海南島

出港準備

「いつもながら此処を通るのは時間が掛かるな」


 袋状のバッグを担ぎながら横須賀の米軍地区へ入った速水三佐は愚痴った。

 横須賀は多くの面積を米軍が占めている。

 そのため一部施設が米軍の管理区画の中にある。

 海自の第二潜水隊群の施設、潜水艦が係留される第一から第三バースまでの桟橋も米軍施設の中にあるのだ。

 そのため、乗艦するには米軍の通行許可、本人確認が必要なのだ。

 敬礼してくる乗組員に答礼しつつ、速水はタラップを上り<くろしお>に乗り込んだ。


「ふう、上陸も終わりか」


 上陸――休暇が終わっても不思議と残念な思いはなかった。

 一月ほど前、中国潜水艦とゲームを繰り広げた後でも、無事に帰還しても転属したいとは思わなかった。

 どうも速水は根っからのドン亀乗り――潜水艦乗組員のようで、艦にいた方が安心する。

 金属音の響くタラップを上がった後、潜水艦の甲板に立つと、足音は消え足裏に鈍く柔らかい反発が加わる。

 甲板には消音と音波吸収のために特殊ゴムタイルが貼られていて、それが独特の反発となって足裏に伝わるのだ。

 初めは不思議な感覚だったが、慣れた今では、波に揺れて規則的に傾く甲板と同じように懐かしささえ覚える感覚だ。

 艦に戻ってきたことを実感しつつ背負ってきたバッグを甲板に設置された秤に乗せて重量を量る。

 潜水というのは浮力と重力のシーソーゲームだ。

 艦内の重量、乗組員の私物の重量も計算に入れてバラストを調整する。

 しなければ最悪艦が海中で転覆してしまう。

 上下逆さまの世界などファンタジーだけで十分だが、潜水艦の中では起こりうる光景だ。

 だから甲板に置かれた秤で全て正確に量る。

 勿論、私物だけでなく搭載品、装備品や食料も計量する。

 重量を記入すると、速水はハッチから艦内へ入る。

 袋状のバッグはハッチに合わせて作られているので入れやすい。開口部がハッチのみの潜水艦は、できる限り機材をハッチから出し入れ出来るように設計されている。

 乗組員の私物も同じだ。

 そしてスマホを取り出すと電源を切って専用の壁掛け袋の自分の場所へ入れる。

 艦内でのスマホおよび撮影機材の使用は厳禁だ。

 乗組員のスマホも乗艦したらハッチ下にある収納スペースに電源オフで入れる規則になっている。

 そのまま艦内を歩き士官寝室区画の自分の部屋に入り、バッグから自分の私物、予備の制服などを収納スペースへ入れる。

 入れ終えると、艦内の巡検に入った。

 出航前に調子の悪い機器がないか、点検や調整が終わっているか、交換した機材は無事に作動テストを終えているか、新たな不具合は出ていないか確認する。

 出航したら数十日は帰ってくることは出来ない。

 もし故障が発生したら自分たちで直せなければ、そのまま寄港するまで放置、使用不能になる。

 もしも機関とか圧縮空気ポンプなど航行に支障を来すものだったらその場で浮上、救援して貰わなければならない。

 日本製のディーゼルエンジンの信頼性は抜群だが、航行中の保守点検があってこそだ。

 整備機材やオイルなどの消耗品、その予備が有るかどうか、海水の流入がないかを確認する。

 単艦で行動するため、全て自己完結、究極の自己責任といえる。

 食料の積み込みも忘れてはならない。

 ありとあらゆる場所へ積み込む。

 士官食堂のソファーの下も収納になっているので入れておく。

 それでも冷蔵庫の容量が小さいし、補給も出来ないので食材は限られる。

 特に生鮮食料品、野菜は最初の一週間程度しか出せない。

 冷凍庫はあるが、冷凍食品は味気ない。

 ビタミン豊富な野菜が恋しくなるのは船乗りの宿命だ。


「そう、悲観することないでしょう。今回の任務はグアムで訓練の支援でしょう。<ちとせ>もいますし」


 積み込みを行っている乗員が速水を見て言う。

 今回の任務は、グアムで行われる航空隊の訓練の支援だ。

 彼らの標的となったり、潜水艦の内部見学を行う事になっている。

 そして、新たに配備された潜水艦救難艦<ちとせ>も、参加してくれる。

 潜水艦救難艦は文字通り潜水艦が事故を起こしたとき、乗せている救難艇DSRVを使って浮上出来ない潜水艦から乗員を乗せて救出する艦だ。

 だが、同時に新たに建造された<ちとせ>は二代目の<ちはや>と<ちよだ>では削除された潜水艦の母船としての機能もある。

 <ちとせ>は一隻の中に潜水艦一隻八〇名分の宿泊施設と大浴場を含む休養施設、生鮮食料品の保存庫や冷凍庫、魚雷、燃料の補給設備、充電給電設備がある。

 特に風呂は重要で、シャワーしかない潜水艦にとってありがたい設備だ。


「そうだな」


 速水は軽く答えて、周りを見た。

 艦艇配置の長いベテラン海曹の顔が強ばるのが見えた。

 勘の良い、彼らは定時の訓練とはいえ、<くろしお>に何故そのような手厚い支援が行われるのか感づいているようだ。


「さて、準備は良さそうだな」


 一通りチェックして異常が無いことを確認。

 全ての食料、燃料、弾薬、その他消耗品が積み込まれている事を確認。

 積み込まれたものの重量と位置を元にバラストを調整し終え速水は艦長室へ向かった。

 閉ざされることのない扉に掛かった薄いカーテンに向かっていう。


「艦長、出港準備整いました」


「おう」


 中から艦長の威勢の良い声が響いた。


「じゃあ、いっちょやりますか」


「了解、全乗員に桟橋に集合するよう命じます」


 そう言うと速水は前方にある発令所に行き、全乗員に桟橋に集合するよう艦内放送で命じた。

  

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