世界で一番残酷な夢(1)
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
しばらく前から、少女はそれしか考えられなくなっていた。
幸せな日々。人々の笑顔。そういうものが確かにあって、わたしはその中心にいたはずなのに、どうして。
「どうしてなの……」
声に出しても聞く者はいない。いや、たとえ誰かが傍にいたとしても、走り続けて息の上がった微かな呟きは、単なる呻きとしか伝わらなかったかもしれない。
「ぅあっ」
もつれた脚が木の根につまずくのはこれで何度目だろう。膝からも爪先からも血が滲み、彼女の白い肌を汚している。
けれども、もはや痛みは感じなかった。それよりも寒さの方が今の彼女には耐えがたい脅威だった。
あの家は、あのお城の部屋は、とても暖かかった。周りの人々もいつも優しかった。
それなのに、どうして今はこんなにも冷たい風がわたしを責め立てるのを誰も止めてくれないのだろう。
わたしはどうしてあの頃のように、独りきりで森の中を彷徨わなければならないのだろう。
考えれば考えるほど、少女は惨めな気持ちになった。
あの穏やかな日々がずっと続くのなら、他には何もいらないと思っていた。自分の行いはその為のものだったはずなのに、まさかそのせいですべてが崩れてゆくなんて。
あぁ、なんて冷たい。
足元を覆う真っ白な雪も、最後に見たあの義母の目も。
「わたしは、どうして……」
どうして、あんなことを。
考えても考えても、出てくるのは後悔と疑問ばかり。現状を良くするようなアイデアは浮かばない。
少女の頭は寒さと空腹、そして不安でまともに動いていないのだ。
「戻りたいよ……」
暖かい部屋に、あの幸せの中に。また優しかった義母に逢いたい。わたしの隣で子守唄を歌って、頭を撫でてくれたあの美しい人の傍に戻りたい。
悲しくても、もう涙も流れない。あれだけ溢れていたというのに、きっと吹雪の中で凍りついてしまったに違いない。
どうせなら、このまま感情まで凍ってくれたならどんなにか楽だろうに。
少女の心と身体がいよいよ限界を迎えるだろうという時、視界の端にぼんやりとした光が見えた。それは近づくほどに、大きくはっきりとしたものになっていった。
助かった。
わたしはまた、暖かい場所に戻れるんだ。
朦朧とした意識の中、少女は光をたたえる小さな家の扉を叩く。
「ごめん……ください……」
言葉が届いたかどうかを確認する間もなく、彼女は眠りに落ちていった。何本かの小さな手が倒れ込んだ身体を支え、部屋に招き入れてくれたと気付くのは、夢から覚めた後になることだろう。
少女は、幸せな夢を見ていた。
◎
白を基調とした南向きの部屋に設えられた、可愛らしいベッド。そこが少女の大好きな場所だった。
窓から差し込む日の光はもう随分と高い所から降り注いでいる。部屋を照らす眩しさに少女は薄目を開け、隣にある一回り大きな寝台に顔を向けた。柔らかな天蓋の奥には、横たわる女性の姿がある。
どうやら、まだ義母は起きていないらしい。
それなら、わたしもまだ眠っていよう。どうせ独りでやることもないし。
少女はそう決め再び眠ろうとしたが、すぐに思い直して閉じかけた瞼を開いた。
聞き慣れた足音が二人分、寝室の扉近くから聞こえたからだ。
「おはようございます、麗しきお妃様にお姫様! お日様が昇ってしばらく経ちますし、そろそろお目覚めになってはいかがでしょう? 今日という素晴らしき一日が、今この瞬間にもどんどんと残り少なくなっていっているのですよ? しかし、まだこれからでも遅くはありません! あなた方の大切でかけがえのないこの良き日を、是非とも楽しもうではありませんか!」
扉を開けるのが早いか、口を開くのが早いか。執事の衣装に身を包んだ若い男が、陽気な大声を部屋中に響かせた。
「ほらほらお妃様、お目覚めを。お食事はいかが致しましょう? もう朝食と言うよりも昼食と言った方が相応しい頃合いですが、何なりとお申し付けくださいませ」
陽気な執事は軽やかな足取りで部屋に入ってくると、遠慮もなく天蓋をめくり上げてにこにこと笑みを浮かべている。そんな男のやや大仰な挨拶に、眠っていた妃はようやく身体を起こした。
「……おはよう、ポリッシュ。ディムはどこかしら?」
「ディムならば扉の外に控えておりますが」
「呼んで」
「仰せのままに」
ポリッシュと呼ばれた男は恭しく一礼すると、相好を崩さずに部屋の外へと向かおうと振り返る。
しかし彼が声をかける寸前で、扉の向こうより眼鏡を掛けた男が顔を出した。ポリッシュと同じく執事服を身に着けている。
「あら。おはよう、ディム。今日も素敵ね」
「おはようございます」
