世界で一番残酷な夢(8)

 誰もが待っていた。妃の判断を、戦うべきか逃げるべきか、その合図を。

 何人かは前に出て、弱い者を守るように立ちはだかる。何人かは後退りし、すぐにでも駆け出せるように距離を取っている。

 ただ、誰もそれ以上には動かない。


 相対する白雪姫はゆっくりとした足取りで、しかし着実に距離を詰めてきていた。Qが最初に見かけた時のような怯えた様子はない。赤ずきんの言っていたことが真実かは分からないが、少なくともその目には凶悪な敵意が溢れていた。


「白雪……止まって。わたくしが分かるかしら。おまえを迎えに来たのよ」


 妃はもう一度その名を呼ぶ。

 声の震えは先程以上に酷い。慈しみ、悲しみ、恐れ。それらが混ざり感情はぐちゃぐちゃだった。


 白雪姫は低く唸る。妃の声を遮るように、あるいはそもそも、その声が聞こえていないかのように。

 何度名前を呼んでも、傷だらけの細い足は、義母の呼びかけにも歩みをやめることはなかった。


「白雪……わたくしは」

 白雪姫はもう目前まで迫って来ている。もし彼女が獣の速度で駆ければ、誰かは必ず犠牲となるだろう。


 ロックは迷っていた。

 今、弓を構えれば倒せるかもしれない。しかしそんなことをして、仕留める前に白雪姫が激昂したらどうなる。それに自分は妃に従うと宣言したばかりだ。


 その様子に、赤ずきんはそろそろ待つのをやめようとした。

 やめた、ではない。

 まさに痺れを切らすその直前に、動いた者がいた。


「仰せにならなくても結構です。皆様の望むままに」


 そう口にすると、ポリッシュは優雅にロックの手から林檎を奪う。止める間はなかった。

 手袋を脱ぎ捨て、手のひらを人々へ向けて振ってみせる。一瞬映った主人の顔が歪んでいるのは残念だが、仕方ない。


「それでは皆様、ご機嫌よう」


 まるで近所に散歩にでも行くかのごとく、彼はそう言って微笑む。

 煌めく手に林檎を握り、それを白雪姫の口めがけて突き出しながら。


「——っ!」


 妃が小さく何かを叫んだが、獣の咆哮と鏡が割れる音がそれを掻き消し、誰の耳にも聞こえなかった。


   ◎


 それからどのくらいが経ったろう。しばらくして、白雪姫は動かなくなった。

 彼女にとって本当に林檎が毒だったのか、それとも単に喉に詰まらせたのかは分からない。ただ事実として、白雪姫は林檎によって目を閉じた。


 誰も何も言わず、ただ立ち尽くしていた。白雪姫に、ポリッシュに、そして妃に。何と言葉をかければいいのだろう。

 大きな音に目覚めたアンとナナを再び寝かしつけに行ったロックですら、ほとんど無言のままだった。


 横たわる白雪姫を前に、妃は涙を流すまいと唇を噛み締める。ぼやけ始めた視界を取り戻すかのように目元を拭い、やがて足下で動かないままの少女を見つめぽつりと呟いた。


「これは、わたくしの願い。だってポリッシュはわたくしの心に従ったのだもの。だから誰も心を痛めなくていい。白雪がこうなることを分かって、それを望んだのはわたくしなの」


 しゃがみ込み、愛おしそうに泥で汚れた髪を撫でる。ただその髪の柔らかさはいつも触れていた毛並みとは違っていて、それが妙に悲しかった。


 一方、妃の隣に立っていたディムは、散らばった鏡の破片を眺めていた。白雪姫の最期の抵抗を受け、腕以外も大きくひび割れている。それはヒトの姿をしている、と言っていいものかどうか。

