第四話 オホーツク海死闘編

プロローグ

「っと」


 揺れたために速水は壁に手を付いて転倒を防いだ。

 浮上すると波の影響を受けるため、どうしても揺れてしまう。

 普段、潜行中だと全く揺れないため、洋上が凪でも波の影響を受けて揺れる。

 改めて潜水艦が船である事を再確認されせられる。

 揺れに慣れていないため乗員の何人かは、船乗りでありながら船酔いになるほどだ。

 そもそも、浮上する事自体、滅多にない。それこそ事故でもない限り行わない。

 技術が進歩し、時折充電が必要な通常動力型潜水艦でさえ入出港以外の浮上は行わない。充電の時でさえ海面直下からシュノーケルを出して行うだけだ。

 それでも今回の浮上は艦長が強く望んだことであるし、速水も乗員の誰もが必要と考えていた。

 速水自身もこれからセイル――艦橋に上がろうとしていた。


「大丈夫だな」


 艦橋へ上がるハシゴの下で速水は服装をチェックした。

 服装が比較的緩い潜水艦だが、状況が状況だけに乱れていないか確認する。

 特に手袋が外れないか念入りに確認する。

 外れてうっかり金属に触れたら瞬時に凍り付き肌を奪われかねないからだ。

 念入りにチェックし終え、艦長にかける台詞を確認すると速水はハシゴを登り始めた。

 登り切る前に手袋から掴んだハシゴの刺すような冷たさが布越しに伝わってくる。

 素肌で触ったら、皮膚が凍り付いていただろうな、と速水は思った。

 狭い艦橋に上がると、氷が張り付くような冷たい風が吹き寄せる。

 その場で微動だにしない少し小太りの海自の制服を着た男、いや、ふてぶてしい太ったボス猫――それも縁側で唯我独尊と言った態で寝ているような貫禄のある猫をイメージさせる男が立っていた。


「おはようございます艦長」


 速水は。この艦唯一の自分の上官である男に挨拶した。


「厳しい寒さですね」


 速水の台詞を聞いて深谷二佐は一瞬だけ、口端を上げるがすぐに真一文字にして重々しく答えた。


「うむ、寒いな」


 正面の海面、真っ白に覆われた海を見て更に呟く。


「厳しい寒さだ」

「艦長!」


 下の甲板から甲板士官が声を張り上げた。


「前後ハッチの点検完了! ハッチ周辺異常なし! いつでもメイティング出来ます!」

「艦長了解!」


 下に向かって深谷二佐は伝えた。

 自分の命令を達成した彼の報告に答えなければならない。

 それに、メイティング出来るか否かで任務が達成出来るかどうかが決まる。

 ハッチ周辺の点検のために浮上した訳でもあるのだ。

 艦長は再び前方を注視した。

 白く覆われた海、流氷に囲まれた海を。

 これからあそこに向かって潜る海を。

 氷は海面を覆っているだけとはいえ、潜るのは危険だ。

 シュノーケルを出すのも危険。氷にシュノーケルが曲げられたり折られたりする可能性があるからだ。

 最新のリチウムイオン電池とはいえ、容量に限界がある。

 何時までも潜ってはいられない。

 だが万が一を考えると、もしも浮上する事になった時、海面がどのような状況なのか少しでも目視で確認したかった。

 なので速水も前方に視線を向ける。

 そのためにセイルに上がってきたのだ。


 ボーッ、ボーッ


 左舷で停船している潜水艦救難艦<ちとせ>が汽笛を上げた。

 合図だ。


「艦長、時間です」

「時間だな」


 顔だけ速水に向けると再び前方に向き直って言う。


「時が来た」


 大きな波がやって来て海自潜水艦<くろしお>の艦首で砕けた。

 吸音タイルが張られた船体は黒く、葉巻型の船体は精悍だ。

 後方からはディーゼルエンジンの排気が両舷から白い煙となって吹き上がり、鉛色の空を白く染めようとしていた。


「メイティングといこう。潜航する」

「了解! 達す!」


 速水は艦内への通話ボタンを押してマイクに向かって声を張り上げた。


「合戦準備! 全艦潜航用意!」

『宜候! 合戦準備! 潜航用意!』


 発令所から応答があった。


「艦橋退去!」

「艦橋退去!」


 艦長の号令を速水は復唱し艦長がハッチを降ていく。速水は他の乗員が全員降りるのを確認してから、あとに続きハッチを閉じる。

 ハンドルを回し閉鎖する。


「閉鎖確認よし!」


 念入りに締まり具合を速水は確認する。ハッチ閉鎖の確認は重要な仕事だ。

 ハッチを閉め忘れて沈没した潜水艦も実在するので疎かには出来ない。

 確認を終えるとハシゴを下りて整列する乗員の点呼を行う。


「番号!」

「七!」「六!」「五!「四!」「三!」「二!」「一!」


 外に出た者が逆順に番号を言う。

 順番に言うと人数が足りなくてもスルーしてしまう可能性があるからだ。

 逆順に言えば抜けた数を意識するので、外に残してしまう事故を防げるので<くろしお>ではこの方法で行っている。


「艦長、総員艦内に戻りました。ハッチ閉鎖確認」

「よろしい、解散! 配置に付け!」


 艦長が解散を命じると、乗員は各部署へ戻っていく。艦長も前方の発令所へ向かい速水も続く。


「ディーゼルエンジン停止! 吸気弁及び排気弁閉鎖確認!」

「動力バッテリーに切り替え完了。現在五ノットで航行中」

「バッテリー充電完了。満タンです」

「ソナー異常なし。海中に障害物は見当たらず」

「魚雷発射管室異常なし」


 発令所に入ると次々と報告が入る。


「各部確認完了! 潜航準備整いました!」

「よろしい。潜航! ダウントリム五! ベント開け!」

「潜航! ダウントリム五! ベント開け!」


 号令を出すとバラスト担当者がベントのを前方から順に開けて行く。

 バラストタンク上部に付いたベント――弁が解放されタンク内の空気が抜けて行き、海水が入り込んで行く。

 両側のタンクが海水で満たされる音が発令所にも響き渡る。

 音だけでも迫力があるが外はもっと凄い。

 ベントの付近から空気が吹き上がり、巻き込まれた海水が空高く白い水煙を、あたかも黒い船体を白いベールで隠すように舞い上がらせる。

 スクリューを回し前進しながら<くろしお>は徐々に海の中へ潜って行き、その船体を海中に没した。


「艦、潜航しました。各部異常なし」

「深度一〇〇につけ。<ちとせ>の位置は分かるか?」

「本艦の左側面五〇〇にいます」


 ソナーが報告する。


「操舵手。取り舵。<ちとせ>の周りを回りながら、左側面に付け」

「了解!」


 操舵手がゆっくりとジョイスティックを操作し命じられた位置へ向かう。


「発令所、こちらソナー。<ちとせ>の開口部が開きました。昇降台が降りています。今停止。DSRV発進しました。予定通りです」

「よし、こちらも予定通り行動するぞ。DSRVの連中を待たせるな。メイティングの時間に遅れたら失礼だ。連中が不安がるぞ」

「宜候!」


 操舵手が返事をしたが、声が固かった。

 これからの任務を考えると仕方ない。

 速水達の乗る<くろしお>はDSRVを背後に乗せてロシアが聖域どころか領海と宣言したオホーツク海へ潜入するのだから。

 

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