闇を駆ける金靴(2/終)
ふと、懐かしい記憶が蘇った。
数年前のことだ。
今夜のように月が輝いてこそいなかったけれど、同じように寒い日に出会った男。
確か彼は舞踏会へ行けと口にしていたな、とシンデレラは相棒のバイクに背を預け、手元の紙切れに目線を落とす。面倒くさくて開けずに放置してあった封筒に入っていたものだ。
チラシというには上質な紙に綴られているのは、事実上この国の王に次ぐ権力を持っている領主の開く舞踏会の知らせ。記された開催地は彼の城、参加対象は国内に住むすべての未婚の娘。
あの時、あの男が言ったとおりだ。
くだらない。
本来の自分ならそう感じ、表題を見ただけで紙を捨てるだろう。けれども過去に男から聞いた言葉が頭から離れず、なんとなく踏ん切りがつかないままその紙をポケットにしまう。
「今更思い出しても、ね」
舞踏会は今夜、これから間もなく始まる。たとえ行きたくともドレスも何も持っていない。領主もこんな装いの女が来たら迷惑に違いない。
シンデレラはそう自分に言い聞かせて客を待つ。今日は珍しいことに事前予約が入っているのだ。仕事をして、男の話は忘れよう。
そう思うとすぐに、背後から声がした。
「すみません、予約をしていた者ですが」
振り返ると、飾り気のない黒いドレスを着た女が立っている。薄暗いのも相まってどことなく地味な印象である一方、羽飾りの付いた大きな帽子と顔を隠す扇子がアンバランスに目立つ。
よろよろと歩く彼女はこの衣装には慣れていないのだろう。窮屈そうなのが伝わってくる。
シンデレラがサイドカーの扉を開けてやると女はゆっくりとシートに腰を下ろした。
「どこまで?」
「領主の城までお願いできるかしら」
「……ってことはあんた、その格好で舞踏会へ行くの?」
シンデレラは思わず聞き返した。率直に言って、彼女の雰囲気はパーティとは程遠い。むしろ宴会よりも葬式のほうが似合うくらいだ。
口にしてから失言だったとばつが悪そうな表情を浮かべたシンデレラだったが、ドレスの女は気分を害するどころか扇子の陰でくすくすと笑みをこぼす。
「そう、舞踏会。本当は行きたくないんだけどね。父の仕事は人脈がすべてだから、まあ世間体ってやつよ。でも急に言われてもドレスなんて持っていないんだもの。正装といったら
シンデレラに手渡されたヘルメットを膝に置き、女はそこに頬杖をつく。表情はよく分からないが、つまらなさそうな様子が伝わってくる。
「そういえばあんた、その頭でヘルメットってかぶれる?」
「悪いけど、仕事帰りで髪を整えてないのよね。だからこの帽子ってわけ。ヘルメットをかぶらなくてもいいくらい、ゆっくりと走ってくれるかしら」
「それじゃ舞踏会に間に合わないけど、いいの?」
「むしろありがたいくらいだわ。ほんの少しでも、出席したということにできたらそれで上等よ」
客がそう言うなら、とシンデレラはそのままエンジンを掛けた。地域によってはヘルメットの着用義務があるらしいが、この近辺ではあくまで使用に関して推奨となっている。
常であれば万一を考え安全の為に着用を促すが、今日は事情が事情だ。自転車ほどの速度で走ろう。
相棒はシンデレラの指示を受け入れ、のろのろとしたスピードで前に進み始めた。
「ところで、ゆっくりと行きたいなら馬車でも頼めばよかったんじゃない? ドレスや帽子も傷まないし、このバイクよりは暖かいし」
もちろん今夜はどの馬車も領主の城行きの予約でいっぱいだろう。
けれども、舞踏会に遅れてもいいということであればどこかしら頼めそうなものだ。
そのような素朴な疑問に対し、女はあっさりと答える。
「好きじゃないの、馬車」
