廃れ行く伝統芸
「当直を交代する」
「当直を交代します」
配属されたばかりの航海士が報告すると、あからさまにホッとした表情をした。
海自の陸上学校のなかで東の第三術科学校に並ぶ緩い潜水艦訓練隊だが、その後の配置教育で徹底的に扱かれて――白い船体図に艦内配管を全て記載するという項目をはじめ、厳しい訓練を経てきたサブマリナーだ。
ただ、経験が少ないのも確かであり当直から解放されて安堵するのも仕方ない。
緊急時には艦長や副長が駆けつけるとはいえ、艦内の全権を掌握し、日々の業務やトラブルを出来るだけ自分で適切に処置する事が当直には求められる。
水上艦なら、あと数年は艦内配置で鍛えられてから与えられる仕事だ。
だが、70名しか乗員のいない潜水艦、しかも人手不足で一割減となっているため、経験が浅くても当直を任される。
当直責任者は非常に良い経験だが、若い人間には重荷だ。
「比重が低いな」
「申し訳ありません」
引き継ぎの書類を確認して思わず速水が呟いた言葉に航海士が謝った。
しまった、と思ったが、もう遅い。
バッテリーの比重、充電は通常動力型潜水艦に取っては死活問題だ。
充電されているバッテリーの比重が重くしておく事は大事だ。
電池切れで行動不能、浮上不能など全員の死を意味する。
それに充電時間、上空から見つかりやすい海面近くにいる時間が長引く。
だからできる限り当直中に充電をして、ほぼ満タンの状態で当直を引き継ぐのが、暗黙のルールとなっている。
そして、引き継ぎの時に比重が低いと、嫌みを言われるのだ。
速水も若手士官の頃経験しており、嫌なものだ。
「済まない。この辺りだと難しいだろう」
多数の船が通過するこの海域で充電をするのは難しい。
躊躇しても仕方のないことだった。
ただ、充電のために船の居ない海域へ針路を変更する位の事はして欲しかった。
潜水艦は隠密性を維持する為に比較的広い哨区を設定されており、その範囲の中では自由に航行出来る。
船の少ない海域を見つけ出し充電出来るよう先を見通して指揮を執って欲しかった。
「次は充電出来る海域の見当を付けて指揮するように」
なので注意点だけ伝えて航海士を解放した。
「ソナー室、周囲の状況はどうだ?」
発令所右前にあるソナー室に副長は尋ねた。
「先ほどまでいたコンテナ船離れて行きます」
「よし、充電するぞ水雷士、面舵その場回頭」
「宜候」
副長の命令で水雷士が操舵手に命じる。
主兵装である魚雷発射管を艦首に固定されている潜水艦は、攻撃時、目標へ艦を向ける必要がある。そのため、水上艦とは違い、通常の操舵も航海科ではなく水雷科が指揮をする。
船を操りたくて航海科に入ったが潜水艦に配属され、現実を知って、水雷へ転科した人間もいるくらいだ。
彼らは上手く操舵して、音も立てずその場で一周した。
「ソナー室、周囲の状況はどうだ?」
「海中目標なし、海上も先ほどまでいたコンテナ船が離れて行きます」
「良し」
充電中の潜水艦は非常に無防備だ。
上空から発見されやすいし、海面という天井、浮上したら海上艦と同じ状態になり下から攻撃されたら逃げられない状況に置かれる。
だから周囲に潜水艦がいないか確かめてから浮上し充電する。
「トリムアップ五、潜望鏡深度まで浮上」
「宜候」
彼らの操舵は、上手く行き海面直下まで浮上する。
潜水艦は入出港以外で浮上する事は殆ど無い。あるのは訓練かミスをしたときだ。
港への出入り以外で浮上するのは恥だ。
そして、潜望鏡深度を維持するのは至難の業だ。
浮上すると海水の密度が軽くなることが多く、潜水艦の浮力が増大し、そのまま浮上してしまうことがある。
増大する浮力に合わせて調整するのが腕の見せ所だ。
そして、海面直下に来てもまっすぐ進ませるのは難しい。
海中は波の影響が殆ど無く、潜水艦は揺れはしない。そのため水上の船で船酔いするクルーもいるほどだ。
だが、海面直下は波の影響を受けやすく、揺れるし時に波の谷間から潜水艦が飛び出てしまうこともある。
この状態で一定の深度を保つのは難しい。
しかも上手く安定させても、一寸操舵のジョイスティックを上げただけで海面に飛び出る。
かといって、あわてて下げすぎると潜望鏡が海中に潜る。
ここの加減が難しい。
だが<くろしお>のクルーは上手く操舵して、潜望鏡深度で艦を安定させた。
「潜望鏡出せ! 一周したらすぐにしまえ」
安定すると副長は命じた。
近年の潜水艦は非貫通型潜望鏡、昔の潜水艦に出てくるような潜望鏡は廃止され、カメラと光ファイバーを使った機器を海上に突き出すだけだ。
それまでは潜望鏡使用者だけが外を見ていたが、画像を保存することで全員がモニターで見る事も可能になった。
だが、映画のように潜望鏡を覗くことは過去の光景になって仕舞った。
そして、潜望鏡を扱う際の技能――具体的には素早く周囲の状況を確認するため、上がっている最中に潜望鏡に取り付き、素早く一周。一周回り終える前に下げるよう命じ、潜望鏡を海面に出す時間を、潜望鏡が発見される危険を最小限に抑える技能が不要になってしまった。
大変な苦労だが、長年の伝統芸に近い潜水艦乗組員以外は身につけられない技術が、不要になる事に速水には、サブマリナー――潜水艦乗組員として一抹の寂しさを感じていた。
特に殆ど映画でしか見ることの出来ない――さすがにレーダーに探知されるので長々とみることはしないが、潜望鏡を覗くという、潜水艦の醍醐味となる瞬間がなくなるのは悲しい。
「潜望鏡、収容しました。周囲の画像取り込みは良好。画像解析完了、海上に障害物なし」
古い潜望鏡に代わって現代のIT技術を駆使した画像解析で、周囲の確認を終える。
「レーダー波探知せず」
周辺の確認は終了した。
海上には誰もいない。条件は整った。
速水は命じた。
「よし、シュノーケル伸ばせ。充電開始」
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