカリーは、俺が生まれた時からあった。両親はパンに夢中で、祖母が代わりに俺の面倒を見ていて、俺はあまり両親に会えなかった。

 俺はパンが好きと言うより、両親と一緒にいたくて、関わりたかったから幼い頃からパン作りをするようになっていた。

 たかつきベーカリーを継がなきゃならない、というのは大変な事だけど、それ以上に《両親から期待されたもの》が、俺は嬉しかった。

 パン自体は身近にあり過ぎて、好きとか嫌いとか、考える事も無かったし、だから修行も苦しく感じなかった。

「俺は‥‥」

 だが、すぐに言葉が出なかった。

 自主性、積極性、主体性

 成績表で、俺はいつもこの項目がダメだった。

 毎回書かれるから、いつしかそれが自分の性格だと思うようになった。

 俺は自分に自信がなかった。


 俺は、ちゃんと《たかつきベーカリー》を継げるのか?

 なにか色々なことがあった時、逃げ出さずに責任を持てるのか? 


 そんな疑問を見透かしたように、親父は言った。

「今までお前は何の抵抗もなくパン作りをしていた。それが今日は、初めて厨房に戻って来なかった」

「‥‥考えごとをしてたんだ」

 親父は低い声で言った。

「お前は自分から休みたいと言った事も無かったな」

「そうだっけ」

 俺はなんとなく、たずねた。

「親父はどうして、パン屋になろうと思ったの?」

 親父は顔を背けて、直ぐに答えた。

「お前はパン屋に向いてない」

 親父は去って行った。



 俺は失敗作のパンを見る。

 何で質問しただけで、パン屋に向いてないなんて、分かるんだろう。考えても分からない事だらけだ。

 俺はため息をついて、椅子に座った。

 このままじゃいけない。それは間違いない。

 分からないなら、ちゃんと知らないといけない。

 焦っても仕方ない。一つずつ解決しよう。

 まず、二人な事だ。

 マイと話して、凛花のことをハッキリ聞いて‥‥

 俺は重番の中の失敗したパンをもう一度、見た。

 いや違う。

 俺自身が答えを出さなきゃ。

 俺のせいで二人が傷ついているんだ。

 ちゃんとしないと。

 俺はしばらく考えて、自分の気持ちを整理した。

 重番の中の失敗作を袋に入れて、バイクに跨った。



 今日は日曜日だ。

 水泳部は午後からの練習だったはず。

 俺は朝陽の表札の掛かったインターフォンを鳴らした。

 マイが扉を開けて、目を大きくする。

「翔?どうしたの?」

「朝からごめん。話したいことがあるんだ。今、時間ある?」

 マイは俺の顔をじっと見て、小さく頷いた。

 扉を大きく開けて、俺を招く。

「大丈夫、どうぞ入って」

「いいの?」

「うん」

 リビングに入り、俺は立ったまま言った。

「マイ、俺、まずマイに謝らなきゃいけない事がある」

 マイが振り返る。

 俺はマイの栗色の目を見て、言った。

「凛花の揶揄いが冗談だと思って、マイの気持ちをてきとうにしてた事、ごめん」

 マイは驚いたように目を大きくした後、なぜか苦笑して首を振った。

「それは、もう大丈夫」

「それだけじゃない。凛花の気持ちに気がつかなくて、凛花と二人でいた事で、マイを傷つけてたことも謝りたい。マイを傷つけていたのは凛花じゃなくて、俺の凛花への態度で、俺が悪かった」

 マイは両手を身体の後ろに回して言う。

「気付いたの?」

「ああ。色々あって」

「そっか」

「それから、相談したい事があるんだ。俺、マイが傷ついたのを凛花のせいにして、凛花も傷付けた。ちゃんと謝りたいけど、凛花は俺を避けるから‥どうしたら良いかな」

 俺は言った後、すぐに言い直した。

「違う、ごめん。順番が違った。まず、マイには言わなきゃいけない事があった」

「え?」

 マイが首を傾げる。

 俺は覚悟を決め、マイの正面に立つ。

 息を吸って、拳を強く握って言った。

「俺、マイに告白されて嬉しかった。本当に嬉しくて、何度も考えて、俺もマイが好きだと思った。だから俺は、マイと付き合いたい」

「‥‥」

「凛花の気持ちには答えられない。俺はそれを、ちゃんと凛花に伝えたい」

 マイが優しい目で俺を見た。

「ちゃんと言ってくれるって、思わなかった」

「俺はマイが好きだ。だから、凛花の気持ちには応えられない。俺はそれを、凛花にちゃんと伝えたい」

「うん」

「凛花にハッキリ言うのは、マイに傷ついて欲しくないからだ。凛花の冗談でマイが傷ついていたのは事実で、もうそんな傷つけ方、二度とさせたくない」

「うん」

「凛花には酷いことをするって、分かってる。でも、俺自身がそうしたいって思う。俺は誰かを傷付けたくないけれど、恋愛は一人を選ばなきゃいけない。誰かを傷付けないでいるのは、無理だ。身勝手だけど、俺はそうすることにした」

