【ゆっくり更新】噂話の仕立人 〜おとぎ話の知識で挑む他人任せの異世界脱出計画〜

闇を駆ける金靴(1)

 薄闇の中、煙草の白い煙が細く立ち上る。手元の小さな炎と疎らな街頭と、視界の赤はゆらゆらと頼りなく辺りを照らす。

 照らしはすれども、この天気の中その光を眺めるのは、昼過ぎから客を待っている女くるいのものだった。


「今日はもう、客は来ないかな」

 誰に宛てるでもなく彼女は呟く。


 昨夜より降り続く雨は少しずつその勢いを失ってはいるものの、まだ傘を畳むほどではない。もう少し気温が下がれば雪に変わりそうな寒さもあって、外出をしようと思う者はなかなかいないだろう。


 女が雨をしのぐのに勝手に借りている軒下は、わずかに開いた屋根の隙間から雨水が染み出している。溜まった水滴は一定の間隔で彼女の相棒の背に落ち、その度に小さな音を立てた。

 その音を聞きながら彼女はふう、と煙を吐く。


 やはり、今日はもう帰ろう。


 女はそう決めた。

 この天気だ、自分に声をかける者などいないだろう。


 傍らに視線を落とす。沈む夕日のように眩しい、赤みを帯びた橙のバイク。

 女性が乗るには大きめなそれには、同色のサイドカーが取り付けられている。彼女はそこに依頼主を乗せて運ぶことを生業にしていた。


 横目に捉える相棒の姿は鮮やかだが、雨のせいで所々に汚れが跳ねている。

 よく晴れた暖かい時には多くの客に喜ばれる凛々しい姿も、今日のような寒い悪天候では誰にも見向きもされない。


 こんな日に外出をしなければならないとしたら、人々はまず馬車を呼ぶだろう。亜人の多く住む地域では差別的だとの意見から廃れているらしい馬車だが、この付近では今も普通に公道を走っているのだから。


 彼女は相棒の背に付いた雨の跡を拭うと、持っていた煙草をそっと押し付けた。

「さて、行こうか」

 ぎこちなく立ち上がる。軋む右脚を気に留めながら、彼女は座りっぱなしで凝った身体をほぐした。


 太陽が出ていないので目視で確認したわけではないが、すでに日は傾いている時刻である。

 どこかしら宿を見つけなければならない。自宅へと戻る時間はないし、この雨の中で野宿は勘弁だ。


 そう考え歩き出そうとした矢先、道の先から一人の男が駆け寄って来た。

「すまないが、ここ空いてるか」

 ここ、と彼は女の隣を示すと返事を待たずに軒下に割り込んだ。


 傘を閉じると、その陰から淡い金色の髪が覗く。背は高く、地味だがそれなりに質の良さそうな薄手のコートを纏っている。手には大きめのトランクを持っているが、旅人だろうか。


