潜水艦と海水のシーソーゲーム
潜水艦がどういう乗り物か聞かれたとき「シーソーみたいなものだ」と速水は答える。
海中に潜ることが出来るが、その状態は危ういシーソーの上にいるようなものだからだ。
潜行中の潜水艦が海中で沈みはしないが浮かびもしない状態は、浮力と重力が綱引きをして保たれている。
そのため、一寸した変化で潜水艦へ大きく影響する。
海水密度は特に潜水艦への影響が大きい。
船にかかる浮力は、排水量、船体が押しのけた水の量で決まるため押しのけた水の密度、海水密度でバランスが変わってしまう。
海水の密度は1.02 - 1.035 g/cm3。
幅があるのは、塩分濃度や水温で密度が変わるからだ。
そして、東京湾近海は複数の海流が入り込む上、湾に流れこむ河の水が入る事もあり、密度の変化が激しい。
僅か0.01g/cm3の変化でも大変だ。
「海水密度の変化に対応出来なくてバラスト調整に失敗。沈み込んだな」
後ろの中国潜水艦がいきなり沈下したことを聞いて、速水は何が起こったかを把握していた。
特に排水量の大きい大型の潜水艦は海水密度の影響を受けやすい。
浮力は排水量に比例するからだ。
元型潜水艦の排水量は2400t。
0.01g/cm3=0.01t/m3だから0.01g/cm3の変化でtあたりの容積がほぼ同じと仮定すると0.01g/cm3変化すると浮力が24t前後も増減してしまう。
結果、釣り合いが取れるまで――船体の重さに対して十分な浮力が得られるまで潜ってしまう、最悪沈没――二度と浮上出来なくなってしまう。
今、海水密度の低いレイヤー、海水層に入ったため、中国潜水艦は浮力が急激に減少し、落とし穴にはまったように急速に潜ってしまったのだ。
<くろしお>は長年、この海域で活動していたこともありレイヤーの位置を知っていた。
違うレイヤーに入る前に予めバラストを排水し、浮力低下に備えていたため、沈下しなかった。
<くろしお>を監視していた中国潜水艦は気がつかず、レイヤーに入ってしまったのだ。
潜水艦が主戦力となり、その潜水艦の航行に必要な情報として各海域の深度毎の海水密度の収拾、他の海洋観測は海軍の重要な任務になりつつある。
尖閣沖で度々海洋観測艦が入ってくるのも威嚇と既成事実の積み重ねの他に、潜水艦が活動するための海洋観測を行っているに違いない。
さすがに中国軍も東京湾周辺のまともなデータを持っていないのでレイヤーに引っかかったようだ。
「艦水平へ。右へ転舵せよ」
<くろしお>の潜航を止めて後ろの中国潜水艦の様子を見るべく艦を回頭させる。
「中国潜水艦の様子はどうだ?」
「相手の深度は四〇〇。なお沈下中」
「早く対応しろ。もう安全深度は過ぎているだろう」
このまま沈下すれば圧壊危険深度、潜水艦が水圧で潰れる深度まで行ってしまう。
水圧は深度が10m増す毎に一気圧増える。
深度三五〇なら35気圧――1平方センチあたりに35キロの力――親指の爪の面積に小学五年生男子の体重が加わってるようなものだ。
潜水艦乗りは「潜る」と「沈む」を明確に区別する。
潜るとは、もう一度浮かび上がれることを意味し、沈むは二度と浮かび上がれないことを示す。
水上艦でも沈むことは出来る。キングストン弁を解放したり、船体に穴を開ければ海中に沈める。そして二度と浮かび上がらない。
だが潜水艦は、潜れば浮かび上がれる作りだ。
それが海中にあっても任務を遂行出来るサブマリナーのモチベーションとなっており矜持である。
罠に嵌めたとはいえ、相手の潜水艦が沈んでしまうのは、避けたい。
「中国潜水艦の深度五〇〇……! 中国潜水艦、ブロー音! 浮上しています。沈下速度減少止まりました。相手の深度六〇〇」
「止まってくれたか」
速水はホッと一息吐いた。
潜水艦の安全深度は1.5の安全係数――圧壊深度の三分の二が安全を維持出来る深度とされている。
東シナ海での行動を前提とした元型潜水艦は安全深度が200~300とされている。
ちなみにアメリカのロサンゼルス級とヴァージニア級は450、シーウルフ級は610、海自潜水艦は非公開とされている。
一部海外軍事研究誌では海自の潜水艦は500、最高で900は行くのではないか、と記事を出しているが速水達は、はぐらかしている。
中国潜水艦が限界と想定される450でも圧壊しなかったのは、想定より性能が良いのだろう。
これだけでも相手の限界を知ることの出来た値千金の情報だ。
「ブロー音と内部から多数の機器の作動音、浸水音が聞こえます」
それでも限界に近い深度だったのだろう。
相手の艦内は、沈下で内部の機器に異常が生じたり、圧壊寸前の深度で水圧が増大し、内部への浸水――船体はともかく冷却用の海水取水用の配管などに圧力が掛かり、艦内に噴出しているようだ。
浸水を避けるために浮上するのは当然の処置だ。
「中国潜水艦、スクリュー作動。回頭しています。針路南、急速浮上しつつ離脱して行きます」
「諦めてくれたようだな」
艦内への浸水、下手をしたらバッテリーに掛かって塩素ガスが発生しているだろう。
修理のために離脱するのは当然だ。
状況によっては、母港への撤退を考えないといけない状態だ。
「相手潜水艦、海面直下まで浮上。ディーゼルエンジン始動」
換気にはディーゼルエンジンを回した方が良い。
それに完全に浮上すると姿を見られてしまう。
海面直下で留まっているのは、彼らのせめてもの矜持だろう。
「このまま帰ってくれると良いのだが」
換気が必要な程、損傷があるのならば、帰るしかないだろう。
それでも諦めの悪い奴は留まるだろうが。
相手の動きを見る限り、速水には判断しかねた。
「しかし、問題になりませんかね」
「何がだ?」
航海長が疑念を抱いたので、速水は尋ねた。
「今回の行動は一寸やり過ぎでは? 魚雷発射管への注水と開門、アクティブソナーの使用。中国側が公表したら問題でしょう」
「大丈夫だ。試験中の不幸な偶然と錯誤さ」
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