耽溺の果実

正保院 左京

耽溺の果実

 蒸し暑い夏がやってきました。

 一般的に蒸れるような暑さと云うのは気持ちの良いものではありません。ほとんどの人が蒸し暑い部屋ではクーラーや扇風機で暑さを防ぎたくなるものです。

 ですが時と場合によっては、それもまた一興だと思えてしまうのは私だけでしょうか。

 今日は私の一夏の幻のような思い出をここに書き記しておこうと思うのです。

 私が彼女と関係を結んだのは今日のように暑い夏の夜でした。


 彼女の名はA子。友人の紹介で出会った彼女は数多くのファンを抱える人気配信者でした。

「知ってます?私のコト」

 初対面で向き合う私に彼女はそう静かに微笑みかけました。

「すみません。疎いもので」

「結構私の配信好きな方多いんですよ?よかったら推してくださいね」

 私の耳をくすぐるような、惚れ惚れするハスキーな声に体中に電流が走ったかのような心地がしました。

 思わず悶えてしまいそうな衝動を悟られないように私は平静を装っていました。

 彼女はまるで絵に描いた天女がそのまま出てきたかのような人でした。

 ファンが多いのもその筈、女神のように美しいルックス、肌で感じる魅惑のボイス、しかし過度ないやらしさは感じられない淑やかな女性と云うのが見て取れるのでした。

 そして彼女は私を見つめるウットリとした半開きの瞳で、なんだかこちらの意図はすっかりお見通しかのようにうっすらと笑みを浮かべていました。緊張を一切感じさせない姿にしたたかささえ感じられるのです。

 このとき私は一瞬にして彼女の虜になってしまったのです。

 云ってしまえば私の一目惚れでしょう。

 しかしそれを悟られてしまえば、私は二度と彼女の掌から抜け出せなくなってしまう。魔性の魅力を持つ彼女では、惚れた男をいとも簡単に手玉にとれてしまうことでしょう。

 ですから私はなるだけ隙を見せず、硬派を演じながら彼女と交際することにしたのです。


 初めて彼女の体に触れたのは、雨上がりの蒸し暑い部屋の中でした。電灯の消えた薄暗い部屋の中で彼女は私の耳元で「ねぇ、触りたい?」と囁きました。愛おしげに頬を撫でる彼女の手はゆっくりと首の後ろに回し、唇を重ねました。

 汗ばんだ唇は程よい塩加減で、一切の不純物を含まぬ純粋な彼女の口内は菓子を頬張るかのように甘く、私は彼女の底の見えない魅力に引き込まれて行ったのです。

「君に触れてもいいのか」

「我慢は体に毒よ?」

 彼女は来ていた着物をスルスルと脱ぎ始めました。

 誰もが褒めたたえるであろう曲線美を追求したような肉体にはシミ一つなく、その火照った体にほとばしる汗の筋は彼女を彩る衣の様に艶めかしさを引き立たせていました。

 そんな彼女の甘い吐息が私の心を異常に高ぶらせるのです。

「来て…」

 今まで硬派な男を演じてきた私はこの日、糸が切れたように彼女の手中に落ちてしまったのです。

 私は思いのままに彼女の体を抱き寄せました。

 香水の甘苦しい香りがムンムンと立ち込める、窓も閉め切った部屋の中で私は彼女を求め続けました。お互いに汗だくになって混じりあいながら、一心不乱にお互いに愛し合ったのです。


 しかしながらあるときを境に彼女は私に冷たくなりました。

 初めはあれほど愛してくれていたのに、まるで愛想を尽かしたようにそっけないのです。

 彼女に話しかけようとしても返事の一つも返ってこない。

 触れようとすると腫れ物に触るように、ヒステリックな声をあげて拒絶されてしまう始末。挙句の果てにはそこらのものをとっては投げつけられてしまう。

 ついにはほかの男との交際をほのめかすようになってしまったのです。

 彼女は頻繁に家を空けるようになりました。どこへ泊っていたのか朝に帰ってくることも珍しくなく、二日三日帰ってこない日もありました。

 一人ボッチの部屋の中で、彼女の残り香を嗅ぎながら一人悶える虚しさは私の心を締め上げるのです。

 原因は私にあるのでしょう。近頃私が他の女に興味を持ってしまったことに彼女は気づいていたのです。

 私がいけなかったのです。

 限界を感じた私は彼女にひれ伏しました。

 「私が悪かった」と、床に額をこすりつけて謝りました。

 すると彼女は「私の恐ろしさがわかった?」と耳元で囁くのです。

 私の完敗です。

 私はこの身を彼女に捧げました。

 彼女は四つん這いになった私の上にまたがり「私のものになるか?」と訊ねました。

「なります…」

「何でも私のいうことをきくか?」

「ききます…」

「一生私のものになると誓うか?」

「誓います…」

「…どう?私の恐ろしさがわかった?ふふふっ惨めなその表情も可愛い。出会った時から私に負けないように自分を演じてたみたいだけど、どうだった?初めからバレバレだったんだよ?そんなことも知らずに今まで演じ続けてきた努力はほめてあげる。でもこれからはそんな小細工しなくたっていいんだよ?私が指の先から足の先まで、全部管理してあげるから。君の考えそうなことは全部お見通しだから。覚えておいてね」

 彼女はネクタイをくつわのように私の口にあてがい、囁きました。

「さぁ、走りなさい」

 この日から私は彼女のものになりました。それが夫であろうと、恋人であろうと、犬であろうと、私の一生を彼女に捧げるのだと心に決めたのです。

 それも一つの私と彼女の愛の形であると私は思うのです。

 私の物語に名前を付けるとするとどうでしょう。

『耽溺の果実』。まさしく私は彼女と云う禁断の果実を口にしてしまった、愛欲に溺れた一人の愚か者なのです。

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耽溺の果実 正保院 左京 @horai694

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