 マイはうなずいた。

 その時、テーブルに置いてあった、マイのスマートフォンが振動した。

 マイはスマートフォンに視線を向け、どこか躊躇うように俺に向き合う。

「見ていいよ」

 マイはスマートフォンを開き、目を見開いた。

「凛花からだ」

「えっ」

 マイは俺に画面を見せる。



    〇〇町クリスマスコンサート


 時間   12月12日日曜日

 場所   たかはま商店街


『私いま地域活性化の活動をしてるんだけど、良かったら二人で来たら?』


 そっけなく言う凛花の声が再生される。

 マイが柔らかく言った。

「凛花からのサインじゃないかな。凛花もこのままじゃダメだって、わかってると思うから」

「行くって返事、しておいてくれ」

「うん」

 マイはチャットを返し、スマートフォンを置いた。

 俺を見ずに、呟くように言った。

「少し気持ちが楽になった。あたしも凛花と仲直り‥それは難しいかもしれないけれど‥」

 マイは顔を上げ、俺を見つめる。

「あたしが言い過ぎたの。あのね、あたしが凛花に怒っちゃって、きつい事を言ってしまったの。あたし滅多に怒らないから、凛花は凄くビックリしてて、今思えば他にも言い方はあったのに、冷静で居られなかったんだ」

「そうだったのか」

「うん」

「話してくれてありがとう」

 俺が心から言うと、マイは目に涙を溜めてうなずいた。

 俺は堪らなくなって言った。

「ずっと不安にさせてごめん。俺、なにも分かっていなかった。でもこれからは知りたいと思うし、マイを不安にさせたくないから、話して欲しい。俺も聞いて一緒に考えたいんだ」

「うん」

 マイはうなずき、俺にぎゅっと抱き付いてきた。

 すぐに腕を離して、俺を正面からじっと見る。

 俺もマイを見返した。

 マイは俺の持っていた、たかつきベーカリーの紙袋を指差してたずねる。

「それ、パン?」

「あ、うん。成形失敗したパンなんだけど、何でかマイに食べて欲しくなってさ。ちょうど昼時だったから。味は変わらないんだけど、食べてくれる?」

「やった!」

 マイは嬉しそうに笑った。

 悲しくて重かった空気が、マイの笑顔で一気に晴れる。

「翔が作ったやつ食べられるなんて嬉しいよ!」

 俺は苦笑した。

「次はちゃんとしたの作ってくる」

「うん」

 マイが台所へ行き、食器を出しながら振り返る。

「紅茶、飲む?」

「あ、うん」

「座ってて」

 俺は促されて椅子に座る。

 マイがお皿を出してくれた。

 俺はその上にパンを出して、マイが俺のカップに紅茶を淹れてくれた。

 良い香りが漂う。

 向かい合って、パンを食べた。

 ベーコンとチーズとオニオンが乗った「オニオンブレッド」だ。

 マイがオニオンブレッドを持ち上げて言った。

「あ、凄い、結構重いんだね」

「うん。惣菜パンで栄養たっぷりだよ」

 俺たちは視線を合わせて、手を合わせて言った。


「「いただきます」」


 マイが一口食べて、目を大きくした。

「ん〜!美味しい」

 俺も一口食べる。

 うまい。

 マイは言った。

「あたし、そもそもパンってそんなに好きじゃなかったんだけど、たかつきベーカリーのパンが美味しくて、パンが好きになったの」

「そうだったんだ」

 マイは優しく言う。

「翔の作るパン、あたし好きだな。ぜんぜん失敗なんかじゃないよ!あったかい感じがする。大好きだよ」

「本当?」

「うん!翔だってそう思うでしょ?自分の作ったパン、美味しいって感じない?」

「‥‥感じる」

 答えて、俺は理解した。

 親父がパンを焼くのは、パンが好きだからだ。

 親父が俺に向いていないと言ったのは、そんなのは普通なら聞くまでもない、当たり前な事だったから。

 帰ったら親父にも、俺の考えを伝えなきゃ。

 俺は食べ終わって、マイに言った。

「マイ、俺、凛花に俺の気持ちを伝えてから、ちゃんとマイと‥‥恋人同士になりたい。恋人同士っていうのは、その‥一緒に帰ったりとか、そういう付き合い。だから、それまで待っててくれるか?」