 こんな日にやけに薄着だな、と女は訝しげに視線をやるが、男は寒そうにする様子もなく傘の雫を払っている。

 男の前髪は瞳を覆い隠すほどに長く、表情は読み取れなかった。


「雨宿りならお好きにどうぞ、あたしはもう行くから」

「なんだ、どこかに行くのか」

 立ち去ろうとした女に男は声をかける。


 たまたま居合わせただけの女がどこに行こうが、彼には関係のない話だろうに。


「ええ、これから用があるの。あんたが来たから、ってわけじゃない。別に気にしないで」


 職業柄たまには世間話をすることもあるが、本来彼女は客でもない他人と意味のない会話をして過ごすのは好きではない。

 言葉の上では男に気遣った言い方をしたが、たとえ時間や天候が違ったとしてもきっと彼女は他所に移っただろう。


 女が背を向けると、男は小さく溜息をついた。

「そうか、残念だ……今日はもう店じまいだったのか。ひと足遅かったな」

「え……あんた、お客さん?」

「ん? ああ。バイクで人を目的地まで運んでくれる美人がいる、って聞いて来た」


 思わず振り返り、男の様子を伺う。

 前髪のせいでどんな表情を浮かべているのかは分かりにくいが、男の言葉には特に妙な感情はなさそうに思えた。

 たとえば、下心であるとか、憐憫であるとか。彼女にそのような目を向けずに話しかける男は珍しい。


 偏見で少々そっけなくしすぎたかもしれない、と女はいささか反省して男の隣、つまり元々いた場所に座り直す。


「用事があったんじゃないのか」

「あんたがお客さんなら話は別。仕事があるなら予定も変わるからね。あたしに依頼しに来た、ってことでいいんでしょう?」

「まあ、そんなところだ」


 やや歯切れの悪い言い方が気にはなったが、女はあまり深く追求しないことにした。

 彼が何を考えているにしろ、きちんと客として金を払ってくれるのならいいだろう。彼女に不利益な状況になりそうであれば逃げればいい。それだけの話だ。


「どこまで行きたいの?」

「そうだな、それじゃこの国の王都まで頼みたい」

「王都ねえ……」


 今二人のいるこの街は王都と隣り合っている。距離としてはたいしたことはないが、途中に山脈を挟み中継の村はない。

 この時間から街を出れば、間違いなく野宿する羽目になるだろう。こんな天気で、しかも山中で一夜を過ごすのは避けたいところだ。


 そもそもたとえ上天気だったとしても、男性客を乗せた状態で野宿をするのは女にとって好ましくなかった。

 もちろん男が全員そうというわけではないが、中には夜の闇で理性的な判断ができなくなる者もいる。実際、過去に襲われそうになったことも少なくない。


 彼女自身は己の容姿にさしたる興味はないが、客観的に見た彼女は稀に見る美人だった。化粧などせずともこうであるのだから、格好に気を遣うとどれほど魅力的になるだろう、と身内には常に言われている。

