冬Ⅲ:はじまり




「デュアエルのリラトゥアスだ」


 真白の王宮の最奥にある建物の一つ、王族が暮らす瑠璃宮の応接室ではじめて顔を合わせた婚約者は、不思議な光を帯びた瑠璃色の瞳を真っ直ぐにフィアに向けていた。その鋭さに畏縮しそうになりながらも、顔を上げるように言われた以上、フィアはきちんと視線を返した。


「お初にお目にかかります、王太子殿下。ゼアマッセル辺境伯家から参りました、フィア・グリンと申します。突然このように予定を変更してしまったこと、心よりお詫び申し上げます」


 再び頭を下げたフィアに、リラトゥアスは何も言わなかった。フィアが謝罪してもどうにもならないことをわかっているからだろうか。


「君はこの婚約の意味がわかっているか?」


 少し間を開けて返ってきたのは謝罪を受け入れる言葉ではなく、問いかけだった。「顔を上げてかまわない」と言われまた瑠璃色と向き合えば、その鋭さはますます増しているように感じられた。


「……ナインディア帝国の方々にはよくしていただいております」


 ゆっくりと考えながらフィアはそう答えるに留まった。リラトゥアスはフィアの衣装を確認するように見つめていた。

 あの日、ナインディア大使館からの迎えと共に向かった先は目的地だった王宮ではなく王都にある大使館だった。そこで改めて衣装や荷物を整えてこうして王宮へやって来たため、今、フィアが着ているものはナインディア風のドレスだ。

 胸の下と腰の少し上あたりにに切り返しがある、すとんとしたシルエットのドレスはフォルトマジアの冬を過ごすにはほんの少し生地が薄く、肩にはショールをかけている。その柄は植物をモチーフにした、フォルトマジアの山間部で親しまれている伝統的なものだ。


 リラトゥアスはフィアの衣装に満足したようにうなずき、座っていた長椅子から立ち上がった。「案内しよう」と壁に控えていた従者に目配せすると従者が素早く扉を開く。慣れない状況に戸惑いつつもそれをおくびにも出さず、護衛たち――フィアに付けられた女性騎士もいた――を引き連れ、瑠璃宮を後にした。


「君は私の婚約者だが、厳密に言えば仮の関係だ。遅くとも一年後の春までには主家会議で承認を得られるように動く。それまでは公務を含めて王家での生活に慣れる期間だと思ってくれればいい。もちろん、主家の者たちが君を判断するための期間でもある」

「はい」

「教師や“話し相手”として各主家から人が遣わされるだろう――その関係で、本来なら春に来てもらうことになっていたのだが……」

「はい……申し訳ありません」

「辺境伯はこの国の冬に貴族がどう過ごしているのか忘れてしまったのか?」


 フィアは答えられなかった。王都に行くよう告げられた時以外で父と顔を合わせたことさえほとんどなかったのだ。


「……まあ、いい。正式な婚約者として承認を得るまで君は私の客人という扱いになる」


 回廊を渡って深い緑の低木が植えられた庭園を通り過ぎると、澄んだ銀色の装飾が印象的な建物にたどり着いた。これからフィアが滞在する白銀宮だ。国賓の滞在を含め、外交に使われている建物だった。

 扉を開くと侍女をはじめとする女性使用人や女性騎士が並んでいた。これからフィアに仕える者たちだ。人形のように表情がなく整列している様子は、辺境伯家の使用人たちの様子とは違うのに、どこか同じようにも思えた。


「来てしまった以上、何もしないわけにはいかないだろう……一応、教師も用意した。明後日には紹介できるが……あくまで仮の教師だ。各主家にはこちらから連絡している。何かあれば伝えるが――気になることはあるか?」

「わたくしの方からも、主家の方々にお詫びのお手紙を書いた方がいいでしょうか?」

「いや、やらなくていい」

「わかりました。出すぎたことをいたしました」

「私は戻る。もし何かあれば君の侍女に言付けるように」


 フィアの返事を待たず、リラトゥアスは自身の護衛たちを引き連れて白銀宮を去って行った。残されたフィアは、侍女の一人に部屋に案内すると淡々と告げられ、白を基調とした二間つづきの広い客室へと通された。荷物はもう片づけられているらしい。ゼアマッセル辺境伯家での生活と比べると信じられない気持ちだったが、最低限の言葉を残して部屋を出て行った侍女たちの名前も聞いていないことに気がつくとその気持ちもどこかへ吹き飛んで行ってしまったようだった。




 わかっていたが、王宮でフィアは歓迎されない存在らしい。紹介された教師はまだマシで、冷ややかながらもフィアがきちんと必要なことを学んでいることについては認めてくれた。侍女をはじめとした使用人は食事を運ぶ時くらいしか部屋を訪れない。幸いと言っていいのか、フィアは自分で身支度を整えられたのと、ナインディアが用意してくれた衣装が一人でも着られるようなものだったため難を逃れていた。護衛は時折見かけるが、それだけだ。

 王都の冬は晴れの日が少なく、いつも空は薄っすらと灰色がかっていた。到着した日に国王夫妻にはあいさつをしたが、他の王族には数日たっても顔を合わせる機会がない。あいさつをしたいとお願いしたくても侍女たちはフィアが声をかけるのを拒絶していて、口を開いても無視されてしまう。


