バウムクーヘンの首輪

大川黒目

バウムクーヘンの首輪

 30歳になる日を楽しみに生きていました。


 学生の頃からの女友達が居ました。

 いつもあっけらかんとしていて、良く笑う人でした。

 自分を強く持っていて、人に優しく、友達が多い人でした。


 僕はその子の事がかなり好きでした。かなりというのは、すごくという意味です。

 彼女には嫌われていなかったと思います。嫌われていなかったというのは、たぶん好かれていたという意味です。


 僕たちはよく一緒に飲みに行きました。

 二人だけで会うこともあったし、他の友達と一緒のこともありました。

彼女は酔いが回ると恋愛の話題を始めて、それから決まって結婚願望の話をしました。


 僕は彼女に興味が無いふりをして喋りました。彼女も僕に興味が無いふりをして喋りました。互いにわざとバイト先の美人や、ゼミの後輩のイケメンの話をしました。

 周りの友達たちが僕らを冷やかし、苦々しい顔で否定をする瞬間がとても心地良かった記憶があります。


「私、20代のうちに結婚するって決めてるじゃん?」

 ある日、彼女はモスコミュールのグラスをなぞりながらふざけた口調で、でも顔は不自然に背けて言いました。

「だからさ、お互い30歳になっても独身だったら結婚しよーよ!」

「やべえ、急いで相手探すわ」

 僕は同調してふざけた口調で返しましたが、内心では拳を高く突き上げていました。


あと8年。僕のカウントダウンが始まりました。

しばらくして僕たちは卒業し、社会人になりました。


 社会人になっても彼女との親交は続きました。

 退勤後や休みの日に待ち合わせ、仕事の愚痴を言い合いました。そしてゼミの同期カップルが結婚しただの、部署の先輩が産休に入っただのという話をしました。


 お互いの会社の同期を連れて合コンのような飲み会を主催したこともありました。彼女と同期たちが親しげに話す姿を見てざわざわとした気持ちになったので、2回目の開催はありませんでしたが。


 しかし数年もするとお互いに仕事が忙しくなり、空いた時間を合わせるのが難しくなり始めました。会う頻度は段々と下がっていきました。


 結婚したゼミ同期たちから子供を抱えた写真の年賀状が届きました。よく痴話喧嘩をしていたことなどを忘れたような笑顔がなぜか無性に癇に障り、読まずにゴミ箱へ放り込みました。


年度末の繫忙を感じ始めたころ、僕の地方転勤が決まりました。

カウントダウンはあと3年でした。


 生れて初めての、縁もゆかりもない土地での生活は僕の心を荒く削りました。

 一年中雨の降っているその町にとって、僕はいつまで経っても異邦人でした。

 踏みつけた水溜りが染み込んだ靴下が、不快で不快でたまりませんでした。

 僕は半透明のビニール傘を目深に被り、周囲の視線から隠れるように縮こまって生活しました。


 長期休暇に地元に帰ると、変化の速い街には新しいビルがオープンし、駅の再開発によって10年間使った通学路は跡形もなく消えていました。

 乗り換えの経路が分からず少しだけ右往左往していると、真新しい制服を着た若い駅員さんに親切に道を案内されました。僕は覚えたての方言を真似しながら返事をしました。


 不安になるほど靴音の響く、真新しいが汚れている仮設ホームを歩きながら、僕はこの街にとっても異邦人になってしまったのだと気が付き、その夜すこし泣きました。


 町に帰ると雪が厚く積み上がっていました。僕は牡丹雪の落ちる音に窒息しそうになりながら、ガスヒーターの前で春を待ちました。

 赤熱した点火プラグを眺めながら、口約束で3年間と言われたこの転勤生活をドブに捨てる決心を固めました。


 2年と少しが経ちました。カウントダウンは残り1年を切っていました。

 僕は決心通り、2年分の余命をドブに沈めました。知り合いも作らず、趣味も持たず、20代最後の日々をただただ消費していました


 彼女とはもう長らく連絡を取っていませんでした。

 それでも、僕が生活を続けていたのは、一日一日を無感情に潰し続けることが出来ていたのは、彼女との約束があったからでした。



 ある夏の日、お互い29歳と半年くらいの時。突然彼女から連絡が来ました。

「久しぶり! 明日電話できない?」というスマホの通知に、長らく失っていた胸の高鳴りを覚えました。体の内を駆け巡った熱いものが、脳の皺にへばりついた不純物を押し流すようでした。


 気が気でない一日を過ごして取った電話口の彼女は、昔と何も変わっていませんでした。溌剌とした、良く笑う聞き慣れた声。僕は曇天の下で死体へ成りつつあることを悟られまいと、冷や汗をかきながら上擦った声で喋りました。


「それでどうしたの? 電話したいなんて珍しいけど」

 いつまでも始まらない本題にやきもきして、僕は聞きたくもないゼミ同期カップルの子供の話を無理やり断ち切りました。

「あーそうそう」

 彼女は何でもないように言いました。


「私も今度結婚するんだ。それで式のスピーチお願いできない? 遠くて申し訳ないからメッセージだけでもいいんだけど」


 僕は眩暈を覚えました。脳の奥が冷え、視界が歪むのを感じました。スローモーションで近付いてくる波打った床に辛うじて足を突き立てて身体を支えました。


「……? 聞こえてる?」

「おめでとう! なんだよお前、早く言えよ!」

 今日一番、いえここ2年半で一番明るい音が喉から飛び出しました。自分の意思とは無関係に声が出せるようになったのが、この転勤生活で獲得した唯一の成果でした。


 数十分後に電話を切り、内容をほとんど何も覚えていないことに気が付きました。

 あの後、彼女は幸せなエピソードを話し続けたようでした。僕はそれを聞かされていた筈でした。自分の高音ぎみの相槌が頭蓋骨に響いていた記憶だけが、残り香のように薄ぼんやりと漂っていました。


 他人の幸せな話はどうしてこうも記憶に残らないんだろう。

 あの約束のことは、きっと一生忘れることはできないのに。今日までのカウントダウンも、これからのカウントアップも。

 話題にも出なかったけど、あいつは約束のことは覚えていなかったのかな。


 僕は直立不動で足元を見下ろしました。靴下に雨が染み込みつつありました。


 ああ、そうか。なるほどね。

 あの約束が幸せな話だったのは、僕にとってだけだったんだ。


 ガチャンと、7年半分の年輪の首輪が掛かった音が響きました。

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バウムクーヘンの首輪 大川黒目 @daimegurogawa

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