冬Ⅳ:窓
先触れを出してしまえば使用人たちは問題のない態度を取るだろうというのはわかっていた。かと言って、まだ顔を合わせて間もない婚約者を突然訪ねるのも不躾だ。ローガンと数名の護衛を連れてやって来た白銀宮は一見穏やかで、ゆったりとした時間を過ごせそうにも思う。実際、入口で出迎えてくれた婚約者の様子は、ローガンが言っていたように気が滅入っているようには見えなかった。
もっとも――
フィアと共にリラトゥアスを出迎えた侍女や護衛、こうして廊下ですれ違う者たちを見ているとこの状況が上辺だけだというのがよくわかる。瑠璃色の瞳がさりげなく周囲を見つめ、それからフィアの細い背中を見た。
デュアエルの者が持つ瑠璃色の瞳は“真実の目”と呼ばれる。
他人の悪意や嘘などを見抜くその瞳の力が、リラトゥアスは特に強かった。この上辺だけの穏やかな空間が偽りであることもすぐにわかった。侍女や護衛、一瞬すれ違う使用人さえフィアを不快に思っているのがよく見えたからだ。
お茶の用意がされた応接室に着き、二人が向かい合って腰を下ろした。ごくありふれた、しかし品質にこだわった応接セットが中央に置かれ、天気のいい日なら日当たりがいいだろうというのがよくわかる大きな窓、小物が飾られたキャビネット、暖炉とその上に飾られた美しい風景画がさりげなくその空間を囲んでいた。家具はどれも白と基調とし、銀色の装飾がされている。ソファやカーテンなどの布は薄緑をはじめ、今は待ち望まれている春らしい色のものが使われていた。
そんな穏やかに過ごすことを第一に考えられた空間でさえ、周囲の悪意が変わることはない。リラトゥアスが連れてきた護衛もそれなりにフィアをよく思っていない様子だったが、ゼアマッセル辺境伯家の悪評がそうさせているのだろうか? フィアに仕えさせている者の方が感情が強いのは、傍にいる時間が長いからだろうか?
とはいえ、チョコレートに似た焦げ茶色の前髪で影を作った秋晴れに似た空色の瞳をそっと伏せ大人しく座っているフィアは、ローガンや教師などの報告と合わせても特に問題があるようには思えなかった。
ナインディア風のすらりとしたシルエットのドレスが細い体をますます頼りなく見せ、少し強い風が吹けば消えてなくなってしまいそうだ。
こんな弱々しい存在に、そんなに悪意を向ける気持ちがわからない。使用人を入れ替えてやれば少しはマシになるかもしれないが、今の段階で真実の目で見えたもの以外の問題がないため下手に変えることは難しい。
「問題なく過ごしているだろうか」
気持ちを切り替えるために口につけたカップの中身は、飲み慣れた茶葉の味だった。壁につけられた暖炉の火がパチリとはぜる。「はい」とうなずいたフィアの表情からは何の感情も読み取れないが、彼女が心からそう思ってうなずいているのはわかった。
「部屋にこもってばかりだと聞いたが」
冬の灰色の空とは正反対の澄んだ空色の瞳が不思議そうにリラトゥアスを見た。
「今朝は日も差していたし、たまには外に出た方がいいのではないか? この季節の庭は、見ても退屈かもしれないが……」
「外に、ですか……」
「出歩くのは嫌いか?」
困惑したような、理解できていないような、そんな奇妙な反応だった。探るように空色の瞳をのぞきこみながら、リラトゥアスはたずねた。
「そういうわけでは――いえ、その……よく、わかりません」
ほんのわずかに眉を下げ、フィアが答えた。思えば彼女の表情が変わったと感じたのはこれがはじめてだった。
「わからない?」
「はい」
「そうか……」
ふと視線を移した窓の外は、午前中は確かに少しは日が差していたのに今は薄っすらと雲曇り空だ。また暖炉の火が音を立て、「空気がよくないな」とリラトゥアスはぽつりとこぼした。その言葉に、思わず反応してしまう者たちを横目で確かめながらローガンの名を呼ぶ。彼はフィアに対して特に何の感情も抱いていない。この場の雰囲気をどう感じているか、後で聞いてみた方がいいかもしれない。
「窓を開けてくれないか?」
「冷えますよ?」
「だが、少し空気を入れ替えた方がいい」
実際、部屋の中は空気がこもっている感じがしてどこか息苦しい。「わかりました」とうなずいて、ローガンが自ら窓を開けに行った、
「寒くなったら言ってくれ」
フィアを振り向くと、彼女はぽかんと――その表情の変化は微々たるものだったが――していた。信じられないものを見るようにリラトゥアスを見つめている。
「どうした?」
「窓を――」
その空色はほとんど無意識に、換気のために開けられた窓の方へ向けられていた。
「開けてもいいのですね」
何か言葉を返そうと開いた口から、何の音も出なかった。目の前の横顔はほんのりと頬を染め、どこか安心したようにも、うれしそうにも見えた。ただ窓を開けただけで、どうしてそんな顔をするのだろうか?