 仕方ないことなのだと、フィアは当たり前のようにそれを受け入れていた。


 唯一気になることと言えば、王宮では陰で“悪魔の子”と言われないことだった。代わりに、この白銀宮で働く者はフィアのことを陰で“お花畑の娘”と呼んでいた。部屋からほとんど出ないが、一度、食事を持ってきた使用人がきちんと扉を閉めなかったことがあり、その扉を閉めようとしたところ廊下で誰かが話している声が耳に入ったのだ。


「お花畑とは、どういう意味でしょう?」


 なんとなく察してはいたが、フィアはある時訪ねて来たリラトゥアスの侍従であるローガンにふとたずねてみた。ローガンは一瞬ギョッとしたような顔をしたが、すぐに人当たりのいい笑みを浮かべた。


「どうして突然そんなことを?」

「ここで働く者たちが話しているのを何度か耳にしたのです」


 フィアは別に怒っていたり悲しんだりしているわけではなかった。ただ。日頃の疑問を口にしただけ。声音もそれ以上の感情はなく、そのことが逆にローガン・モルナを戸惑わせた。


「あなたの前でそう言ったのですか?」

「いいえ、偶然耳にしてしまって」

「……そうですか」

「わたくしのことを、“お花畑の娘”だと――わたくしの両親が、お花畑ということでしょうか?」

「……さあ、私にはよくわかりません」

「そう」


 にこやかにそう告げたローガンの口ぶりは明らかに嘘だとわかったが、フィアはさして気にも留めなかった。それがかえって、フィアの推測が当たっていることを示している気がしたからだ。

 フィアの母はナインディア皇家の末姫で、フォルトマジアの現国王――当時の王太子に嫁ぐはずだった。ところが当時辺境伯の跡取りにすぎなかった父と恋に落ちたのを理由に、わがままを押しとおして辺境伯家への輿入れに変えたのだ。辺境伯領では二人の恋の物語は人気のようだったが、王都でもそうとは限らない。王家がよく思っていなくてもおかしくはなかった。もちろん、王宮で働く人々にとっても。

 王宮に到着し、はじめて顔を合わせた時、リラトゥアスから「婚約の意味をわかっているか」とたずねられたのもそういう背景があるからだろう。もっとも、ゼアマッセル辺境伯家がどう見られていたとしても関係ない。フィアは生まれてから今までこの国の王太子に嫁ぐために生きてきた。それ以外のものは、フィアの中に存在しなかった。




「たまには殿下が顔を出された方がいいかと思いますよ」


 ローガンがフィアの様子を見に行くのは今日がはじめてのことではなかった。定期的にフィアがどんな風に過ごしているかを確認に行くよう命じられていたからだ。リラトゥアスは崖崩れの件で忙しくしていたからその代わりに、というのもある。


「気が滅入っているようにも見えました。ずっと部屋にこもっていらっしゃいますし――それに、ゼアマッセル辺境伯家はこちらではあまり評判が良くないですからね」

「こちらの対応が終わったら顔を出すつもりだ」


 ローガンが意外そうな顔をしたのでリラトゥアスは眉をひそめた。


「何だ?」

「いえ、てっきり殿下は――その、自分には関係ないくらいおっしゃるかと」

「そんなわけないだろう。思うところがないと言えば噓になるが」


 嫌でもいずれ夫婦になるのだ。無視するつもりはなかったが、幼い頃に何度かやり取りをした手紙では義務以上のものを見いだせず、フィアがどういう人間なのかは未だわからないのもあってどう対応するべきか悩んでいる部分もある。

 とりあえず付けた教師は彼女に思うところもあるようだったがきちんと学を修めているとは言っていた。ローガンに様子を見に行かせたのも彼女が問題なく過ごせているか把握するためだ。報告を聞く限り白銀宮で働く者の態度はいただけないが、彼女自身が問題に思っていない様子であるため一度自身の目で判断したいと考えていたところでもあった。


「先触れを出しておいてくれ――そうだな……明後日には顔を出せるだろう。白銀宮の応接室を一つ使ってくれてかまわない」

「わかりました。そのように伝えておきます。何か用意をしておきますか?」

「いや、いい。先触れだけで。堅苦しくなくていいと付け足しておいてくれ」




***




 悩んで書いた返事は結局彼女からの手紙と同じように義務的なものとなり、母に頼んで送ってもらった後、リラトゥアスの胸にはわずかな後悔がまとわりついた。この婚約が義務だと口では言っていても、まだ幼さの残る彼の感情には見たことのない婚約者に対する純粋な興味も混ざっていた。

 どんな子なのだろう? 何が好きなのだろう? そんなことを考えてはいても、文章は硬くなるばかり。再び届いた彼女からの手紙もまた最初と同じように淡々とした、義務的な文章が並んでいたのを見て、ますます後悔は深まった。


 でももしかしたら、彼女も自分と同じように悩んだ末にこういう手紙になってしまったのかも。


 あるいは、四つも年下だという幼い婚約者なのだから、まだよくわからずに背伸びをして書いた結果がこの手紙なのかもしれない。そんなことを考えながら、少しずつ、せめて自分からの手紙はくだけたものになるように心がけたのだが、何度やり取りをしても彼女からの手紙には何の変化も見られず、リラトゥアスは後悔の代わりにあきらめを強め、いつしかその手紙のやり取りも途絶えて行ってしまった。


 この婚約は義務なのだ。それ以上も、それ以下もない。国と国とのつながりのためになれば、かまわない――幼い感情を捨て去ると同時に、ただそれだけを胸に残した。



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