「あっそう」
ええ、と女は当然とでもいうように首を縦に振る。
「意味のない集まりにわざわざ嫌いなものを利用してまで行くなんて、私はごめんだわ」
「意味がない、か。はっきり言い切るのね」
「もちろんよ。この舞踏会の目的は領主の花嫁探しだもの。私が選ばれることはまずないでしょう」
そう言うと、女はそっと手元の扇子をずらして顔をシンデレラに向けた。
「領主はヒトだもの。わざわざ亜人の女なんて選ばないわよ」
にこりと微笑む女。
その顔がやや硬質な短い毛で覆われていることにシンデレラはようやく気付いた。よくよく見てみれば、長い袖の先から見えている手の爪も黒色の蹄状である。
「あら、びっくりしたかしら?」
「少しだけ。でも別にあんたがヒトじゃないからってどうこう言う気はないよ。単に闇夜で気付かなかったから、ちょっと驚いただけ。この辺じゃ亜人はあまり多くないし」
「それなら良かったわ」
どうりで馬車が好きでないわけだ。
御者や牧場主など仕事で獣に接するヒトの中には、亜人を人間でなく獣として扱う者もいると聞く。詳しくは尋ねないが、彼女にも色々とあるのだろう。
そこからの道中、黒衣の女はこれといった話もせずにぼんやりと夜空に浮かぶ大きな月を眺めていた。
シンデレラも特に話しかけることはないままバイクを走らせ、領主の城の前でその歩みを止めた。ブレーキを掛け、そっと女に手を貸してやる。
「はい、到着」
女はシンデレラの手を取り、ことさら時間をかけてゆっくりとサイドカーから地面へと爪先を運ぶ。
もう雨はほとんど止んでいるが足元はぬかるみ、華奢な靴には酷だ。しかし女はさほど気にしていない様子で歩き始めた。
「面倒だけど、仕方がないから行くわ。乗せてくれてありがとう」
「帰りはどうするの? ここで待ちましょうか」
「先に来ている姉と帰るから大丈夫よ。彼女はきっと舞踏会の終わりまでしっかりと参加するはずだから、暇を潰すのにちょっと疲れるけどね」
「あらそれは熱心なこと」
「ええ、本当にそうね。もう一人姉がいるんだけど、先日どこぞの貴族と結婚したの。だから自分も、と躍起になってるのよ。結婚の何がいいのか私には分からないけど、そういうものなんでしょうね」
苦笑しつつも女はシンデレラに一礼し、ドレスの裾を翻してそびえ立つ白亜の城の大階段を登る。
その姿が遠く小さく、厚い扉の奥に消えるまで見送り、いざ帰ろうとした時にシンデレラは気付いた。
「あ、忘れ物……」
サイドカーの座席には小さな花飾りが残されている。確かこれは彼女の帽子に付いていたものだ。中心には宝石のようなものが埋め込まれており、高価そうに見える。
帽子の装飾なので本人は紛失にすぐには気付かないかもしれない。もしかしたら舞踏会の終わりまで、ずっと。
シンデレラは考えた。
彼女は姉と舞踏会の終わりまでここに残ると言っていた。もしそこまで彼女を待てば、時間制限のあるバイクの魔法は解けて帰りの手段を失くす。かといってこのまま帰れば、忘れ物とはいえ盗みを働くことになってしまう。
選択肢は他にない。
シンデレラは煙草の灰でバイクを片付けるとポケットにしまい、花飾りを片手に階段へと向かった。
城の中にはドレスの女が溢れているだろうが、悪い意味で目立つ服装だ。きっとすぐに見つかるだろう。
早く届けて、家に帰るとしよう。
◎
その女の姿を一目見ただけで、男は運命を感じた。
「なんて美しいんだ……」
それ以外の言葉は思い付かない。
たった今、彼の目の前で自分を売り込もうと振る舞う女達とは比べ物にならなかった。煌びやかなドレスなど着ておらず、髪を結うどころか化粧すらもしていない。