ディムはポリッシュとは対照的に、愛想笑いの一つすらなく淡々と返事をした。
必要以上の言葉は話さず、そもそも誰かが声をかけなければ一日中全く口を開かないかもしれない。妃が命令を下すまでは自ら動くことはない。
彼はそういう男だった。
国で最も偉い者の前でこの態度なのだから無礼を咎められてもおかしくはないのだが、妃は気にしていないようだった。むしろ、何かとディムを特別に扱っている節があるのは周知の事実だといっていい。
ディム自身やポリッシュ、義娘の少女もそれに気付いている。そもそも妃がその感情を隠していないのだから当然だろう。
妃と呼ばれてはいるが、現在彼女の隣には夫と呼ぶべき相手はいない。周りの人間も、彼女が恋をすることを止めはしなかった。
強いていうなら、ディムに一切その気がないのが一番厄介な問題だった。
「せっかく暖かくて気持ちのいい朝なのだから、笑顔の一つでも見せてくれたらいいのに。本当におまえという人は」
「お言葉ですがお妃様、もうとっくに昼ですよ。それから私の笑顔が見たいのであれば、私に声などかけずに私の隣をご覧ください。同じ顔の笑った男がおりますので」
二人の執事にとって同様なのはその衣装だけではない。ディムとポリッシュは髪型や顔立ち、身長や体格なども全く同じだった。
彼らの差異は眼鏡の有無と、浮かべた表情くらいのものだ。ただ、この表情の違いによって、眼鏡で区別する必要などないほどに人々の受ける印象は異なったものとなっている。
「もういいわ。わたくしはそこまで暇ではないの。おまえのその頑固さにこだわるのはまたの機会にするわ」
妃はつまらなそうな様子で言った。この男の性格がここにきて急に変わるわけがないのは承知しているが、それでも期待をしてしまう。
ディムの方はといえば、妃の不機嫌さにおそらくは気付きながらも取り繕う気はないようで、面倒くさそうに眉を寄せると隣に立つ男を見やった。
こういう時に場を取り持つのは、いつだってポリッシュの役割なのだ。
「そうですねお妃様、時間は永遠にみえて有限にございます。本日のご予定を満足のゆくようにこなすには時間を無駄にするわけにはまいりません。お食事など召し上がって、是非ともお仕事に取り掛かる活力を得るのがよろしいのではないかと」
「そうね。今日の朝食は何なの?」
「はい、お妃様。元々は肉料理と食後にタルトを予定しておりましたが、今からのお食事ですとご夕食に響くでしょうし、また何よりお妃様はあっさりとしたものをお求めかと思いますので、予定を変えて果物でも準備させましょう」
「任せるわ」
「かしこまりました。それでは失礼ながら、厨房へと指示を届けに参ります。本日はお着替えよりもお食事を先で、一式はこのまま寝室にお持ちすればよろしいでしょうか」
「ええ」
「かしこまりました。支度ののち、可能な限り迅速に戻ります。しばしお待ちくださいませ!」
執事らしくきっちりとお辞儀をし、ポリッシュはすぐさま部屋を出て行った。
ディムとは違い、このポリッシュという男はやたらと気が利く。たとえ妃が何も言わなくとも言いたいことを察して行動できるため、彼はディムと共に、妃とその義娘の身の回りの世話を任されているのだ。
ポリッシュが外へ出たのを見送ってから妃はベッドから降りた。寝室に備え付けのバスルームでシャワーを浴びるつもりだろう。
白く柔らかな履物に同じくらい白く華奢な足を収めると、傍らの小さなベッドに瞳を向けた。
「白雪、おはよう」
妃は布団の中でまだ丸まっている義娘に微笑みかける。
彼女と生活を共にしてしばらく経つが、恥ずかしがり屋なのか少女はおとなしく無口だ。それでも彼女の表情からは、義母に対する愛情や信頼が見て取れた。
妃は満足そうに義娘の頭を撫でる。
実の娘ではないが、妃は少女を大切にしていた。幼い時分の自身と重ね合わせているのだろう。彼女もまた実母に捨てられ、先代の女王に拾われたのだ。
その義母も今やおらず、彼女にとって家族と呼べる存在は義娘だけだった。
執事に義娘の様子を見るように、と命じて妃は部屋の隅のガラス戸の奥へと消えた。
少女はその後を追うことはなく、ただ布団に包まれてぼんやりとしていた。
扉の奥で水の弾ける音がする。
音が響き始めてから間もなく、ディムは妃のベッドを整え終えた。ポリッシュと比べると能動的ではないが、仕事は同様に早く正確だ。
食事が摂れるように机や椅子の準備も行うと彼は暇を持て余したのか、その後はじっと幼い少女を見つめていた。
特に意味があるわけではない。主人に命じられたから従っているだけであり、単に他に何かやるべきことを見つける気もないだけだろう。