「もちろん」

 マイは見た事がない、半分泣きそうに見える表情で言った。

「翔がちゃんと考えてくれて、考えてくれる人だって分かって、すごく嬉しかった」

「うん」

「ありがと」

 俺はマイに見送られて家を出た。


 

 原付バイクで帰ってくると、親父が裏口に寄り掛かるように、腕組みをして立っていた。

 どんな事を言われるか、身構えながら俺が親父の正面に立つと、親父はぶっきらぼうに言った。

「お前は昔からよく出来た子だった。それに頼り切ってお前と関わる時間が少なかったことを今でも後悔している」

「えっ」

 想像もしなかった言葉に、俺は聞き間違いかと思った。

 親父は硬い声で言う。

「父さんと母さんは、学校祭も行けなかった。昔から色々」

「そんなの仕方ないじゃん、分かってるよ」

「爺さんと婆さんが死んでから、お前には寂しい思いをさせた」

「関係ないよ、パン屋なんて朝早いだけで、帰ってきてからはみんな居たじゃん」

「‥」

「急に、何だよ」

「我慢しなくて良い」

 親父の言葉に、急に感情が波立った。

 込み上げた想いが、俺の口から飛び出た。

「俺は自分の意思でここに居るんだ。たしかにきっかけは、父さんや母さんの仕事に関われるからって理由だけど、正直、朝起きるのだって大変だし、夜更かししたいし、休日も一日中遊びたいし、たまにパン食うのも飽きるけど、それでも止めないのは俺が、この場所が大好きだからだ」

 衝動的に言い放った言葉に、俺は驚いた。

 息継ぎして、俺は宣言する。

「これは、俺が決めたことなんだ。俺はたかつきベーカリーを継ぎたい」

「‥‥」

「俺は、パンに携わって生まれる関係や人との関わりが好きだ。今、朝陽とパン食べてきたけど、改めて楽しいなって思った。美味しいって言われたら凄く嬉しい。だから止めない。修行を続けたい。だから父さんも、俺に期待をしていて欲しい。俺ならきっと出来るから」

 親父は驚いたように目を大きく見開いた後、頷いた。

「分かった。期待している」

 親父は小さく口元に笑みを見せて、厨房に戻って行った。


 俺は、朝が苦手で、夜更かししたくて、休日は遊びたくて、パンじゃなくて他のものを食べたくなる時もある。

 たぶん親父の言う通り、無自覚で我慢していた所もあるかもしれない。それでも、今の俺が俺だ。

 だから少しずつ変わっていく努力をするしかない。

 自分から。



   ▲ △ ▲ △


 

