あの闇夜で起きたこと
「しかもバカだ!」
幼女が続けて叫ぶ。
「はいい?」
契約した途端、罵倒されるとか詐欺じゃね?なんなの?
クーリングオフしていい?
「ちょっと待てよ。何がなんだか分かんないんだけど」
「お前と話すことなんかない。力を返せ!」
幼女の形相が鬼のように変わると同時に、その髪が俺に伸びてきた。
さっきと違う動きなのがはっきりと分かる。
明確に攻撃意思を持ってる。
かろうじて腕でガードして、毛先の狙いをずらした。
俺の横の壁に突き刺さった髪は──いや待てよ、壁に突き刺さる髪ってなに!?──休むことなく再び俺を襲う。
鞭のようにしなりながら繰り出される髪を、俺は全部避けた。
え、俺なんでこんな機敏に動いてんの?
一瞬の思考で動きが鈍ったらしい。俺の腕が髪に絡めとられる。
ギリギリと締め上げてくる力に、容赦は一切なかった。
マジで殺される。そう確信した。
「外へ出てください」
声に振り返ると、イヴはドアを開いてこちらを見ていた。
外に何か打開策が…!
力ずくで髪ごと幼女を引きずり、外に飛び出す。
小屋を出たぞ!何が助けに──!
パタン、と俺と幼女が転がり出てきたドアが閉められる。
えっと、イヴさん?
もしかして、暴れるなら外でやれ的な感じだったとか…?
しかもイヴは小屋の中にいるよ。見学するつもりすらないよ。
ひどすぎる。
呆然と閉められたドアを見ていたら、強烈な右ストレートを食らった。
そんなちっちゃい幼児の手で、こんな凶悪なパンチよく出したな!
作用点が小さいだけに、まさに刺さるような拳だ。
幼女は闘志が燃える目で俺を睨みながらファイティングポーズを取ってる。
髪での攻撃じゃなく肉弾戦に変更するつもりらしい。
俺はというと、摩訶不思議な髪の毛攻撃じゃない実際の殴り合いとなると、どうしてもやりにくい。
だって幼女だよ?いや俺も子供だけど、幼児殴るなんて…。
躊躇っていたら、アッパー食らって吹っ飛んだ。
痛みより先に脳が揺さぶられて意識が遠のくのを感じた。
マジで殺される。何度もその言葉が脳内で繰り返される。
もうガキ相手だどうのとか言ってる場合じゃねぇ。
こいつはファイティングポーズなんてかっこつけてるが、どう見ても付け焼刃だ。脇を締めすぎだし繰り出す拳も直線じゃない。
どこで覚えたか知らんが、素人丸出しだ。
幼女が再び右からストレートを打ち込んでこようとする。
外に広がるそのアマチュアパンチの内側に滑り込み、渾身の力で腹に頭突きした。
何度も殴りたくない、一撃で終わらせたいという気持ちが乗ったそれは、幼女の鳩尾にクリーンヒットして、小さな体は5メートル近く吹っ飛んだ。
もう起き上がってきてほしくないという俺の思い虚しく、土埃をあげてゴロゴロと転がった幼女は、四つん這いのポーズで起き上がり、猛犬のように再び飛び掛かってきた。
エクソシストのリーガンかよ!
今度は爪で肉を削がれた。
骨まで届いたのか硬質な振動が体に伝わって胸から肩にかけてごっそり肉をえぐり取られたのを感じる。
俺の血が幼女の顔に飛び散った。
常軌を逸した動きに、逆にこっちは肝が据わった。
幼女の姿をしててもこいつは化け物だ。
次に飛び掛かってきたタイミングに合わせて膝蹴りを繰り出す。
幼女はそれを真正面から勢い殺さず受けて、俺の膝には鼻と歯が折れる生々しい感触を残した。
血と涎の糸を引いて、俺の膝から外れた幼女の顔。
白目を剥いてその場にどさりと横たわった。
終わったか……?もう起き上がるなよ?そのまま寝てろよ?
アドレナリンが引いたのか、一気に痛みが来た。
出血がひどい。俺もその場に倒れ、そして気を失った。
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「ルクお兄ちゃん」
金髪幼女がニコニコと俺を見上げてる。
「リマ、おいで」
俺の声だが、俺の意思じゃない声が優しく答える。
周囲はのどかな草原だ。遠くに高い山々が見える。
俺はリマと呼ばれた幼女の手を引いて、歩いてる。
なんだこれ?夢か?
次の瞬間、幼女と馬車に乗っていた。
夢ならではの急な場面転換か。
隣の幼女──リマは、俺にしがみ付いてる。
馬車の幌を打つ音が聞こえる。外は雨らしい。
合間に響く雷鳴の音にびくりと体を震わせ、更に強くしがみついてくる妹の背をそっと撫でる。
がたがたと揺れる馬車の振動を鑑みるに、道路状況は相当悪いらしい。俺の体、ルクの不安も伝わってくる。
ガタンと大きな音と共に、ひときわ大きく馬車が傾き、俺たちの体は宙に浮いた。
そして衝撃と共に天地がひっくり返り、したたかに床に頭をぶつけ──。
また場面が変わった。足元すらろくに見えない森の中だ。
「リマ、頑張れ!」
声を出す度に喉がひりひりと痛む。
激しい呼吸で喉が囲炉裏の灰のように乾いている。
体中が痛むが、妹をしっかりと抱きしめ、森の中を小走りに進む。
「うう…」
腕の中のリマが小さくうめく。
馬車が崖から落ち、御者は死んでいた。
馬車に一緒に積まれていた荷物がクッションになり、俺と妹はかろうじて生きていたが、二人とも満身創痍だ。
特にリマは足を折ったのか立ち上がることすら出来なかった。
もう泣き声をあげる力もないのだろう。時折小さくうめくだけだ。
頼れる大人もおらず、嵐の中ぬかるむ暗い森を進む。
馬車が落ちたあの場にはいられなかった。
血の匂いに引き寄せられた獣の唸り声を後ろに、必死に妹を抱えて走り出した。
一度振り返った時に、目に映ったのは御者の死体にかぶりつく熊のような大きな獣の姿だった。
リマだけでも…リマだけは…。
俺の思考はそれだけで占められていた。
早くどこか人のいる場所に…それが無理なら、どこか隠れられる場所に…!
「…おにい…ちゃ…」
リマの呼吸が浅い。
お願い。誰か助けて。
必死に祈っても、救いはどこにも見当たらなかった。
あふれ出る涙は熱いのに、滴り落ちる時にはひどく冷たい。
大事な小さな妹が、岩のように重く感じる。
聞こえるのはぬかるんだ土を踏む足音と、俺の激しい息遣い。
そして密やかに揺れる茂みのさざめきと──獣の息遣いだ。
リマ…リマナ──…!
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