ウァラクの英傑達

 アーメルサスとガウリエスタの争いは、ガウリエスタ南方から北上してきた魔獣の群れを押し戻す戦いへと変わった。

 魔獣の進入を防ぐため、アーメルサス教国は完全に国境を封鎖。

 ガウリエスタへ攻め入っていた味方でさえ戻ることができなくなり、魔獣と戦うしかなくなったのである。

 自国民を見捨てたアーメルサスは……今後、大きく傾いていくだろう。


 だが、その決死の攻防も橋から皇国側へ逃げようとする者達によって、『人』の敗戦は濃厚であった。

 橋を渡ったとて皇国には入れないのだが、渡ろうとする者とそれを背中から攻撃して阻止しようとする者の全てが……魔獣に蹂躙されていった。


 国境門の少し先、橋のガウリエスタ側のたもとまでは、転がっていた死体や魔虫の苗床となりそうなものを皇国側から焼くことはできた。

 しかし、あちら側には渡れない。

 遺棄地が広がる『他国』で、皇国の貴族が魔法を使うなど……あり得ない。

 そして始末されない死体が腐り、魔虫を育てる。

 魔獣がそれを喰らい、喰らいきれなかった魔虫が孵化して飛び立つ。


 ここからが、皇国の闘いであった。


「昨夜は、なんとか持ちこたえましたな……」

「ああ、だが今日は風が南西から吹いている……夕刻から魔虫が風に乗ってくる可能性がある」


 ウァラク公ハウルエクセム・ヴァンドルはこれから訪れる夕闇の時刻に、焦る心を懸命に抑えていた。

 魔虫も魔獣も、活発になるのは夜である。

 朔月さくつきに入ってもまだ、風は南から上がってくる日がある。

 あとひと月あれば風は完全に北からとなり、ガウリエスタ北部の魔虫共はウァラクには届かなかったであろう。


「セラフィエムス卿への打診は?」

「もう届いている頃だろうが、間に合うかどうか……」


 同じ空を見上げるウァラク次官のサラレア・オルガストは、迅雷の英傑を待ち侘びていた。

 先月、夜月よのつきの末にシュリィイーレに使いを出したが、目当ての人物が領地に戻っていたためすぐにこの窮状を伝えることができずにいた。

 そしてやっと、最も東のセラフィラントへ使いが着いたと思われるのが、二日前。

 越領方陣を使っても、今日、ここに来られるかどうか……

 しかし、彼等の祈りは神々に届いた。


「ウァラク公! セラフィエムス卿がいらっしゃいました!」

「間に合ったか!」


 着替える間も惜しんでくれたのであろう、衛兵隊の制服のままの彼はウァラク公と次官の前に現れた。

『迅雷の英傑』の血を引き、まさにその英傑の再来と言われているセラフィエムス・ビィクティアムが到着したのだ。


「遅くなって申し訳ない。領地に戻っていて、報せを受けたのが遅れた」

「いや、いいや! よく、来てくださった!」

 その手を取り、ヴァンドルは心からの感謝を伝える。

 ビィクティアムはその手を握り返し、力強く答える。


「当然です……私は、この国の『衛兵』ですから」


 なんと、頼もしい言葉であろうか。

 その場の誰もが安堵を覚え、期待を膨らませた。


「昨夜の状況をお聞かせいただけるか?」

 ビィクティアムの厳しい表情に気持ちを引き締め直したヴァンドルの息子、ハウルエクセム卿ラシードが現状を説明する。

 その全てを黙って受け止めていたビィクティアムが、小さく息を吐き呟いた。

「……なるほど。盛焰でギリギリとは……」

 ビィクティアムが思っていたより、状況は悪いのだろう。

 ウァラクの面々の声も重い。


「幸い、昨夜は風が殆どなく魔虫が塊となって現れた。そのためになんとか焼ききることができたのだが」

「風に乗った魔虫は、広範囲に飛び交う……か」

「左様」


 炎が森を焼いてしまわないように加減していたのでは、魔虫を焼ききることは不可能だ。