「どうして――開けてはいけないと思っていたんだ?」
慎重に、リラトゥアスはたずねた。彼女がどんな風に育ってきたのかは何となく聞いてはいた。それに踏み込むようなことを、まだ知り合って間もないのにするのはよくない気もしたが、たずねずにはいられなかった。
「故郷では、そうだったので……」
フィアは言葉を選びながらそう答えた。
「辺境伯が――君の父上が窓を開けるなと言ったのか?」
「父が……いえ……」
無意識に前髪に触れ、フィアはリラトゥアスへと向けていた視線をそらした。父に、そう言われたのだっただろうか?
物心ついた時には、辺境伯家の庭にある離れで過ごしていた。離れと言っても美しい本邸には不釣り合いな本当に小さな家で、誰かがせいぜい裕福な平民が暮らすような家だと話していたのを聞いたこともある。離れを出入りしていた使用人が換気のために窓を開けていた記憶も、衛兵が外を見回るのを窓越しに見た記憶もあるのに、それはどこか遠い光景だった。でも、もっと幼い頃は――
「わたくしは母の命を奪って生まれたのです。仕方ないことだと思います」
記憶の海に沈みそうだった自身をすくいあげるように、フィアは静かにそう言った。
***
鈍い音と鋭い痛みと同時に、額に熱が走ったのを感じた。
穏やかな春の日差しが庭の緑色の絨毯をきらきらと輝かせ、やわらかな風が花の香りを運びながら若葉を揺らしておしゃべりをしていた。その木々の向こうに見える美しい屋敷は、それだけ見れば絵物語のお城のようで、少女はうっとりとした気持ちでその光景を楽しんでいたところだった。
しかし向けられた感情は、その光景をあっという間に色あせさせた。自分と同じ色の瞳がこちらをきつく睨みつけている。額を押さえ、怯えた様子で見上げる幼い子どもに対していくらか年上の少年は、その視線の強さを緩めることはない。
「お前の顔なんか見たくもない!! 人殺し!!」
その声に気づいた大人が慌てて駆け付けなければ、少年は今そうしたように傍らの従者に指示をして足元に転がっている石を少女に投げつけさせていただろう。ぐいっと後ろに引っ張られると同時に、目の前で窓がバタンと閉められる。閉じられたガラスの向こうから、少年がまだ怒鳴る声が響いてきた。
振り返るとこの離れによく出入りしている女性使用人が厳しい顔で立っていた。少女を窓から引きはがしたのも彼女だった。少女の額の傷をちらりと見やり、彼女は大げさにため息をついたが、「旦那様に報告いたします」と短く告げただけで、それ以上は何の言葉も少女に与えなかった。
使用人の言うところの旦那様――少女の父は、陽が沈む前に離れにやって来た。離れの奥までは入らず、エントランスホールも何もない入口に立つ護衛と従者を連れたその男は、道端のゴミを見る方がマシな視線で少女を見下ろしていた。
「……昼間のことを聞いたぞ。兄に不快な思いをさせたようだな」
厳しい声で父である男は言った。うつむいた少女の額には血を洗っただけで大した手当てもされていない傷が残っている。父である男の後ろに控えていた護衛だけがその傷を見て心配そうに眉を下げた。
「お前をここに置いてやっているのは主家であるデュアエルとの婚約があるからだ。そのための最低限の生活と教育は保証してやる。だが、私の妻でありお前の兄の母を殺した罪は消えないのを忘れるな。お前が私たちの前に顔を見せる資格はない――私の許可なくこの離れから出ることも、私たちに姿を見せることも許さない」