それでも、彼だけでなく周りの人々すべての目を惹くほどの魅力がある。
特に、その脚。
颯爽と金の義足を輝かせながら歩く姿に、男は心を奪われてしまったのだ。
義足の美女は大広間の隅でダンスを遠巻きに眺めている地味な亜人の女に歩み寄ると、何かを手渡したようだった。何やら話をしているようにも見えたが、挨拶を交わしたかと思うと女はすぐさま踵を返し、やって来たばかりの広間の扉の方へと義足を向ける。
そのまま、まるで風が通りを吹き抜けてゆくかのように、かすかな余韻を残して歩き去っていった。
つかの間の出来事に男は一瞬呆気に取られて声すらかけられなかったが、女の姿が見えなくなって間もなく、ふと我に返った。
駄目だ、彼女をこのまま帰してはならない。
「待ってくれ!」
声を張り上げ叫べども、女に届くことはなかった。男は急いで彼女の後を追って外に出た。しかし辺りには夜の闇が広がるばかりで、その姿はもう見えない。
残されたのはただ、ぬかるんだ地面に残る義足の足跡だけだった。
「——ふふ、ふ」
悔やんでもどうしようも無い。男は笑みを浮かべながら指を鳴らし、控える側近を呼ぶ。
「エヌ! エヌはいるか!」
その声に、広間の入り口に佇んでいた亜人の女の耳がぴくりと動いた。
柔らかな毛に覆れたしなやかな身体に細身の衣装を纏い、その背には長く伸ばした巻き髪が揺れている。太腿まである革製の靴のヒールを鳴らし、気取った様子で彼女は主人の傍にすり寄ると、その尾で彼を撫でた。
「カラバ様、この猫をお呼びですか」
「ああ。見つけたんだよ、エヌ。俺の妻に相応しい女性を。おまえも見ていただろう、さっきまでここにいた義足の女性さ」
「……あら、まあ」
エヌ、という名の女は一瞬だけ不機嫌そうな様子を見せたが、すぐに笑顔を作り直して主人に問う。
「それで、カラバ様。私は何をすればよろしいのです?」
「決まっているだろう、彼女を探し出してほしい。俺は彼女に求婚する」
「……そう」
エヌのひげが小刻みに震えていることに、カラバと呼ばれた男は気付かない。
「まずは靴職人をここへ呼べ。お前の靴をあつらえた靴屋の娘も、この城に招かれているはずだ」
エヌは傍にいた召使いに視線を送り、主人の要望どおりに一人の娘を連れてこさせた。子供と変わらぬほどにたいそう小柄な、金毛のヒツジの亜人である。
娘はカラバに気に入られたわけではないだろうとは雰囲気で分かっているものの、それならばなぜ呼び出されたのかが理解できなかった。
「あの、その……何かわたしに、ご用でしょうか……?」
言葉を選びつつ怯えながらも跪く娘をカラバは一瞥すると、すぐに視線を地面へと戻した。その先には小さな足跡が刻まれている。
「なあ、靴屋。おまえ、義足の女性の姿を見たか?」
「義足……といいますと、ついさっきまで広間にいらしたお綺麗な方でしょうか……? 拝見しましたが、あの、それが何か……」
「見たのか! 見たんだな! それなら、造れるな」
有無を言わさぬ様子でカラバはヒツジの娘に詰め寄る。娘は困惑しながら尋ねた。
「造る……とは?」
「分からないのか、お前は靴屋だろう。一目相手を見ただけで一夜のうちにぴったりの靴をこしらえることができる、と俺は聞いたぞ」
「……は、はい」
娘は小刻みに頷く。
彼女の家に伝わる作業台には魔法がかけられており、適切な材料を揃えて一晩置いておくだけで靴を仕上げることができるのだ。
「ええと、それではどのような履物をご用意すれば……」
上目遣いに領主の顔色を伺うと、彼は嬉しそうに頷きながらその右手を掲げた。
「ほら、これだ」
指差す先には、義足の付けた小さな足跡。