 自分で思うより危機感を持った方がいい、というのはこれまでに得た教訓だ。


 そういった状況には幼い頃より学んできた護身術で対応してきたが、今日のような雨では思うように動けないだろう。万一の事態に陥る可能性は潰しておきたい。


「急ぎなの?」

「いや、別にそういうわけじゃない」

「そう。あたしのバイクは夜通し走れないから、今から街を出たら山の中で一晩過ごさなきゃいけなくなるの。急がないなら、明日出発でもいい?」

「ああ。それで構わない」

「じゃあ、明日の正午に街の出口で待ってて」

「分かった」

「遅れないように頼むわ。あたしの相棒、特別製だからさ」


 そう言って歩き出そうと立ち上がった女に、男はさりげなく訊ねた。

「ところで、あんたの名前なんだが——」


 街で聞いた名を告げると、女は頷く。


「そうだけど、それが何か」

「なんでもない、確認したかっただけだ。相手を間違えていないことが分かって良かった」

 男の言葉の意味はよく分からなかったが、女はそれ以上深く話を続ける気はなかった。


 明日の仕事が決まったのだから、今夜は早く寝ておこう。女は男への挨拶もそこそこに、傘も何も持たず雨の中に消えていく。

 男はその背を見送り、ぼんやりと呟いた。


「あれが『シンデレラ』か……だいぶイメージが違うな。まあいいさ」


   ◎


 翌朝——というにはやや遅い時間。男は約束を前に指定の場所へ現れた。

 昨夜のうちに雨は雪へと変わり、寒さはいっそう増しているのだが、男は相変わらず薄手のコートを羽織っているだけだ。


 昨日シンデレラと名乗った女は男よりも少し前にこの場に着き煙草をふかしていたが、彼を見るなり当然の疑問を口にした。

「あんた、寒くないの?」

 これからバイクで移動するのだ。屋根と壁のある馬車の中ですら、こんな格好ではつらいだろう。


 けれども男は平然とした顔で、気にしないでくれ、とだけ言った。

 そう言うならいいのだろう、とシンデレラもそれ以上聞くことはしない。凍えて死なれでもしたら困るので一応聞いておいただけだ。


 シンデレラの心配もどこ吹く風といった調子で、男は周りを見渡す。

「ところで、あんたバイクの運転手なんだよな? 肝心のバイクはどこにあるんだ?」

 聞いたところによればかなり目立つものだそうだが、それらしきものは近くに見えない。

ようだし、どこかに停めているのか」


 シンデレラという名の女がバイクに人を乗せる仕事をしている。


 隣町でそう聞き、男はここまで彼女を探しに来た。

 だが昨日は情報のようなバイクは結局。男が彼女をシンデレラだと特定できたのは、ひとえにその脚を見たからである。


 シンデレラは男の言葉にちらと腕時計を見た。短針はおおよそ真上、長針はその左側にほぼ隙間なく迫っている。

 二本の針が重なるのを待ち彼女は告げた。

「いいよ。バイク、見せてあげる」


 そう言ってシンデレラがポケットから取り出したのは、掌と同じくらい大きさの塊。

「蜜柑……じゃないよな、当然」


 橙色に輝く、小さなカボチャ。


 食用ではなく秋の催事の飾り付けに使う観賞用のものに近い、と男は思った。ご丁寧に顔まで彫られているようだ。

 まるで絵に描いたような造形のそれを、彼女は地面に置く。

「見ていて」

 とんとん、と持っていた煙草の灰をその上に。すると——。


「なるほど、カボチャの馬車ならぬか。あんたによく似合ってる」


 カボチャは灰に触れたところからきらきらと輝き、膨れ、男の目の前でサイドカー付きのバイクへと変身した。

 女はどうして男がいきなり馬車に言及したのかは分からなかったが、ともかくも自慢の相棒を認められたのは嬉しかった。女がこんな物に乗るなんて、と言われることの方が多いからだ。


「いいでしょう? 元々はあたしを産んだ母のものだったらしいんだけどね、使い方を見つけたのはきっとあたしが最初」

「面白いな。これは思った以上だ、うん」


 男は素直に感心しているようでシンデレラは気分が良かった。彼女の外見にだけ興味をもち取り入ろうと媚びてくる男は嫌いだったが、この男は変わってこそいても、そういう奴ではなさそうだ。


「このバイクはあれか、魔法使いの作なんだろう? ええと、物を生み出すのは魔神だったか」

「そうだけど、姿を変える魔法もかかっているわけだから魔女も関わっているんじゃない? もらい物だからよくは知らないけど」

「そうか魔女か。なるほど確かに、言われてみればそうだな」


 先程からいちいち変なことを言う。

 まるで魔法使いについて習ったばかりの子供が知識を親に披露しているかのようだ。もういい大人なのに、そんなことをわざわざ確認しなくてもいいだろうに。


「それじゃ行きましょう。このバイク、時間が経つと勝手にカボチャに戻るの。だから急がないと」

「あ、ああ」


 応える男の声はこれまでと違ってややうわずっていた。何が怖いのか恐る恐るといった様子で手を伸ばし、そっとサイドカーに触れる。

 指先が橙にきらめくボディを掴むと、彼は明らかにほっとした表情を浮かべた。


「よかった、俺でも乗れそうだ」

 そうぼそりと呟きサイドカーに乗り込む。

 荷物を膝に抱えると、見た目よりも座席はゆったりとしているように感じる。決して広いとは言えないが、柔らかな革張りのシートの座り心地は数時間の旅には充分すぎるほど快適だ。


 シンデレラは男にヘルメットを手渡すと自身も同型のものを被り、軽やかに橙のボディに跨った。

 慣れた手つきでエンジンを掛けようとするがなかなかうまくいかない。どうやら、今日はやや拗ねているらしい。


 魔法で動くこのバイクは燃料の類いが必要がない代わりに、その機嫌によって性能がぶれるように彼女には思える。男性客を乗せている時は大抵こうなるので、シンデレラは相棒が彼女の身を案じてくれているのだと思うことにしていた。

 もっとも隣に座る男はそういった下衆なことを考えている輩ではない、と彼女は感じている。根拠があるわけではないが、どことなく彼は他の人間とは違う。そんな空気のようなものを纏っているような気がする。