「わかったな」と淡々と告げた父である男が踵を返すと同時に、こういう時だけ少女の傍に控えている女性使用人が、ただただ立ちつくしているだけの少女の体を乱暴に引き留める。まるで少女がその背を追いかけていくのを防いでいるようだった。そんなこと、するはずもないのに。
音を立てて閉じられた扉が、少女の心を慰めていた昼間の美しい光景を、遠く彼方へと追いやっていくようだった。永遠に、少女の手元には戻らないように――。
***
「そうだろうか」
彼女の声は淡々とした、何の感情もない声だった。幼い頃に途切れてしまった義務的な手紙をリラトゥアスは思い出した。どうして彼女の文面がずっと硬いままだったのか、その答えが見えた気がした。
「……ここはゼアマッセルではない。窓を開けるのも、外に出るのも好きにしたらいい。いや、外に出る時に護衛は必要だが――」
リラトゥアスはゆっくりとそう告げた。
「好きに、ですか……?」
「まあ、散歩ではなくても他に好きなことがあれば――部屋にこもってぼんやりと過ごすよりいいだろう。春になるまでひと月はある。何か好きなことは? 趣味でもなんでもいい」
「好きな、こと……」
「……ないのか?」
フィアはただただ困惑しているようだった。
「ゼアマッセルでは、一日をどのように過ごしていた? まさかずっと教育を受けていたわけではないだろう?」
ほんの少し首を傾げるフィアは、ゼアマッセルでの日常を思い出しているはずだ。しかし、リラトゥアスが聞いた限りでは辛い日々を送っていたはずなのにその顔には特別な表情は欠片もなく、決してそうは見えなかった。
「本を読んでいました」
「どんな本を?」
「教材を……」
「……それは、好きでやっていたのか?」
「好きで……」
「ただ、そこにあったので」とフィアは小さく付け足した。リラトゥアスが望む答えを出せないことに、不安を覚えはじめているようだった。
「……アルマが」
「アルマ?」
「わたくしの従姉です」
彼女の叔母であり教育係でもあった子爵夫人には娘がいたはずだとリラトゥアスはフィアに関する資料を見た時の記憶を思い出した。
「アルマがよく顔を出して、その時は彼女が色々おしゃべりをしてくれていました」
「どんなことをしゃべったんだ?」
「市井の様子や、アルマの恋人のことが多かったと思います」
思わずローガンと顔を見合わせてしまった。
「その従姉は今もゼアマッセルに?」
「子爵夫人と辺境伯家の本邸で暮らしております」
問題ない人物なら呼び寄せてフィアの侍女か傍仕えをさせるのもいいかもしれない。リラトゥアスはさりげなく室内に控えている侍女たちを見渡した。相変わらず、フィアへの悪意は薄まることがない。
「他には何かないのか?」
「他……」
自分は何を彼女から聞き出そうとしているのか、リラトゥアスはだんだんとわからなくなってきた。しかし聞いた限り、この王都に来てからずっと部屋で授業を受ける以外は何もするでもなく部屋にこもっているフィアをこのままにしてはおけない気持ちも強くなってきていた。
「植物図鑑を――」
ふと、何かを思い出したようにフィアははっとした。
「そういえば、向こうに置いてきてしまったわ……」
その言葉は誰に向けられた言葉でもなかった。それでも先ほどまでの彼女の言葉と違い、置いて行かれた感情が言葉にやっと追いついたような感じがした。
空色の視線はぼんやりと、少し開けられたままの窓に向けられている。部屋の空気は少し肌寒さを感じる程度になっていたが、もう少しだけそのままにしておこうとリラトゥアスは思ったのだった。
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