少女は一瞬だけ彼と目を合わせたが、すぐに視線を逸らすと目を伏せた。見つめられるのが恥ずかしいだとか、そういった思春期の感情や感性によるものではない。
少女はディムの瞳が好きになれないのだ。
心の底まで見透かすような鋭い視線。
ポリッシュと同じ瞳でありながら、眼鏡の奥の双眸は冷たく、まるで雪空の下に放り出されたように少女は身震いした。
どうして義母はこんな男性に執着するのだろう。
悪い人ではないけれど、と思いつつも少女はディムに少しばかり恐怖を抱いていた。
少女の緊張が解かれたのは、止まった水音にディムが視線を外した時だった。扉の奥から聞こえるのは水の跳ねる音ではなく、布がこすれ合う音に変わっている。
程なくして、開いた戸から白いガウンに身を包んだ妃の姿が見えた。肌と同じく白く透き通るような艶めく髪はやや湿っているようではあったが、タオルを巻くほどではないようだ。
妃が用意された椅子に腰を下ろすと、計ったようなタイミングでポリッシュが部屋へと戻ってきた。
「お待たせ致しました」
手押しのワゴンには数枚の食器とナイフ、そして真っ赤に輝く果物が大皿いっぱいに盛られて載っている。
妃は目を輝かせるようにうっとりとして、宝石のような果実を一つ手に取った。
「まあ、とても素敵な林檎だこと」
「お喜びいただけましたら幸いです」
「このまま、皮ごと食べてもいいかしら」
「ええ。この林檎は私がお妃様の為に磨き上げて参りましたから、そのままでもお召し上がりになれますよ。あぁでも、喉に詰まらせてしまわぬよう先に切り分けましょう」
「そうね、お願い」
「お任せください」
手際良く程よい大きさに切り分けられた赤い塊が白磁の器に並べられていくのを、妃は小さな子供のように上機嫌で眺める。林檎は彼女の最も好きな果物なのだ。
「ふふ、本当に綺麗だわ。こんなに美しい林檎は久しぶりね」
「ここまで上等な品物はなかなか手に入りませんからね。以前、今より二代ほど前の女王様の治世の頃には、国のはずれの素晴らしい農場からの献上がありましたが、先代の女王様が幼い頃にそこが火事で焼けまして。それからはなかなか宮廷料理人の目に適うものに巡り合わないのでございます」
事もなげに、数十年も前の話をポリッシュは語った。
妃は特に疑問を持つことなくその言葉に頷き、少しばかり残念そうに銀のフォークを手に取ると、皿の上の好物にその切先を埋める。
赤色が口に消えると、彼女の唇には笑みが戻っていた。
「ふふ、毎日のデザートが林檎だったらいいのに」
その言葉に、今度はポリッシュの方が残念そうな顔で頭を下げた。
「あぁ美しきお妃様、ご期待に添えず申し訳ございません。常にお探ししてはおりますが、どうにも以前の林檎と並ぶ品を作ることのできる農場がこの国にはないのです」
「だったら、新しく造るのはどう? たとえばそうね、庭園の端に薔薇園があるでしょう。あれを林檎園に変えるのはどうかしら」
妃は窓の外を差した。示す先、城の庭には先代の女王が愛した薔薇園の門が見える。
「よろしいのですか? 前の女王様のお気に入りでしたのに」
「構わないわ。白雪が怪我をした場所だもの」
薔薇園の手入れは今も続けられてはいるが、現在は閉園していた。以前、薔薇を見せようと妃が幼い義娘を連れて訪れた際、暴れた少女は薔薇の棘で脚を傷つけてしまったのだ。
まだ少女が妃と暮らすようになって間もない頃の話ではあるが、それ以来薔薇園の門には閂が掛けられ庭師以外は立ち入らないようにと決められている。
「取り壊してもいいのでないかしら。いずれどうにかしないといけない、とは前々から思っていたのだから」
「かしこまりました、お妃様。それでは手配を進めます」
ポリッシュが頷くのを確認しつつ、妃はもう一人の執事にも視線を投げる。
「ディムもいいわよね?」
「なぜ私に許可を求めるのですか。お妃様が勝手にお決めになればいいでしょう。いつもそうしていらっしゃるように」
「おまえが嫌がるなら止めるけれど?」
「私にはどうでもいいものですから、お好きにどうぞ。先代の女王陛下は……もう、私の主人ではありませんので」
それきりディムは顔を伏せ、妃と目を合わせようとしなかった。その態度に妃はあからさまに苛立ちを漂わせながら、目の前の果物に怒りをぶつけるようにフォークを立てていく。
こういったやり取りはよくあること、しばらくすれば妃の機嫌も直るだろう。
少女は義母の顔色を伺いつつ、自身も食器に手を掛けた。早く食べてしまわなければこの後の義母の予定に影響してしまう。多少の無理をしてでも少女は義母の傍にいたかった。
そのようないつもの生活。変わらぬ日々。幸せな——思い出だった。
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