「これを元にガラスの義足を造れ。彼女に似合うような、とびきり美しい品を」
◎
午前零時の鐘が鳴り終えてからしばらく。
明け方には靴屋を含めた娘達は皆めいめいに家路に就き、城に残るのは主人であるカラバと召使いだけとなった。
眠れぬカラバは城の中でも特別豪華に飾り付けられた自室で椅子に腰掛け、酒を嗜みながらエヌの報告を聞いていた。
「つまり、昨夜義足の女性と話していた黒衣の亜人はたいしたことは知らないというんだな」
「そのようです。亜人の女の話によれば例の義足の人物は運送屋であり、この城へはその依頼を果たす目的でやって来ただけ。二人は数時間前に初めて会ったばかりだそうよ」
「ふん、使えないな」
「あら。そんなこともありませんわ」
妖艶な笑みを浮かべたエヌは、胸元から小さなメモを取り出してちらつかせる。
「言ったでしょう? あなたがご執心の彼女は運送屋。個人的なことは何も分かりませんでしたが、連絡先や行動範囲を聞いておきました」
「本当か! それならばすぐにでも彼女を見つけ出すことができるか」
「ええ、お任せくださいませ。あんなに目立つお姿ですもの、簡単に見つかるでしょう」
あえて棘のある言葉を使えども、未来の花嫁のことで頭がいっぱいのカラバには伝わらない。エヌは舌打ちしたい気持ちを抑えて必死に笑みをたたえ続けた。
嫉妬なんてみっともない。私は彼の為に尽くすだけ。それだけでいい、と決めたのだから。
「それにしても、ガラスの……義足、なんて」
カラバに聞こえぬように呟き、自らの脚に視線を落とす。革で編み上げられた長靴。彼から贈られた信頼の証であり、エヌにとっては大切な宝物だ。
たとえ見知らぬ女が現れようとも、彼との間に築き上げた関係は揺らがない。
大丈夫。いつだって彼は私を頼りにしてくれているのだから。
そう、心に言い聞かせる。
自慢の右脚を後ろに軽く引き、恭しく一礼。口角は上げたまま、耳は立てたまま。
どんな時でも主人に従う猫であろう。
「それではこれより彼女を捜してお連れしますが……もし、抵抗したらいかがしましょう?」
「そうだな。領主の誘いを断る女なんてそうはいないと思うが——万一の際には、手段は選ばなくていい。なんとか攫って来てくれ。ああ、くれぐれも肌には傷を付けるなよ」
後半は声をひそめるようにして、カラバは命じる。エヌは何も言わずに頷き、開け放たれた窓の先、テラスの方へと駆け出すとその手すりを越え、朝の日差しの中へと軽やかに身を躍らせた。
◎
誰かに見られている。
舞踏会から一夜明け、街はいつもと変わらぬ日常へと戻っているようだ。
しかし、シンデレラは後方から自分を追う何者かの気配を感じていた。
気のせいではないかとあえて市街地から離れてみたが、そこまで速度を出していないとはいっても、バイクの速度に遅れることなく一定の間隔でぴったりとついてきているのは偶然ではないだろう。
シンデレラは人気のない空き地に差し掛かったタイミングでバイクを停め、振り返った。
「誰だか知らないけど、尾けるのやめてくれる? あたしに何か用があるなら言ってよね」
そのまま速度を上げて振り切ることも考えたが、もし撒けずに住所を特定された場合、相手によっては非常にまずい。家族に危険が及ぶくらいであれば、ここでなんとか対処しておきたいところだ。
「あたしの勘違いであんたが無関係だったらごめんね。でもそうでないなら、きちんと会話して解決しない?」
話しながらシンデレラは辺りを見回す。
すると近くの茂みが音を立て、そこから長い尾が見えた。その尾は緩やかに下がってゆき、代わりにその始点である尻、そこから続く背や頭が顔を出す。
