刺繍を、眺めて
(馬車の中で刺繍を刺したいなんて……初めてだわ。そんな子)
ただの引率の振りをして乗り込む、試験官としての役割。
今までの年は既に騎士位に受かった者達ばかりで、どんなに『何でこんな馬鹿が?』と思っても顔に出すことすらできなかった。
でも、今年からは違う。
今はまだ試験中、なのだ。
彼女達の中でもそのことが、解っている者といない者がいる。
多分、このエイシェルス・ヒメリアは『解っている』方。
(なのに……あえて刺繍など、どうして?)
王都で推薦者達の研修の様子から見ていた彼女は、従者家系という推薦者達がどれほど自分勝手で根拠のない自信を持っているかを知っていた。
『推薦』があるのだから、ある程度できれば受かるはず……とでも思っていたのだろうか。
実際、事前の研修は試験ではなく、どのようなことが本試験で試されるかの予行演習みたいなものだ。
研修を受けて自らの甘さや至らなさを解ってもらえれば……と、教官達は願っていたがそんなことは無理だった。
たった数日間で、二十余年の間に身に染みついたものを見直せる者など居なかったのだ。
本試験は『筆記』が、そして『身分階位に相応しい振る舞い』が重視されるようになった。
そういう意味では……無難にやり過ごすことを身につけている者達は、通りやすい。
だが、おそらくそういう者達は今回から行われる『試験研修』では落とされるだろう。
本試験最後の『待合室』でおこった『騒動』では、そういう我関せずの者達は悉く減点されていた。
そして今年は全ての採点結果や減点事由などが、推薦した家門へ送られている。
これも、去年の『皇后殿下の教育改革』で決められたこと。
座学や実技だけでなく、今まで『採点されなかった』部分も査定されるようになって、どこがどう駄目なのかを知らしめられるようになったのだ。
(そういえば、彼女の使った部屋は掃除までされていて……まぁ、銅証としては、ちょっとやり過ぎと思えるほどに整えてあったわね。だけど、部屋の中で掃除に使ったと思われる魔法の残滓を視るに、非常に調整されていて素晴らしい魔法だったわ)
態とあまり整えていない部屋にしてあり、どう反応するかも人間性をみるにはよい試験だった。
いきなり怒りだした者や部屋を変えろと捲し立てた者もいたし、全く気にせずに更に散らかして帰った者もいた。
ヒメリアがこの馬車の中も試験だと解っているのであれば、余計なことをしないものではないのだろうか……と思っていたのだが。
(刺繍は従者家系でも貴系でもとても多くの方が嗜まれているけれど、騎士位試験の評価にはならない。しかも馬車の中でなんて、自らの行いで体調を崩したとしたら減点になるとは考えないのかしら?)
試験官は頭の中に浮かぶ疑問を口にすることはなかったが、ヒメリアの手元からも目を離すことができずにいた。
いくら魔導馬車で揺れが少ないとはいえ、揺れないわけではない。
乗り慣れていない者であれば、普通に乗っていたって揺れで気分が悪くなることだってあるのだ。
しかし彼女は、信じられないことに笑顔のまま刺繍を続けている。
下を向いて細かい作業をしながらなぜこの揺れに耐えられるのだろうと、どうしても視線を送ってしまう。
馬車は道のでこぼこを捕らえて揺れ、馬の足並みが変わる度に揺れる。
だが、誰もが何もすることなどない馬車の中。
外を見ているか、目を瞑ってでもいなければどうしてもヒメリアの手元に目が行く。
微妙に視線を下げ続けているその姿勢に……何人かは身体に不快感を感じているようだ。
この中で【回復魔法】を持っている者は、刺繍を刺し続けるヒメリア唯ひとり。
もしかしたら、彼女は自分に微弱な【回復魔法】を掛けつつ、刺繍をしているのでは思った試験官は『身体鑑定』でヒメリアを観察した。
(やっぱり……! 凄いわ、いくら自身にであれ、こんなにも微弱な魔法に調整して【回復魔法】を掛け続けられるなんて!)
昼食のため、やっと馬車が止まった時にはヒメリア以外の全員が若干の吐き気に襲われていた。
そのせいか昼食が食べられない者が多く、何の問題もなく全てを平らげるヒメリアを見て……更にこみ上げてくる酸っぱいものを無理矢理飲み込んだ。
そして誰もが願ったのだ。
『どうかもう、彼女が刺繍を始めませんように!』と。
その願いは叶うことはなく……皆が退屈な窓の外を眺めるだけとなった。
だが……先ほどまで見ていた刺繍の見事さに、完成品を見たくなる者も多かったのだろう。
たまに覗き込んでは……後悔している姿が見て取れる。
その日の宿に着き、夕食時になってもその馬車の者達に食欲が戻ることはなかった。
ヒメリアだけを除いて。
(す、素晴らしいわ……流石、銅証……彼女の体力と魔法は……『加点』だわ……うっぷ……)
そしてその夜、全員が『明日は刺繍を許可されませんように!』と星に願い、絶対に許可は出すまいと誓った試験官と心をひとつにしたのであった。
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