オホーツク海領海宣言
「オホーツク海はロシアの生命線であり核心的領域である。この海域を守る為ロシアはあらゆる手を尽くし、侵略するあらゆる敵を撃退する」
二〇二二年二月、誰もが予想しなかったウクライナ戦争を起こして以来、ロシアの国際的孤立は深まっていった。
戦争にも孤立状態にも打開策を見いだせないロシアは対外的に強硬姿勢を見せつける以外に方法がないからだ。
それがより孤立を高めたとしても、他に手が無かった。
そんな中、ロシア政府が突如発表したのが、冒頭にあるようにオホーツク海の領有である。
明確に領海宣言こそ出していなかったが、事実上の領海としての宣言だった。
この宣言は、西側諸国の反発を、特に普段温厚な日本政府さえアメリカと共に強くロシアに抗議していた。
北海道北東海岸がオホーツク海に面しているのだから当然だった。
だが、ロシア政府は撤回するどころか更に一歩踏み出した声明を出した。
「今後オホーツク海へ許可無く侵入するロシア船籍以外の船舶は無警告での撃沈もあり得る」
侵入次第、攻撃する、とさえ解釈できる文言。いや、それ以外に解釈のしようがない言葉に日米は驚き声を失い、次の瞬間激しく抗議した。
ありとあらゆるルートからロシアに撤回するよう提案しても無駄だった。
常任理事国がロシアのため拒否権を発動されるためだ。
そのため各国がロシアに個別に抗議する事になった。
「オホーツク海の領有宣言を撤回して貰いたい」
日本政府は連日、外務省を通じて話しかけたが
「オホーツク海は歴史的にロシアの領海だ。他国の口出しは内政干渉だ」
駐日ロシア大使は毎日同じ文言を繰り返すだけだった。
「それとも日本は再び領土拡張、侵略を行うというのか? その手始めにオホーツク海を狙うというのか」
「日本は平和主義です。領土拡張の意思はありません。ロシアによるオホーツク海領有は国際法に反し世界の秩序を乱します」
「クリル列島を難癖付けて奪おうとしている日本に言われたくない」
相変わらず無茶苦茶な主張を、臆面も無く、堂々と言うものだと速水は呆れを通り越して感心してしまう。
勿論、オホーツク海全体がロシア領海だという国際法の根拠はない。
海上自衛官として、特に幹部として幹部候補生学校から各種学校で国際法を叩き込まれてきた速水にとっては自明のことだ。
だが、目の前のロシア大使があまりにも堂々とし過ぎていて、教えられた事を忘れてしまいそうなくらいだ。
目の前で言われると迫力があり変な説得力が出てしまう位に。
「オホーツク海は日本の沿岸でもあります。オホーツク海へ出る国民もいます。沿岸で海を生業とする日本国民が出ていったとしても攻撃するのですか」
「ロシアの国益を侵害するのであれば当然だ」
あまりに強硬な姿勢に、日本側は怯む。
ただ、速水にはロシア側にも余裕がないように見えた。
(何か条件を出してくると思ったんだけどな)
ロシア大使館の一室で交渉に同席した速水は思った。
何時もの作業服ではなく、第一種の服装、黒のジャケットとズボン、ネクタイに白い制帽という出で立ち。冬服と呼ばれる海上自衛官の制服だ。
ジャケットもズボンも白の第二種、夏服が格好良く、世間的に人気だ。
だが速水は個人的に冬服の方が好みで着ることを好んでいる。
4K――キツい、汚い、危険、臭い、の四拍子が揃った潜水艦の中では作業服で過ごす事になっているが仕方ない。
同期会や司令部への報告などで着る機会があればなるべく着ている。
だが、市ヶ谷へ出頭というのは、戸惑いの方が大きい。
怪訝に思いながら市ヶ谷に呼ばれて来てみれば呼び出した人間が、外務省の交渉に助言者として、すぐに行ってくれ、と言うのだ。
非公式仮想敵国のためロシアの事は学んでいるが、外交経験のない速水が同席しても意味がないと速水自身も思っていた。