髪から覗く、三角の耳。どうやらネコの亜人のようだ。
「あんた、誰? あたし、何か恨まれるようなことしたかしら」
「していないわよ、今はね。もっとも、これから先のことは分かりませんけれど」
艶のある声で応えた亜人の女は、わざとらしくも一礼し、作り笑いを浮かべる。
「私はエヌ。カラバ様の使いです。改めてあなたを城にお招きせよ、と彼より直々の命を受けてここに」
「カラバっていうと、昨日の城の領主? どうしてまた? こんな格好で舞踏会に立ち入ったからということだったら、悪かったわ。届け物があったからやむを得ずで、わざとじゃないの。そう伝えて」
「……それ、あなた本気で言ってるの?」
エヌは苛立ちを隠そうともせず、朱を差した口元を歪めて言った。
「私はね、あなたの弁明を聞いてこいと頼まれたんじゃないの。あなたを連れてこい、と命じられたの。彼は花嫁をお求めよ。その意味が分かるでしょう?」
「あぁ、そういうこと」
シンデレラは見るからに興味がなさそうに相槌を打つ。この美貌だ。大方この手の誘いには慣れているのだろう。
その様子はエヌをさらに苛立たせた。
「こんな女のどこがいいんでしょうね、彼は。見る目がないのかしら」
「あたしもそう思う。領主夫人って柄じゃないもの」
「あら……そう言うってことはつまりはあなた、彼の誘いを断るのね」
にや、とエヌの口の端がつり上がる。
「それなら仕方がないわ。抵抗されるようなら手段を選ばないでいい、と彼に言われたもの。他にも少々条件があったけれど——激しい拒絶の果てにそれは叶わなかった、ということにでも致しましょう」
言い終わるが早いか、エヌの姿はシンデレラの視界から消えた。
「————!」
下だ。
地を這うかのごとく深く身体を沈めたエヌは、その姿勢からシンデレラの義足に足払いをかけた。攻撃に気付いたときにはもう遅く、咄嗟に地面に手を付き体勢を立て直すも反撃は叶わない。
倒れた足首をエヌが掴む。体勢をそのままに手前へと引き寄せようと力をかけるのを感じ、シンデレラは自身の太腿に手を伸ばした。
駄目だ、このままだと逃げられない。
捕まるくらいなら、と義足を固定する留め具を引きちぎるように壊す。
エヌは不意に変わった獲物の重さに対応できず後ずさった。その隙にシンデレラは距離を取る。
「あらあら、いいのかしら? 片脚で私から逃げるつもりなの?」
「両脚残そうとしてたら、あたしは今の時点でもう負けてたでしょうね。分かっててよく言うわ。あんた、どっちにしろ潰すつもりだったでしょう? あたしの脚」
「ええ、まあ。そうね」
掲げるように手にしたシンデレラの義足を一瞥すると、エヌは無造作に投げ捨てた。がしゃり、とパーツが軋み外れる音にシンデレラは苦い顔で舌打ちを漏らす。
「それ、結構高価だったんだけど」
「どうでもいいわ、そんなもの。あなたには私の主人が素敵な脚を用意してあるのだから。きっとあなたがこれまでに見たことがないほどに煌びやかで……憎たらしいくらいに美しい、ガラスの義足よ」
「はぁ? ガラスだなんてそんな、まともに動かせるわけがないじゃない。本気で言ってるの、あんた」
「あなたこそ、何を言っているのかしら」
思い出す。
まるで蝶を磔にして喜ぶ子供のような、純粋な笑顔を浮かべた男の顔を。
「あなたは自由に歩く必要なんてないの。ずっと彼の傍にいればいい。それが彼の望み。私の叶えるべき夢なのよ」
尾を立ててハイヒールの踵を鳴らし、駆けることすらままならない女に歩み寄る。
睨む目には敵意がありありと見える。しかし、片脚で逃げ出そうとするのをエヌが許すことがないのを理解しているのだろう、足掻いて背を向けるような真似はしない。