 数時間前。


 凛花は午前に合唱部の練習があった。

 指揮棒を振り、みんなと視線を合わせる。

 音を整える。

 らー、らー、らー

 綺麗な和音になり、ピアノの伴奏者と視線を交わす。

 コンクールの曲を歌い終えて、練習が一通り終わる。

 最後に顧問の話がある。

 顧問は言った。

「みんなも分かっているように、課題曲は宗教合唱曲だ、必ずソロパートがある」

 そんな事、分かってるわよ、と凛花は内心毒突く。

「そして、田中は今回の合唱コンクールのエースだ。田中」

 呼ばれて田中という女子生徒が返事をする。

「はいっ」

「お前には、ソプラノだけではなく、アルトの4ページ目の、3小節を全て任せる。休んでいた所を書き換えておけ」

 田中は驚いている。

「え、でも…」

 みんなが困惑する中、顧問は教室を出て行った。



 凛花は顧問を追いかけた。

 廊下をさっさと歩く顧問に言った。

「先生、田中さんにパートを割り振り過ぎていると思います。今まで通り、アルトパートに任せた方がよいと思います」

「大丈夫だ。田中とは話をしてある」

「田中さんはプレッシャーを感じています。期待されることを嬉しく感じるかどうかはその人次第です。彼女は今、精一杯で、喜べる状況じゃありません」

「なにが言いたい」

 田中さん贔屓をやめろ、というのは堪え、凛花は冷静に言った。

「先生、私は反対です。パートをもとに戻して下さい」

 聞く耳をもたないので、凛花はしつこく訴えた。

「先生、」

 教師は立ち止まる。

「‥いい加減にしろよ」

 教師はわざとらしく大きくため息をつくと、言った。

「お前はさ、そうやっていつも和を乱すよな、ほんと、迷惑だ。部活やめろ」

「辞めません。全国大会に行くのが目標なので、私は意見をしているだけです。それに、他の部員も同じ意見です。私が代表で言いにきました」

「今大事なのはチームワークだ。それに競い合った方が練習するだろ」

「いいえ。評価点はバランスが加味されます。ばらつきがあってはダメなんです。上手い人を伸ばすよりも、ばらつきのある音を揃える事を第一にしましょう」

「お前は何様だ」

「私は10年以上音楽に触れてきました。信じて下さい」

 今の顧問はもともと、バスケットボール部の顧問をしていたらしい。

 自分とは馬が合わず、よく喧嘩をしている。

「先生、」

 教師は凛花を睨みつけた。

「お前さ、自分が可愛いと思ってるから、人の事舐めてるだろ。いい加減しろよ」

 今までの人生で、私は何度も言われてきた。

《可愛いから他人を見下してる》《可愛いけど性格が悪い》《可愛いからって全部許されると思うな》《可愛いだけのバカ》《可愛いだけで人生イージーモード》

 可愛いが嫌いだ。

 自分が嫌いだ。

 私を見てよ。私の話を聞いてよ。

 

 結局、意見は通らなかった。

 凛花は大きくため息をつく。

 こういう時、マイが居たら上手く収まるんだろうな。

 思い出して、胸が痛みはじめる。

 長い間マイを傷つけ、暴言を吐いて翔を傷つけ、今も謝ることが出来ずに、自分が悪いって分かっているのに、それが認められない。

 言い訳ばっかりが思い浮かんで、そんな自分が情けない。

 二人が仲良くなれないのは、私のせいだ。

 早くおめでとうって言えたらいいのに、言えない。


 部活の帰りに母親に卵を買うように頼まれて、スーパーに寄った。

 セールなどのチラシが貼られた場所に、大きな紙のツリーがある。可愛くて近づいてみると、それはコンサートの宣伝だった。


 〇〇町 クリスマスコンサート


 時間   12月12日日曜日

 場所   〇〇商店街


 合唱団の参加者募集中!電話は下記の番号まで

 ×××ー××××ー××××


「クリスマス、か」

 クリスマスは好き。

 歌も好き。

 再度、凛花はチラシを見た。



 午後になり、昼食を食べたら直ぐにピアノのレッスンが始まった。

 指で鍵盤を叩く。

 優しいワルツのメヌエット。

 細やかで小さくて、消えてしまいそうな旋律。

 なんだか恋を連想させる。

 一ヶ月前は、そんな表現、浮かばなかった。

 マイに言われてようやく受け止められた。

 私は翔が好きで、これが恋愛だということ。

 恋愛。初恋。

 私は恋をしていたのだ。

 自分には縁遠いものだと思っていた。

 自分はさっぱりしているし、そういうのは興味ないし、クールなキャラだ。

 恋愛にキャーキャー騒ぐ女子の集団は、ミーハーな感じがするから好きじゃなかった。スカしてた。

 だから、たぶんもう手遅れだ。

 翔を見ているから、翔の視線で分かる。マイの方ばっかり見ている。

 恋愛の歌の意味が分かった。

 それがどれだけ大切に作られていたのか、恋愛の曲を馬鹿にしていた自分が恥ずかしくなった。

 手が止まる。

 レッスンの先生が厳しく言った。

「最近、ミスが多過ぎです。楽譜も暗記をしていないって、やる気がありますか?」

 凛花は泣きたかったが必死で涙を堪えた。

 泣くと相手は動揺する。

 そういう女の涙って、大嫌い。

 恋愛の計算なんて大嫌い。ずるい。

 そう言って、マイをなじりたかった。

 でも、マイはズルくない。

 ちゃんと正々堂々戦って、私に言った。

 ズルいのは私で、だからこの結末も当然だ。

 でも、自分でもこんなに翔が好きだと思わなかった。

 こんなにも本気な気持ちがあるとは思わなかった。

 いつから私は、こんなに翔が好きだったんだろう。

 翔が好きな音楽は私もアルバムを借りてきて聴いた。

 好きじゃないジャンルなのに、気になったから。

 いつから、私は翔に会う時にオシャレするようになったんだろう。休日はジーパンとジャージばかりだったのに。

 私はどうして、自分の気持ちに素直になれなかったんだろう。

 後悔や悲しい気持ちが渦巻いて手が止まってしまう。

 こっぴどく叱られて、凛花は部屋に戻ってから泣いた。

 