 そうこうしながら試行数回、なんとか相棒が言うことをきいてくれた。エンジン音はまだ不服そうとはいえ、これでようやく走り出せそうだ。


   ◎


「なあ、ちょっと話でもしないか」

 しばしの休憩に、とバイクを停めた先で男はそう口にした。


 なだらかに続く山道から見える空には、相変わらず冷たい風に雪が舞っている。

 二人は脇道にある岩に布を敷き腰掛けていた。食事を取る為の休息のつもりだったが男は何も食べないようだ。

 どうせ、空腹ではないのかと尋ねてもまたはぐらかされるのだろう。シンデレラはそう思い、聞くのをやめて自分だけ豆のパンを頬張っている。


「話って?」


 正直なところ、興味はわかない。あくまでも仕事は仕事、客とそれ以上詳しくお互いの話をすることはシンデレラにとっては面倒だった。

 また、出会ってから間がないとはいえ、男の方もシンデレラの態度から彼女があまり社交的な性格ではないことはとっくに察している。

 それでも男は引き下がる気はないようだった。


「さっき街を出る前にあんた言ってただろう。そこのバイクは元々のものだった、って」

「それが何か?」

「いや、たいしたことじゃないんだが。産んだ母、とわざわざ言うってことは育てた母——つまり、が別にいるってことだよな」


 シンデレラは次のパンに伸ばしかけた手を止めた。無意識に身構える。


 この男は、いったい何を言いたいのだろう。


「……それがどうしたっていうの?」

「当たってるか? あとはそうだな、二人ほど義理の姉もいるんじゃないか」


 わけが分からない。


「……いい加減にして」


 なぜこの男は、そんなことを知っているのだろう。


「誰から聞いたの? 聞いて、わざわざなんでそんな話をしたがるの? どうでもいいでしょ、他人の家族の話なんて」


 家族のことは普段ほとんど話さない。聞かれたとしても詳しくは言わない。客との関係性において、その情報は必要がないからだ。

 

 なのに、なぜ?


 気味が悪い。髪に隠れた目には何が見えているのだろう。心が、それとも記憶が読めるのか。

 シンデレラは急に隣にいる男のことが恐ろしくなった。


「何なの、あんた」

 シンデレラは怯えながらも、恐怖に屈せず鋭い視線を男に送る。

 すると驚くことに、むしろ話題を振った側である男の方が彼女よりもはっきりと焦り始めた。手を大きく振り、今にも詰め寄ってきそうなシンデレラを制止する。


「あっ、ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺は別にあんたを調べ回してたわけじゃない。色々あってその、たまたま知っていただけなんだ」