ただひたすらに反撃の隙を窺っている。そんな機会、与えてやるわけがないのに。
あぁ、なんて可哀想なひと。
——心から、羨ましいわ。
エヌは指先をシンデレラの顔に這わせるように腕を伸ばす。
今すぐに隠した爪を立て、滑らかな顔に疵を付けてしまいたい。そうすれば彼女の主人はこの美しい女への興味を失うに違いない。
だが思いこそすれ、エヌはそれを実行に移すことはできなかった。
なぜなら彼女はどこまでも——主人の幸せの為に尽くす、と誓っているのだから。
「歓迎してあげる、可愛らしい花嫁さん」
薬でも使うか、それとも気を失うまで、腹か首筋あたりを殴打してみるか。いずれにせよ、彼女が屈服の意思を見せない以上は手荒な措置を執るしかない。
さて、どうやって連れて行こうか。
——エヌがシンデレラに触れようとした、まさにその瞬間のことだった。
ぴくり、と立てた耳が音を捉えた。
拾ったのはネコの聴覚を持つ彼女にしか聞こえないくらいの微かな叫び。それも、エヌの名を呼ぶ声だった。
「エヌ様、どちらにいらっしゃるのですか! 急いでお戻りください! カラバ様が、カラバ様が大変なのです! あぁ、エヌ様!」
カラバ、の名を聞いて躊躇などあるはずがなかった。
嘘か真かは関係ない。主人の身に危険が迫るのなら、それがどのようなものであれ排除が最優先だ。
エヌはすぐさま踵を返し、元来た道へと駆けてゆく。その姿はみるみる小さくなり、やがて街並みに溶けていった。
シンデレラは何が起きたのか分からず、座り込んだまま呆然と走り去る女の背を眺めることしかできなかった。
その後しばらく警戒していたが、結局エヌが戻ることはなかった。
「いったい何だったんだろう……」
よく分からないままに呟く。
知らぬ間に日は傾き、無惨にも放り出された義足は夕日を反射して輝いていた。
きらきらと、まるで黄金のように。
残る脚に力を込めて立ち上がる。ゆっくりとバイクの横まで進みその身体を預けると、思いの外疲弊していることに気が付いた。
俯くと、磨き上げられた相棒のボディに映るのは見慣れた女の顔だ。驕るつもりはないが世間ではこの造形を美しいと言うのだろう。
記憶にない実母の顔もこれと似ていたのだろうか。それとも、受け継いだのは病だけなのだろうか。
「人生の転機、だったっけ」
安心すると、かつて乗せた客の話が脳裏によぎる。確かにある意味、彼女のこれまでの生涯においても印象的な出来事となった。
しかし、だから何だというのだろう。
「転機なんて、これまでもたくさんあったじゃない。今日だけが特別だなんて思えるかっての、嘘つき」
顔すら知らぬ実母と死に別れたこと。
脚を病んだ子を見放し父が蒸発したこと。
その父の恋人だった女性とその娘が、自分を家族として迎えてくれたこと。
どれも彼女の人生を左右するには充分な経験だった。それに比べたら今夜の件など些末なことに思える。
今懸念すべきは領主からの求婚による新生活ではなく、壊れた義足の修繕費の捻出だ。
「まったく。こんな話を噂にして流したところでどうするつもりなの、あの男」
彼の言っていたような、可哀想な少女の成功譚なら世間は喜ぶかもしれないが。
「あんな変な奴のやりたいことなんて分かるわけがないけど、でも……ま、気が向いたら世間話としてはちょうどいいかもね」
苦笑しつつもポケットを探り、取り出した煙草に小さな火を灯す。煙は細くたなびき、朝焼けの空に滲んでいく。
この手の炎が灰になったら帰ろう。義母と義姉の待つ家に。
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