 でも、せめて、翔に私の気持ちを伝えたい。

 この大切な気持ちを翔に贈りつけたい。



   ▲ △ ▲ △



 商店街のクリスマスコンサートは、毎年大きなツリーの前で行われる。

 暗がりの中で、キラキラとオーナメントが輝いている。

 マイは部活終わりで、俺を見つけると駆け寄って来た。

 水泳部は現在、休日はスイミングスクールのプールを借りて練習しているらしい。

 髪が少し濡れていて、首筋が寒そうだ。

 俺は自分のつけていたマフラーをマイに渡そうと思ったが、思いとどまった。

 その時、クリスマスツリーの光が点灯した。

 青と白のキラキラした輝きが、煌々と辺りを照らし出す。

 蝋燭を持った聖歌隊がクリスマスツリーの前にやって来た。

 列の中心に凛花がいる。

 ロングの黒髪を巻いていて、人形のように見えた。

 最前列に小さい子供がてくてくやって来た。

 長机にはハンドベルが置かれていて、みんながその前に立つ。

 凛花が前に出て、観客に向かってお辞儀をした。

 くるりと振り返り、指揮を始める。

 子供たちは凛花の合図を見ながら、「きよしこの夜」を演奏した。

 たまに凛花が伸びやかで美しいメロディーを沿える。

 俺は息を呑んだ。

 子供たちの合唱とは思えないほど、音がちゃんと揃っている。

 商店街のクリスマスコンサートはたまに俺も見に来たりしていた。その時は大体、こどもの合唱、という感じだったから、凛花の指導のお陰かもしれない。

 合唱を聞いた人たちが、商店街に集まってくる。

 演奏が終わると、みんなが拍手をした。

 次に、大人部門、聖歌隊の番になる。

 凛花は戻り、別の女性が指揮に交代する。

 凛花は天使のような白いワンピースをふわりと靡かせて、一列目の中央に収まる。

 顔を上げると、凛花は客席に慈愛の笑みを見せた。

 みんなが静かに息を呑むのが分かる。

 ラーラーラー、と音を合わせて、合唱が始まった。

 「もろびてこぞりて」

 有名な聖歌だ。

 途中からアレンジで入る、凛花の透き通った歌声に全員が聴き入った。

 他にも「荒野の果てに」などの聖歌を歌い、凛花が前に出て客席に言った。

「次が最後の曲となります。みなさんが知っている、アニメにも良く出てくる歌を歌います」

 なんだろうね、と囁きが聞こえる。

 振り返ると、いつの間にか子供だけじゃなく、高校生やたまたま通りかかったような若い大人、老人、様々な人が凛花の作り上げる歌に引き寄せられていた。

 凛花の歌にはそういう所がある。

 心が聴きたいなと思わせる、歌姫みたいな唯一無二の美声だ。

 伴奏が始まる。

 馴染みのある曲に、みんながリズムに乗って小さく身体を揺らしだす。

 「翼をください」だ。


 ー  いま わたしの願いごとが

 ー  叶うならば 翼が欲しい


 凛花が祈るように両手を組む。

 そんな小さな身体でどこから声が出てるのか、と思うほど、凛花の声量は圧倒的だった。


 ラストのサビで凛花が前に出る。

 一人だけ違うコーラスを歌い始める。

 凛花は手を広げ、伸びやかに、高らかに、力強く歌声を上げる。


 鳥肌が立った。

 それほど、凛花の歌には迫力と、表現力があった。

 美しいハーモニーに乗せられて、自分まで青空を飛べるような、自由な気持ちになる。

 でも最後はどこか寂しげで、胸が締め付けられた。


 ー 悲しみのない自由な空へ翼はためかせ、ゆきたい


 シン、と静寂に包まれ、後から大きな拍手に包まれた。

 聖歌隊は深くお辞儀をした。

 