「何よそれ。たまたまであたしの家族構成をしっかりと知っていたと?」

「あーもう、何て言やいいんだよ……」


 頭を抱える男。

 その様子からは、確かに彼は嘘偽りなく真実を述べているように思える。ただ、かといって彼の知ることに関する説明はつかない。


「言うタイミングはここじゃなかったな……けど走行中じゃ聞こえないし、今しかなかったかやっぱり……うーん……」


 男は何やら後悔をしているらしい。そこにある困惑は本物で、シンデレラは少しだけ緊張を緩めた。


 てっきり自分の気を引くため、あるいは家族を含めて危害を加えるためにこんなことを言い出したのかと思ったが違うのかもしれない。

 もしそうだとすれば彼女がどう応えるかは予想できたはずで、それに対する男の反応はあまりに不用意すぎるからだ。


 しかし彼への警戒を完全に解くことはできない。


「質問に答えて。どうしてあたしの家族のことを知ってるの? 知っていて、あたしに何を言いたいの?」

「それは……」


 男はシンデレラの目を逃れるかのように顔を背け、呟くように口にした。


「あんたを今の生活から救ってやれないか、と思ったんだ」


 唖然、という言葉が今のシンデレラを表すのには最適だろう。開いた口が塞がらない、というのでもいい。


「……ええと、何を言ってるの?」

「何を……って、だから大変だろう。あんた、家族から虐げられているんじゃないのか」


 シンデレラは一瞬何を言われたのか理解ができなかった。


 落ち着け、冷静さを取り戻せ、と自分に語りかけてみる。

 どうやら男はシンデレラを可哀想な存在だと信じ、真剣に手を差し伸べたいと考えているらしい。しかもその不幸の原因は彼女の家族にあると思い込んでいる。


 そんなこと、いきなり言われたら。


「……ふっ、あはは! いきなり変なこと言わないでよ。笑っちゃうじゃない」


 今度は男の方が言葉を失う番だった。


「——は?」

「ふふっ、誰に何を聞いたのか知らないけど、あたしがそんなに哀れに見える? 残念ながら人違い」


 もう堪えきれない。シンデレラは大声を上げて笑った。

 これまでも彼女のことを幸せにしたいなどと言ってくる男はいたが、こんな見当違いの心配をしてくる男は初めてだ。


「あたしの家族の話なんてどこで聞きつけたのか分からないけど、あいにく義母さんとも義姉さん達とも仲良くやってるよ」

「そんな……嘘だろ? 掃除とか洗濯とか、他にも色々と押し付けられてるんじゃないのか?」

「家事はやってる。でも、あたしが好きでやってるの」


 普段は他人に家族について話すことはない。けれど男があまりにも勝手な思い違いをしているのが面白く、シンデレラはいつになく饒舌になる。


「義母さんは、父さんがあたし達を捨てて出て行ってからずっと家族の面倒を見てくれた。義姉さん達は、あたしが片付け忘れた豆に群がった鳩を追い払おうとして目を怪我したのに、あたしを責めなかった。大切な家族だからあたしはその為に働くし、自分を不幸だと思ったことはないよ」


 男は再び頭を抱えた。

 きっと彼は信じていたのだろう。シンデレラが家族からまるで奴隷のようにこき使われている、と。


 ——『赤ずきん』と同じタイプか。

 男はそう心の中で呟く。


「すまない、ちょっと予想外で……てっきりあんたは身内から酷い扱いを受けてるもんだと。いや、とんだ思い込みであんたの大事な人達を侮辱して悪かった」

 シンデレラに向かい、男は頭を下げた。


「勘違いしてたなら仕方がないわ。謝ってくれてありがとう、今回は許してあげる」

 シンデレラは、肩を落として妙に沈んでいる相手に少しだけ心を開く。

 やはり、彼は悪い人間ではないのだろう。


「それにしても本当に、なんでそんな思い違いを? あたし、自分で言うのもなんだけど他の人と間違われるには個性的すぎる方だと思うんだけど」


 そう言って、シンデレラは見せつけるようにその長い脚を組む。男はシンデレラの名を隣町で耳にした時、その特徴をこう聞いた。


 ——派手なバイクに跨る、金の片脚を持つ美女。


 陽光を反射する、何かしらの金属で出来た無骨な義足。彼女の右脚の太腿から下はそれによって輝いていた。


「俺の探していた『シンデレラ』はあんたで間違いはない……と思う。さっきあんた自身から聞いた話にも思い当たるところはあるしな」


 ばら撒かれた豆、鳩に潰された目。

 それは男の持つと一部合致している。


「ペロー版じゃなく、やっぱりグリム版の方だな。靴もガラスじゃなく金だし、うん」


 ぼそぼそした独り言はシンデレラには届かない。もっと詳しく聞きたいところだったが、男は詮索を控えることにした。

 せっかく機嫌が直ったのだ。これ以上変に関係を拗らせるのは得策ではない。


「まあいい。あんたが今の生活に苦しんでいないなら、とりあえずは。だけどもし、今後機会があったら思い出してほしいことがある」

「参考までに聞いておこうかしら。何?」


「舞踏会が開かれたら、何があっても出てくれ」


「……舞踏会?」

「そう。おそらく城で開かれる、かなり大規模なやつだ」

「そんなの、あたしが呼ばれるわけがないじゃない」

「理由があってな、きっとあんたも含めて国中の娘が呼ばれるさ」


 あまりに唐突で突拍子もない頼み事に、シンデレラは再びくすくすと笑った。


「分かった、覚えておく」

「ああ、是非そうしてくれ。あんたにとって人生の転機になるはずだから」

「でも、もしあたしがそれでこの上なく、今以上に幸福になったとして。それであんたに得でもあるの?」

「あるよ。あるけど、言っても理解できないだろう」


 鼻で笑うように口にすると男は腰を上げ、停めてあったバイクのサイドカーへと移った。どうやら彼の話したかったことは終わりのようだ。


 シンデレラも荷を畳み、運転席へと足を掛ける。その横顔に男は思い出したように言った。


「あと最後に。もしあんたが舞踏会で特別な体験をしたら——そのことを、噂として流してほしい。世間のみんなが知るくらいの、有名な噂になるようにさ」


 言葉が終わるとともにバイクは走り出す。王都までの道を、雪の中。日は沈み月が浮かんでも、鐘が零時を告げるまでには。


 謎の男はそれ以上は何も語らなかった。


 目的地に着くやいなや、彼は会釈だけを残して街に消えた。

 シンデレラは小さくなる背を見送りながら思う。善い人間かどうかはともかくも、やはり変わった男だったな、と。

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