だが、何故か現役潜水艦乗りとしての意見が必要ということでもう一人の幹部自衛官と共にオブザーバーとして同行させられた。
此方は、ロシアでの駐在経験もあるロシア通で公式には海幕所属だが、実際は情報本部に所属する情報畑、それもロシアの専門家だ。
彼一人で十分だと思ったが、何故か速水も同席させられている。
此方もロシア側が条件、軍艦、日本の護衛艦がオホーツク海へ侵入するのを禁止するという妥協案――と見せかけた本命を口にすることが予測され、その対応をするためだ。
だが、何故かロシアが条件を出してこないため、彼も口出しできない。
そのため速水は完全な部外者となり、冷静に現状を俯瞰することが出来た。
(ロシアは、ひたすらオホーツク海に誰も入らせたくないようだ。それも入らせたら終わりみたいな感じだな)
確かにオホーツク海はロシアの重要な海だ。
日本列島の北にある海で漁場も豊富。そこから得られる富は計り知れない。
しかし、大半が亜寒帯に属するロシア沿岸に大きな港はなく、今後も出来る見通しはない。
出来たとしても不便な海だ。
使いにくいが相手に譲ることも出来ない海。
それがロシアにとってのオホーツク海だろう。
領海を主張して外国を排除する程の必要性はない。
(他国に入られては拙いこととは何だ? 戦略原潜の聖域にしたいにしても露骨すぎる)
ロシアは戦略原潜を自国の近くに待機させ、命令あり次第発射する態勢を冷戦期から維持している。
弾道ミサイルの射程が一万キロを超えるのも、ロシア近海から米国本土を狙うためだ。
そのため北極越しに狙える北極海に最新の戦略原潜を配備しており、これは冷戦後も変わらない。
だが、近年状況が変化し始めた。
地球温暖化により、北極海の氷が溶け始めたのだ。
かつては一年中氷に閉ざされたため、水上艦艇や航空機が活動出来ない、ロシアの戦略原潜を狙う米海軍やNATO軍から守られる天然の要塞だった。
だが、温暖化で氷が溶け、通行可能になりつつある。
北極海航路が生まれそうになっており、新航路の開通で経済面が活性化する事が予想され、ロシアを含め各国は歓迎している。
だが、軍事面、特にロシアの軍部はこれまで誰も攻撃出来ない、侵攻不能と考えていた北極海へ容易に侵入されることになり警戒している。
北方艦隊を軍管区――陸海空軍の部隊を指揮統率できる上級部隊に格上げした上、北極海に部隊を展開する訓練をウクライナ侵攻前に行ったのも危機感故にだろう。
しかし、原潜の安全な海域、それも核抑止の柱である戦略原潜の生存性が脅かされるのは避けたい。
そこで、ロシアが目を付けたのがオホーツク海だ。
千島列島――ロシアがクリル列島と呼ぶ島に遮られ容易に侵入しにくい海を聖域にして安全を確保しようと考えているのだ。
流石にワシントンやニュースなど東海岸は無理だが、ここからならアメリカの西海岸を狙える。
最低限の抑止力を確保したいと安全を高めようとしている。
(しかし、反発が大きいやり方はマイナスだろう)
核抑止が出来ても国の経済がガタガタになるような、ウクライナで課された経済制裁が更に強化される事態はロシアも避けたいはず。
なのにオホーツク海の領海宣言をするのは他にメリットがあるのか、はたまた考える余裕がなくなり自棄になっているのか。
速水は、何が正解か考えたが、答えが出る前に時間切れとなった。
「交渉は終わりだ。帰って貰いたい」
ロシア大使が宣言したため、日本側は何の成果もなく退出することとなった。
速水も何も発言しないまま、そして相手側からも聞けないまま、ロシア大使館をあとにした。
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