 しかし、剣や弓などただ兵を損なうだけで意味はない。

 窓を見やり、沈んで行く天光がビィクティアムの瞳に映る。

 黄昏の大禍時が近付いている。


「国境門の上に立つことはできますか?」

「できますが……セラフィエムス卿……? 何をなさるのだ」

「雷は周りを巻き込む。なるべく皆様は建物の中へ。そして、外へは……誰も出ないでいただけると、心置きなく『迅雷』を放てる」


 堅固な国境門は、王都にある四階建ての皇宮よりも高く聳えている。

 その上に立つと大峡谷に掛かる橋の先までもが見渡せる。

 更に橋の向こうに蠢く、忌むべき者達の全ても。

 その場所から魔法を放ち、空から全てに迅雷を打ち込むのだ。

 英傑のいかづちは、魔を祓い、焼き尽くすはず……


「ああ……ひとつだけ」

「なにか?」

「『橋』は惜しいですか?」

「……いいや」


 この場にいる誰も、まだ本物の『迅雷』をその目にしたことはない。

 どれほどの魔法なのか、どのような魔法なのか……

 大きな期待を持ちながらも、それが本当に魔虫や魔獣にどこまで通用するのかも解らない。

 彼等の知る【雷光魔法】とは、あまりに脆弱な魔法であったから。

 ただ広範囲に使えるというのみが、雷光の利点とさえ考える者も少なくない。


(橋を……壊せるほどだというのか……?)

 ウァラク側の誰もが、ビィクティアムの言葉を信じ切れずにいるのも無理はなかった。


 国境門にある部屋のひとつから、建物の中へと言われたウァラクの面々は西の空と不吉な空気の漂う大地を見つめる。

 もう、橋を渡ってくるものは魔獣だけ。

 ならばそんなものは必要ない。

 しかし、サラレア家の持つ【盛焰魔法】でさえ、あの頑強な橋を焼き落とすことはできなかった。


 ヴァンドルはその迅雷で忌まわしい全てを断ち切ってくれ、と心の底から祈っていた。



 国境門の上、見張り台が真横にあるだけでその高さを越える建造物はない。

 南側から生暖かい、嫌な臭いが漂ってきた。


 来る。


 ビィクティアムはその手に、ただの短い棒のように見える『宝具』を携えている。

 かちり、と音がして光が灯る……いや、まるで剣身のように伸びる。

 そしてその右手から凄まじい量の魔力が、その宝具へと注がれ『剣身』はまるで光の龍の如くうねり天へと駆け上がった。

 その稲妻の剣を、魔虫の群れ目掛けて横薙ぎに振るう。


 鮮やかな蒼い光の中、黄金の雷光が大気を走り抜ける。

 風に乗って迫っていた忌む者達はその光に曝された途端に、ぱらぱらと砂粒が崩れるように『分解』され……消えた。

 音もなく、ただ光が駆け巡り魔虫を、そして魔獣を『破壊』していく。


 その様子を国境門三階部分にあたる部屋から見つめていたウァラクの誰もが、圧倒的な魔法に魅入られていた。


「い、今のは……迅雷……か?」

「【迅雷魔法】だけではないのでは……? あのように、魔虫が霧散するなど……」

「初めて、見ました。あれは、あれこそが【神斎術】ではないでしょうか?」

 夜空の星の輝きを消し去る程の雷光は、深い山間の国境に輝く地上の星であった。



 ビィクティアムは【迅雷魔法】でもまったく壊れるどころか、魔物達を完璧に屠る宝具を見つめて微笑む。


(【迅雷魔法】が予想以上に強かったが……その魔法をこの程度の魔力で放てるとは……しかも魔獣にまで効くなんてな。相変わらず、とんでもない物を作るものだ)


 その輝きは魔虫が皇国内に入り込むことを決して許さず、風が吹き上がってくる度に幾度となくその全てを消していった。

(そして、この宝具の最も有効な使い方を編み出したあの魔剣士にも、感謝せねばならんな)