 コンサートが終わり、俺はマイと分かれた。

 俺は凛花に会いに行った。

 凛花は俺を待っていて、まだ天使のような白いワンピースを着ていた。

 凛花は俺を見ると、眉を八の字にして、困ったように笑った。

 俺が口を開くのと同時に、凛花は俺の唇に人差し指を当てて言った。

「待って、私から言うから」

 凛花は背伸びをして、俺に目線を合わせて言った。

「翔が好き」

「‥‥」

「世界で一番、翔が好き」

「‥」

「まだ喋っちゃダメ」

「翔は私の初恋なの。こんな色んな気持ちになったのも初めて。それで、大好きなマイと仲が悪くなったのも、翔のせい。ぜーんぶ、翔のせい!」

 怒ったみたいに言った後、凛花は肩を落として小さく笑った。

 凛花は、俺が聞いた事のない、優しい声で言った。

「でもそのくらい、譲れない気持ちが恋なんだって、私、翔のお陰で知る事ができた。すごく貴重な体験ができた」

「‥‥」

「だから、謝らないで。私、もう気持ちは切り替わってるから」

「そうか」

「うん」

 俺は考えて言った。

「俺、明日からマイと付き合う。言葉に出して、伝えておくよ。凛花とは、友達でいたいと思ってる」

 凛花は無言でうなずいた。

 俺もうなずきを返し、踵を返した。

 凛花はシクシクと泣いていた。

 俺も泣きたくなるのを堪え、夜道を走って帰った。



   ▲ △ ▲ △



 クリスマスの翌日、マイが俺に言った。

「翔、今度の日曜日、あたしが泳いでいる所、見に来てくれない?」

「泳いでるところ?部活?」

「そう。強化練習試合があって、あたしも出るの。ふつうに学校のプールでやってるから、時間あったら来てよ」

「行くよ。何もないし」

「パン屋あるじゃない」

「いや、その‥時間調整して絶対行くよ」

 マイの方を優先するに決まってるだろ。

 そう言いたかったけれど、上手く言葉が出て来なかった。

 

 

 日曜日になって、俺はレジ打ちの手を止めて、両親に任せてたかつきベーカリーを出た。

 学校に入って、グラウンドへ向かう。グラウンドの斜め上にプールがあり、既に保護者や教師が集まっていた。

 俺も保護者の中に紛れて、庇のあるプールサイドから生徒を見る。

 マイは何処だろう。

 練習試合という感じで他校の生徒も集まってるので、ごちゃごちゃしている。

 だが、時間になると、プールサイドに学校ごと整列し始め、そうなると、直ぐにマイが分かった。

 女子の中じゃ頭一つ分背が高くて、スラっとしている。

 一番列の後ろに並んでいた。

 教師の笛の音と同時に、生徒が飛び込んで25メートルプールを泳いでいく。

 とても速い。

 そして、明らかに、列が後ろになる程、タイムが遅くなっていくのが目視で確認できた。

 マイは一番後ろで、つまり、一番遅い?

 教師も笛を吹くのはほぼ適当な感じで、ヒュッという音の後、マイは飛び込む。

 俺は驚いて、マイの泳ぐ姿を目で追った。


 マイは水泳が下手だった。

 運動は全部、いや、どんな事もなんでも出来るって、思い込んでいた。

 どうしてマイはタイムが遅いのに、見に来てなんて言ったんだろう。

 俺だったら‥‥もし俺がマイみたいに何でも出来るような人間で、好きな人に‥自分のダメな所も見て欲しいって思うのは、自分の弱さも知って欲しいって事で、それはつまり、本当の自分を見て欲しいって事だ。