 そんな自身の分身ともいえる存在の破片を拾い上げると、

「すみません、大変不躾なお願いがあるのですが」

と、彼はQとAを手招きした。


「何でしょう」

 おずおずとAが訊ねると、ディムは割れた鏡をそっと差し出す。

「もしお二方のどちらかがよろしければ、ポリッシュの最期の望みを叶えていただきたいのです」

 煌めいているのは、ポリッシュが自慢をしていた手のひらの破片だ。

「我々は鏡でございます。たとえ人の心と姿を得ようとも、鏡として壊れて一生を終えたいのです。その手助けをお願いできませんか」


 相変わらず無機質な表情でディムはそう言うが、Aは求められるものが分からない。

「僕らが? どうやって」

「魔術師と魔女、我々に魔法をかけた魔法使いは告げました。世の中にはごく稀に、魔法のない世界からの客人が混ざっている、と」

「それって……」

 Aは思わずQの方を見やる。長い前髪でQの表情は読みにくいが、動揺が感じ取れる。ディムの言葉に対して心当たりがあるのは明らかだった。


「そういや、ポリッシュが何か言っていたな。俺達のような人間に会ったら気を付けろ、とかなんとか。それは今、あんたが言ったことに関係があるのか」

「ええ。あなた様方のような存在というのは我々にとって脅威なのです。なぜならその気まぐれで、こちらが望む望まぬに関わらず、かけられた魔法が解けてしまうのですから」

 ぐい、とディムは光る欠片を改めて二人の前に差し出す。


「こちらに口づけを」


 Aは突然のディムの要求に対し、大きな目をさらに見開いている。一方で、Qはその言葉にむしろ納得していた。

 そうだ、昔から決まっている。魔法を解くのは愛のキス。それが物語のお約束。『眠れる森の美女』に『かえるの王様』、そしてもちろん『白雪姫』——。


 Qは輝く破片を手に取る。良くも悪くも、生き物の一部だとは思えなかった。

 妃はああ言ったが、その発想を提示したのはQだ。その罪滅ぼしを少しでも、と彼は覚悟を決めた。


 鏡面に唇が触れた、と感じると同時に、何かが消えてゆくようだった。柔らかく降り注ぐ月光が雲に隠れるように、ふとそこからなくなってしまう。

 ただ、嫌な感じはしなかった。


 Qが顔を上げると、ディムは少しだけ笑っているように見えた。その表情を隠すように頭を下げる。その一礼で、Q自身も救われたような気がした。


 振り返ると、ポリッシュが倒れていた場所には割れた古い姿見があるのみだった。


「ねえQちゃん。僕らが魔法を解けるなら、白雪姫を救うことはできないのかな」

 Aはそう問いかけたが、Qは力なく首を横に振る。

 白雪姫は毒により生涯を終えた。魔法の力によるものではない。彼らがその身体にキスをしたとて、少女の姿が獣へと変わるだけだろう。

 妃に憧れた白雪姫。彼女はきっと、元の姿に戻ることを望みはしない。


「それでも——」

「その必要はありません。白雪が生き返るなんて、馬鹿らしい。わたくしはそんな夢なんて見ないわ」

 Aの言葉を遮るように、妃は立ち上がった。その瞳にはもう涙はなく、氷のような鋭さが戻っていた。

「わたくしは城へ戻ります。ディム、ポリッシュを集めなさい。欠片も残さないように」

「かしこまりました」


 妃はドレスが汚れるのも厭わずに白雪姫を抱き上げる。背丈も自分と変わらない少女を支えるにはその腕は細く、バランスを崩しそうになる。

 それでも、妃は手を離そうとしなかった。


 その様子を見ていたQは考えていた。

 物語と同じように倒れた白雪姫。ただ異なるのは、彼女が真に義母から愛されていたという事実。その違いが意味することは何だろう。

 分からない。けれど、それが自分達にとっては何か重要な意味を持つような気がした。


「待ってくれ」

 立ち去ろうとする妃と従者の背に、声をかける。

「なんなの? あぁ、そうね。おまえ達には迷惑をかけたわ。何か欲しいものがあれば言いなさい。お金でも宝石でも用意させます。他にも、わたくしにできることがあればなんでも言いなさい」

「それなら、ひとつ頼まれてくれないか」


 Qはそう言いながら、心の中には躊躇いがあった。口にすることで妃を傷つけるだろうだろう、と思ったからだ。

 ただどうしても、言わなければならない気がした。


「ここで起きたこと、それを何らかの形で色々な人達に伝えてほしい。細部は脚色しても構わないから」


 突然のQの依頼に妃はわずかに顔を曇らせるも、ややあってゆっくりと頷く。

「おまえが何をしたいのかわたくしには分かりかねます。けれど、その願いは叶えましょう。元よりそのつもりでしたから。ただ……」

 妃はそこで一度言葉を切った。表情には迷いと恐れが見える。年相応の、大人に怯える子供のように。


「ただ許されるならわたくしは、こんな悲しい結末で白雪の物語を終わらせたくはないのです。わたくしは白雪を不幸にはしたくない」

 凍てつく瞳の奥が揺らぐ。その揺らぎを悟られないように妃は続けた。


「だから、わたくしは伝えます。『白雪は眠りから目覚め、幸せに暮らした』と。

 たとえ酷い義母だと罵られようとも、わたくしは構いません。だって嘘をついている時点で、もはやわたくしの心は悪に染まっているのですから」

「それは違う。少なくとも俺はそう思う」


 妃の言葉にQは口を挟む。妃の瞳の揺らぎは大きくなる。心の揺らぎと同じように。

「何が違うと言うの」

「嘘には確かに悪いものある。でも、誰かを救う為の嘘は悪いものじゃない。

 あんたは夢なんて見ないって言ったが、今話したものこそがあんたの夢だ。あんたは嘘をつくんじゃなくて、夢を語るだけ」


 口にしながら思う。これは詭弁だ。都合の良いように物事を言い換えているだけ。夢だと言えばそうである。やはり嘘だとみなせばそうだとも言える。

 でも、そのどちらでも構わない。彼女が語る内容が同じなのであれば、聞いた者が何と思おうがどうでもいいのだ。


 大切なのはその真偽でも正確性でもない。まずは人々に語り継がれること、そして忘れられないようにすること。

 Qは理由が分からぬまま、しかし直感的に感じていた。これが自分達を救う鍵になるのではないか、と。


 妃はややあってぎこちない微笑みを見せると頷き、ドレスの裾を翻して従者と共に森の奥へと消えていった。

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