第30話 誘惑と狂乱
今朝見た夢を忘れていたわけじゃない。
僕たちは一人にならないように気をつけていたけどうまく行かない時もある。
僕が昼休みに生徒会室にいくと、シンシア嬢が一人だった。今日は授業が午前中だけだったので六月用に新しい企画を立てようという話になっていた。
でも、まだシンシア嬢には何も話していないはずだ。
だから、僕はここにシンシア嬢がいるなんて思っていなかったのだ。
「ボブバージル様。一人なんですか?」
シンシア嬢が大きな瞳をキョトキョトさせてこちらを見つめる。踵を返して帰りたがったが、さすがにそれは失礼にあたるだろう。
「あー、そうみたいだね……」
何も問題はないようなふりをした僕は、生徒会室のドアを開けたままにする。これは男女が二人きりになったときでも、何もないと表す大事なことだ。本来なら女性のための配慮なのだが、今回はもちろん僕の潔白を証明するためである。
「私、ボブ君とゆっくりお話したかったんだ」
先程の無垢な瞳とは真逆なトロンと溶けた妖艶な瞳でこちらを見つめたシンシア嬢が、執務机の近く立つ僕に近づいてくる。
「君に愛称を許した覚えはないよ」
僕の体は張り付けられたように動けない。目眩がして頭もグラグラしてきた。
「ボブ君はいつも私を気にしてくれていたよね」
甘ったるい声のシンシア嬢が僕の腕に絡みついてくる。
「君から迷惑をかけられないように注意していただけだ」
僕は視線はシンシア嬢には向けず、言い募る。シンシア嬢の瞳を見つめると、そのまま絡み取られてしまうような感じがするのだ。
「あんなに熱い視線をくれていたのに、今までうまくいかなかったなんて……。私たちには障害が多いのね」
絡みついた腕をさらに絡ませ、豊満な胸を押し付けてくるシンシア嬢がどこを見ているのかわからない。僕は彼女を見るつもりがないのだ。
「君とは『私達』なんて言われる関係ではないよ」
僕はできるだけ冷たく言い放つ。
「でも、障害は多いほど恋は燃えるものだわ」
僕の言葉はすべて無視か。まるで今、演劇のヒロインになっているかのようなシンシア嬢のセリフに嫌気がさす。
「君と恋なんてしないっ!」
体は動かない。今、僕が抵抗できるのは口だけだ。目眩は激しくなり、頭はグラグラしている。それでも抵抗し続ける。
「今なら、あなたがどれだけ私を求めていたのかがわかるわ。他の人に私を取られたくなかったのね。だから、あんなに私の邪魔をして」
僕の正面にまわって僕の胸あたりを擦る。気持ち悪い。
シンシア嬢が僕の顔を見上げて微笑んでいることが視界の隅でもわかる。
「他の人って僕の友達だよね。君みたいな女に友達は渡さないよ」
僕は友人たちの顔を思い浮かべて目眩で倒れそうな体と戦う。
「私はボブ君の辛さをわかってるよ。公爵なんて継ぎたくないよね? お兄様の代わりなんてしなくていいのよ。お兄様の影に怯えないで」
僕の頬を両手で触る。口づけでもされてしまいそうだ。
しかし、『公爵なんて継ぎたくないよね?』と言われた瞬間、体を捕らえていた何かが少しだけ緩んだ気がした。
「何を言ってるんだ?」
「公爵になんてならなくてもいいのよ。
あなたはあなたの実力だけで侯爵になれるわ。あなたが自分で得る地位よ。
だから、あなたはあなたの好きなことをすればいいの。大丈夫、私がついているわ」
『パリーン』
僕の中で何かが壊れた。僕はシンシア嬢の肩を両手で掴んでいた。シンシア嬢をガクガクと揺らす。
「お前に何がわかるんだっ! 僕は兄上のことも大好きだし、家族も大好きなんだっ! もし、何らかの理由で僕が公爵になることになったとしても、それは受け入れるさ。その上で、家族もクララも守ってみせるよっ!
そもそも、君は根底が間違っているんだ。
まず一つ! 兄上は生きている。来月には結婚式だ。僕に新しい家族が増える。
次に一つ! 僕はすでに好きなことをしているよ。次男だからね。自由も友達もいっぱいさっ!
