泥と血と臓物の匂い

 うん…ほんとに精いっぱいだった。


 俺もイヴも子供の体力を分かってなかった。


 俺は結局歩けなくなり、薄暗い森の中で立ち往生してしまったのだ。


 木漏れ日が真っ直ぐ地面に落ちてる。出発は朝だったけどもう昼なんだな。


 疲れ切って、巨木に体を預けながらぼんやりと思う。


 苔むした木々と緑の絨毯と木漏れ日のコントラスト。


 こんな時でなきゃ、幻想的な風景に目を奪われそうだけど、今はそんな気力もない。



 イヴは膝を付いて俺に果物を差し出してる。


 ごめん、今は食う体力もない。ただ寝たい。ちょっとだけ寝かせて。


「アベル」


 あれこれ果物をとっかえひっかえ差し出してくるイヴは、無表情だけどうろたえているように見える。


 わかる、わかるよ。


 こんな状態の子供を目の前にしたら焦るよね。


 大丈夫眠たいだけだから…。ただのお昼寝タイムだか…ら…。




 俺はそのまま眠ってしまったっぽい。






 早く行ってあげなきゃ。

 この森に独りぼっちでいる小さなあの子を、少しでも安らかにしてあげる為に。






 さわさわと頬を撫でる風で目が覚めた。


 目を開くと木漏れ日が見える。体の下には柔らかい下草が生えている。


 ガキの頃、田舎のばあちゃんちで過ごした時、寝っ転がった草むらを思い出す。


 ここに来た理由を思わず忘れそうになるほど、心地よい場所だ。


「…寝ちゃった」


 イヴがすぐ横にいるのは分かってた。


「はい」


 体を起こすと、森が開けていた。


 ここは大きな湖の岸辺らしい。水の匂いをはらむ空気が清々しい。


「移動してくれたの?」


「はい。着きました」


 イヴが森の中に目を向ける。


 その視線の先を追っても、森しか見えない。


 少し陽が傾いてるけどまだ夜を超えてないみたいだ。


 俺を運んでくれたスピードは、五歳児連れでロッククライミングするより、はるかに速かったらしい。



 でも"着いた"ってことは……。



 俺は立ち上がると、木々の合間を進んだ。


 小屋から入った森とここは少し違う。


 木はそんなに大きくないし、あちこちに低木の茂みがあって、地面もなだらかだ。



 そうだ。見覚えがある。この地面を泥にまみれて這いずった。



 明るい昼のこの場所は、あの恐ろしい雨の夜の片鱗すらないほど、穏やかに見える。


 ──匂い以外は。


 森の匂いに混ざる、まごうことなき異臭。


 イヴが離れた場所で俺を休めてくれてた理由の一つだろう。


「……」


 予想が付いていたじゃないか。


 きっとひどいものを見ることになると。


 あの幼女と俺が手を繋いでいた時の茂みを見つけた。


 あの子は、そこにいなかった。




 ぬかるんだ土の上を引きずった跡がそこから伸びて──あの獣が亡骸を動かしたのか──その先に、やっとあの子を見つけた。


「うっ…」


 覚悟はしていても実際目にして、吐き気がこみあげてくる。



 仕事の現場で事故を見たこともある。

 交通事故だって何度か見た。

 スナッフまがいのスプラッタだって見たことがある。



 でも小さな女の子が食い散らかされ、腐りかけた肢体を土の上に投げ出されている状態なんて、正気を保って見れるもんじゃない。


 俺はその亡骸に外套を掛けると踵を返し、少し先の日が当たる場所の土を掘り始めた。


「何をしているのですか?」


 同じものを見たはずなのに、イヴの声はいつも通り平静だ。


「…土を掘ってる」


「何故ですか?」


「あの子を埋める」


「それは…」


「今はやめてくれ!心が無いのかよ!」


 イヴの言葉を遮り怒鳴った。そして土を掘り続けた。


 どれだけ無知で世間離れしてても構わない。


 でも死者への悼みは知ってるだろ。


 俺は今、意味の分からない問答に付き合う余裕なんてない。




 イヴは言葉を続けなかった。


 でも俺と向かい合って膝を付き、その白い手で土を掬いあげる。



 俺たちは二人で、あの小さな子が収まる大きさになるまで穴を掘り続けた。



 土は腐葉土が折り重なっていて柔らかかった。


 湿った土で手が真っ黒になり爪の間に入り込んだ。


 小枝か小石で傷つけたのかひどく痛む。


 それがどうした。


 あの子が味わった苦しみに比べたら鼻くそみたいなもんだ。


 そこらへんに落ちてるものとか、道具とか、イヴの魔法とかで掘った方が早いのは分かる。


 でも俺は手で掘るのをやめられなかった。



 ひどく損傷してあちこち千切れた小さな体は、そのまま運ぶことも出来ず、外套で包みこんで持ち上げた。


 うつ伏せに倒れていたのか、頭蓋骨が硬かったのか、小さな白い顔に獣の牙の跡はなかった。


 その頬の泥をそっと払って穴の底に横たえた。



 名前も瞳の色も知らない子だった。


 でもあの手は小さかった。温かかった。


 もう痛みも苦しみも味わうことはない。



 どうか安らかに眠ってくれ。



 近くに白い花が咲いていたから、二輪つんで一輪をイヴに渡した。


 埋めたばかりの土の上にそれを置いて手を合わせる。


 イヴも少し間を開けて、それに倣った。


 その仕草からは、全く死者への敬意を感じられず、ただ俺の真似をしただけ。



 ……イヴに悪意はないはずだ。


 弔い方なんて形式は様々なんだから、俺の苛立ちはただのエゴだ。


 でも、俺はすぐ横に立ってる女性のことが分からなくなった。


 小さな墓を見ようともせず、ずっと俺を見ている。



 あの無残な姿を見たのに、同情も悲しみも、恐怖すらその表情からは読み取れない。


「マント…せっかく作ってくれたのにごめん」


 外套は、今小さな遺体を包んで土の中だ。


「はい」


 それ以上言葉を交わすことなく、俺たちは湖岸に戻った。


 体についた泥を落とす。


 水面に映るあの子と似た金髪の顔。泥と涙でまだらになってる。


 あの夜、俺が目覚めた時には、もう既にあの子は死んでいたんだと思いたい。




 今、出来ることは可能な限りやった。


 やるせなさの中に、少しほっとしている自分がいる。


「帰ろう」


「はい」


 汚れは全然落としきれなかったけど、どうしようもない。


 俺とイヴは、帰路に就いた。

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