 そうだ、俺はいつもマイがちゃんとした人間だって思っていた。何でも出来て、優しくて、出来ない事がないような凄い女の子。

 でも、それってマイの一部に過ぎないから、決めつけるのは良くなかった。

 俺だって、学校じゃ無口だけど、パン屋の仕事じゃよく喋るしニコニコ出来る。ただの陰キャって思われ続けるのは、悲しい。

 マイも悲しかったのかな。

 もっとマイのこと、知りたいな。


 部活が終わるまで、俺はマイを待っていた。

 部室から、マイが出てくる。

 俺を見ると、目を大きくして嬉しそうに笑った。

「まだ居てくれたのね!」

「うん」

「来てくれたのは分かってたよ。どうだった?」

「うーん‥」

 何を言うのがベストだろう。

 考えながら、俺は素直に言う。

「水泳、得意じゃなかったんだな。知らなかったよ」

 マイは肩を竦めて、元気に笑う。

「でしょ?なんで入っちゃったんでしょうね。自分で言うのも何だけど、運動できるから、水泳も出来ると思ってたの」

「へぇ、自信家だな」

「ええ。あたしは自信家よ。凛花よりも」

「‥そっか」

 俺はうなずきながら、自分の見ていたものに自信がなくなった。

 凛花‥凛花は今どうしているだろう。

 どうしてマイは、凛花の名前を出したんだろう。

 俺はマイと歩きだし、言った。

「俺、幼馴染だから、二人のこと、何でも知ってるって思い込んでたんだ」

「知ってる」

 マイが含みのある笑みを見せる。

 初めて見る顔で、俺は少し動揺した。

「マイは割と‥もしかして、したたか?」

「どうでしょうね」

「教えてくれよ」

「あのね、翔、大事なことを教えてあげる」

「大事なこと?」

「人っていうのは沢山のペルソナを持っているのよ。ペルソナっていうのはアイデンティティ。それは、万華鏡みたいに、姿形を変えて現れるから、人の性格を一つの言葉で括ろうとしない方が良いわ」

「‥なるほど。でも、学校とかじゃ性格は言葉で書くよ」

「翔は真面目ね。それは建前。一番大切なのは自分よ。学校や社会じゃなくて、自分がどう思うか、それが本当の正解に決まってる」

「‥なるほど、難しいな」

 さっきから、なるほど、しか言えない。

 アホみたいなリアクションしか取れないのが恥ずかしい。

 俺は挽回すべく、言った。

「俺も聞きたいことがあるんだ」

「え、なに?」

 俺はマイの腕を掴んで正面を向かせた。

「俺のどこが好きなの」

 マイは鍋に放り込まれた茹でダコみたいに、みるみる顔を真っ赤にした。

「色々よ」

「俺もマイの色々なところが好きだ。まだ知らない部分も沢山あるから、知りたいと思ってる」

 そう、俺は知りたい。

 刹那、今まで感じた事のない高揚と、高まる衝動が、俺の身体を貫いた。

 そうだ、俺は‥

 俺はマイの腕を、両手で掴んで引き寄せた。

「だから、付き合ってくれ」

 マイは驚いた顔をして、それから太陽すら霞むような、心から嬉しそうな笑みを見せた。



   ▲ △ ▲



  終曲(エピローグ)



 明日の仕込みを一通り終え、俺はうたた寝をしていた。


 列車の窓を開け、俺は桟に頬杖を突いて、外を見た。

 もう外は暗くて、閑静な田舎の風景が広がっている。ゆらゆらと揺られて、次の目的地まで、変わり映えしない流れる田んぼの風景を眺める。

 夜風が涼しい。

 カンカンカン、と踏切の音が近づいてくる。

 目的地まではまだ時間がある。

 大丈夫、もう一眠り。

 踏切の音がどんどん大きくなる。

 うるさいな。もう少し‥

 ふいに夢だと気がついた。

 俺がガバリと顔を上げると、スマートフォンのアラームが強烈に鳴り響いていた。

 慌てて画面を開く。

 

 同窓会 18時00


 現在  17時35分


 慌て過ぎて間違ってスヌーズを押す。

「ああ、もう」

 OFFに切り替え、俺は立ち上がった。

 予めズボンとシャツは着てある。ハンガーに掛けてあったネイビーのジャケットを羽織って、裏口から急いで外へ出た。

 世代が変わって昔の瓦屋根が減り、オシャレなデザインの家が立ち並ぶ大通りを、息を切らしながら転がるように走る。

 学生の頃はこんなこと無かったのに、大人になるほど逆にポンコツになっている気がする。

 ゆっくり動き始めるバスに向かって手を挙げると、運転手さんが停まってくれた。

「すみません、ありがとうございます」

 全体に頭を下げながら、身を小さくしてバスに乗り込み、駅前へ向かう。

 バスを降りて、駅前の通りを走る。

 頬が冷んやりする、と思って手を当てると、水滴だった。

 雨?