更に一つ! 君の存在なんか、僕には何の役にもたたない。君がいるから大丈夫だなんて、気持ち悪いこと言うなっ! 僕にはクララがいる。それで充分なんだよっ!」
言いたいことを吐き出すと思わずシンシア嬢を突き飛ばした。僕の目はきっと血走っているだろう。眉は釣り上がり、まさに鬼のような形相でないかと思う。それほど怒りで狂いそうだった。
しかし、その時後から衝撃を受けた。後ろを振り返るとクララが僕に抱きついていた。
「ジル! ジル!」
泣きながら僕の名前を呼ぶ愛しい声。
「ク、クララ、僕は……」
僕の中の怒りの塊が急速に縮んでいく。この人にこんな顔は見せたくない。この朗らかで優しくて温かなこの人に、僕がこんな怒りを持つような男だと思われたくない。僕はこの人の隣に立つべき男でありたい。
僕の目には……僕の心には……もうクララしか映っていなかった。
「な、なんで? なんで、私を好きにならないのよっ! そんな女より私の方がずっと美人じゃないのっ!
アレクシスが生きてるですって?! どういうことよ。じゃあ、まさか?! ブランドンも生きているの? 二人は死んでいるはずでしょう?
じゃあ、コンラッドを落としても王妃になれないってことなの? ふざけないでよっ!」
シンシア嬢が何か騒いでいるがどこか遠い喧騒のようだ。僕はクララを抱きしめて自分を取り戻そうとしていた。
「なによそれっ!
そもそも、なんで誰も私を虐めないのよ。だから、男たちが私になびかないんじゃない!
そうよ! あんたが悪いのよっ! 全部全部、あんたがっ!!」
シンシア嬢が動いた。僕はゆっくりだが目でシンシア嬢を追った。
シンシア嬢の目はマーシャだけを見ていた。マーシャが襲われる! そう気がついて僕は目を見開いた。それと同時にコンラッドがマーシャを抱き庇う。コンラッドの背中にはセオドアが立ちはだかった。そして、セオドアがシンシア嬢を止めて……投げた。
僕にはすべてがスローモーションに見えた。
「ぎゃー!」「きゃっ!」
シンシア嬢が物凄い悲鳴をあげて転がる。クララは女性が投げられたことで小さな悲鳴をあげた。
「ウォル。衛兵を呼んできてくれ。第一王子である兄上の死を願っている者を放っておけない」
キビキビとした口調でコンラッドが指示をだす。
「はっ!」
ウォルがすぐさま走っていく。
「バージル。クララを連れてセオドアの後ろに回れ」
「はい」
僕はただ反応して動いた。
『これが上に立つことを学んできた者の指導力というものかもしれない』と、僕は後で考えることになる。とにかく今は指示に素直に従うだけだ。
僕とクララはお互いに支え合うようにコンラッドの隣まで移動した。
「セオドア。シンシア嬢から目を離すなよ。そのまま右へ二歩。木剣がある。構えろ」
的確に現状を最善な形にしていくコンラッド。コンラッドはいつの間にか、胸ではなく、背中でマーシャを支えていた。
「はっ!」
壁にはいつもセオドアが暇をみつけては素振りをしていた木剣が立て掛けてあった。セオドアもコンラッドの指示に従う。
シンシア嬢は頭を抱えて座り込み、ブツブツつぶやいている。セオドアは木剣ではあるが、そのシンシア嬢に剣先を向けて体制を整えた。
「決して外へ出すな。動くようなら怪我をさせても構わない。責任は僕が持つ」
「はっ!」
セオドアならシンシア嬢の足を狙って動きを止めることは造作もないことだろう。
「マーシャ。大丈夫か?」
コンラッドが少し優しい口調になりマーシャを気遣った。何せ襲われそうになったのは、一番近くにいた僕やクララではなく、マーシャなのだ。
「はい」
それでもマーシャはしっかりとした口調で答えていた。
マーシャは八歳頃から数年間、王妃候補として他の候補者とともに王宮で学んでいた。しかし、その後も公爵家でマーシャ以外の跡継ぎができなかったこともあり、ブランドン第一王子の婚約者候補から降りたそうだ。
マーシャが公爵家の跡取りにも関わらず十五歳まで婚約者がいなかったのは、そういう理由だ。そして、コンラッドが婚約者を求めた時、真っ先に名前が上がったというわけだ。
ここでの冷静さはその時の教育の賜物かもしれない。
「では、クララを連れて廊下へ出ているんだ。万が一でも君たちに怪我をさせるわけにはいかない。衛兵が来たら一人は側に置いておくように」
コンラッドの声は優しさに満ちていた。
「はい。畏まりました。クララ。参りましょう」
僕はクララをマーシャに託した。そしてコンラッドの脇に立った。
二人が出ていくのと同時に、こちらへ向かって走ってくる複数の足音がした。
シンシア嬢が衛兵に連れて行かれた。シンシア嬢は、脇を衛兵に掴まれてもブツブツと呟くのをやめなかった。あれほど固執していた僕たちには目もくれなかった。
クララとマーシャは、ウォルと衛兵が馬車寄せまで送ってきた。クララは最後まで僕を心配そうに見ていたが、帰りにクララの伯爵邸に寄ると約束をして先に帰ってもらった。
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