 小さな雨が降ってきて、さらに、水溜りを思い切り踏んで、びしょ濡れになる。

 ビルの二階にある、イタリアのビュッフェの店に向かう。外階段を駆け上がり、大きく息をついて顔を上げると、マイがいた。

 栗色の髪を伸ばしていて、左耳の下でまとめている。

 肩出しの大人っぽいワンピースを着ていて、俺は思わず見惚れてしまった。

 マイはぷっと吹き出して笑う。

「もう、遅刻だよ」

 そう言って、マイはカバンからハンカチを出した。

 そっと顔の濡れた部分と髪を拭いてくれた。

「ありがとう」

 マイが首を傾げ、微笑む。

 ドアの向こうから、ドッと笑い声が響いた。

 マイが俺の腕を引いて言う。

「もう皆んな、中で食事してるよ」

「待っててくれたのか、ありがとう」

 マイは腰に片手を当てて、言う。

「まず謝ってよね?」

「遅れてごめんなさい」

 俺が素直に言うと、なぜかマイは満足そうに笑った。

 マイは身を寄せると、ぎゅっと俺に抱き着いて、すぐに腕を離した。

「じゃ、行きましょうか」


 席に座り、周りを見る。

 凛花はいない。

 俺は隣の男子にたずねる。

「海野は来てないんだ」

「納期追われてへろへろだってよ。さっきグループチャットに来たよ。残念だよなー」

「そっか」

 凛花は著名なアーティストになった。

 投稿しているプーカロイドの楽曲がSNSでバズり、それから凛花は自身の声で歌い始めて、その可憐な歌声で一躍人気になった。顔がバレてからは、可愛い容姿も相まって、更に人気が加速。今はテレビでも取り上げられる程で、現在も他の歌手に楽曲提供をしたり、自身でも作曲を行いマルチに活動をしている。


 俺は少しがっかりして、注がれた烏龍茶ハイをちびちびと飲む。

 他の同級生と話をしていると、マイが立ち上がった。

「ごめん、もうそろそろ帰らないと」

 みんなが驚いて言う。

「まだ30分も経ってないけど」

「緊急で、さっき呼び出されちゃったんだ。今日は楽しかった!また会おうね!」

 マイは現在研修医で、朝から晩までほぼ毎日働いている。

 会える時間も少なくて、それでも同窓会に参加したがったのは俺ではなくマイの方だった。

 俺もてきとうに理由をつけて、そそくさと店を出た。

「あー、もっと居たかったな」

「仕事大変だな」

「まあね」

「頑張れ」

 マイは頬を染めて、うん、とうなずく。

 幼馴染としてではなく、新たなマイの一面を知っていく度に、俺は愛しい気持ちになった。

「また連絡するね」

「おう」

 俺は大切にマイの手を握り、駅の駐車場まで一緒に行って、車に乗るマイを見送った。

 俺は同窓会に戻らずに、そのまま帰ることにした。

 マイがいないと、同窓会にも気分が乗らない。

 帰路を辿っていると、不思議な感覚が蘇った。

 何だか、似たようなことがあった気がする。

 何だっけな。

 俺はたかつきベーカリーの看板を何気なく見て、小さな人影に足を止めた。

「‥凛花?」

「随分早かったじゃない」

 凛花は目を瞠るほどの美人になっていた。

「えーっと‥」

 俺が何を言うべきか迷うと、凛花は手に持っていた何かを俺に押し付けてきた。

「はい」

「何これ」

 雑誌?

 凛花は答えずに、端正な顔を近づけて言う。

「忙しいのに、時間を作ってわざわざ来たの」

「恩着せがましいな」

 俺が茶化して笑うと、凛花も笑った。

 いっぱく置いて、俺はまじめに言い直した。

「ありがとう。会えて嬉しい」

「本当?」

 意地悪そうに凛花が言う。

 俺はうなずいた。

「本当。ずっと元気かなって思ってたよ」

「‥‥」

 凛花は急に瞳を潤ませた。

「お、おい」

 凛花は顔を覆って、くるりと背を向けた。

 俺は慌てて凛花の肩に手を伸ばした瞬間、凛花は振り返って、ニッと笑った。

「やーい、騙された」

「‥‥びっくりさせるなよ」

「じゃあ、私は帰るわ。曲書かなきゃいけないから」

「え、折角来てくれたんだし、もう少し話そうよ」

「ヤダ、私は忙しいの」

 凛花は腕を組んで、自慢げに言った。

「そっか。送っていこうか?」

「へーき。大通りすぐだし。じゃあね」

 凛花は踵を返して歩き出す。

 俺は引き止めたいのを我慢して、小さな背中に言った。

「凛花、会いに来てくれてありがとう」

 凛花はこちらを見ずに、かっこよく手を挙げて応えた。


 俺が凛花に押し付けられるように渡されたのは、音楽雑誌だった。

 全部読んでいくと、凛花の特集があり、凛花へのインタビューが載っていた。

 凛花は記者の質問に、こう答えていた。


 人生のターニングポイントは「初恋」です。

 恋は私の心を大きく成長させました。

 私は彼を愛したことを、今でも誇りに思っています。

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幼馴染と三角スコーン 白雪ひめ @shirayuki_hime1212

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