 幾度も放たれるそのいかづちの後には、魔獣の姿も魔虫の群れも断末魔さえあげずに消え去る。

 信じられないことに木々や大地にはまったく傷すら付けず、ただ、忌む者のみが排除されるのだ。


 呆然とした様子だった見つめ続ける者達の声に、畏敬と喜びが混じる。

「こんな強大な魔法を、ああも立て続けに使えるのか……!」

「まさに、神術だ……」


 ふと、ビィクティアムは南の空を見やる。

 風はまだ南西から。

 だが、あの嫌な臭いも、肌がひりひりと痛むような不快感もなくなった。


「……? 空気が、変わった……?」


 そして、ビィクティアムの耳……いや、頭の中に、小さな声が届いた。


〈うん、もう大丈夫だ〉


 聞き覚えがあるような、それでいて、まったく知らないような……

 ビィクティアムは宝具を構えていた右手を降ろし、左手を西へと翳す。


 もう既に人の使うものでなくなった『遺棄地』に繋がる橋に目掛け、宝具に頼らないビィクティアム自身の力のみで【迅雷魔法】を放った。


 黄金の閃光に蒼く幾筋もの光が渦を巻き、一直線に穢れた大地の根元へと突き刺さる。

 光のあとに、今度は爆音が響いた。

 そして、数千年ふたつの大地と三つの国とを繋げていた『橋』は、大峡谷の深淵へと崩れ落ちていった。


「ああっ! 橋が……!」

「大峡谷のあちら側が崩れたのか?」

「迅雷が……穢れを断ち切ったのだ……!」


 轟音が収まり、もうもうと立ち上っていた土煙が落ち着いた大峡谷と接する皇国の大地に、青く一筋の『線』が見えた。

 ビィクティアムはそれを見つめ、自身の持つ聖魔法【境界魔法】の結界に似ている……と感じていた。

 大峡谷のあちら側に、まだ魔虫が見える。

 だが、それらはまるでこちらにまったく気づいてもいないかのように、別の方向へと飛び去っていく。


 暫く見つめていたが、魔獣も、そして魔虫の一匹すら姿が見えなくなった。

『橋』を落としたからか、あの青い『線』が描かれたからか……

(どちらか……など、決まりきったことだな)

 ビィクティアムは踵を返し、国境門から降りていった。

 そう、もう、大丈夫……なのだ。



 階下ではウァラク公と次官、そしてその息子達がビィクティアムを迎える。

 誰もが英傑に、心からの感謝を述べた。

 そして、あれほどの大魔法を連続して使用したにも拘わらず、たいした疲れを見せていないビィクティアムに衝撃を隠せなかった。

 ビィクティアムは特に誇るでもなく、彼等にただ必要なことを告げる。


「まだ夜は明けていないが……おそらくもう、魔虫の襲撃はないでしょう」

「え?」


 ハウルエクセム・ラシードはビィクティアムが決して誇張したり、大袈裟なことを口にしないと知っている。

 そして、確信しているからこそ、彼は微笑んでいるのだと言うことを。


「まさか、神託……ですか?」


 神々の声は『神斎術』を持つ者のみが聞くことができる。

 神の眷属であり、神斎術師であるセラフィエムス・ビィクティアムだけが、この皇国で唯一人その資格を得ている。


「先ほど、風に乗って『もう大丈夫』と。その後、青い境界が走り、皇国側の大気も大地も清浄になりました」


 ヴァンドルはその言葉に全身が震え、喜びが溢れてくるのを感じた。

「青……『星青せいせい境域きょういき』か!」

「そうかもしれません。その境界のあちら側の魔虫や魔獣が、こちらにはまったく関心を示さなくなりましたから」


 かつて、神々に背いたものの生まれし場所として皇国の中心から最も外れたこの地は、魔獣や魔虫に襲われ加護さえもない場所であると多くの臣民が離れていった。

 だが、ハウルエクセムが、そしてサラレアが懸命に守り続け、今日まで他国からの魔獣達の脅威を退け続けてきたのだ。

 過ちを繰り返さないために己を律し、他者を憎むことも恨むことも忘れるほど必死に。

 必ずこの想いが、神々に届くと信じて。


 そして魔法師の育成に努め、神官や聖神司祭を何人も輩出するようになり、数千年ぶりにヴァンドルの長女が皇太子の婚約者にも選ばれた。

 だが、どれほど娘が周りから冷たい目で見られたか知っている。

 ただ一度、遙か過去の祖先のひとりが犯した過ちのためだけに、この地の英傑と扶翼は何代も苦しみ続けていた。

 その日々が、今、終わったのだ。


 今日、神の眷属の手でこのウァラクに加護が甦った。

『星青の境域』と呼ばれる、皇国を覆う加護の内側へと招き入れられたのだ。

 この地から、穢れは完全になくなった。


「おお……神々の加護が甦ったのだ! ウァラクは……やっと、禊ぎを終えた!」

「お慶び申し上げます、父上……っ!」


 領主も、次官も、子供らに清浄な地を継がせてやれるその喜びに溢れていた。

 そして迅雷の英傑はそんな彼等の邪魔にならぬよう、静かに赴任地であるシュリィイーレへと戻って行った。



 朔月さくつき八日、朝の日差しが祝福のように降り注ぎ、ウァラクは神々の加護の復活を宣した。



 その後、ガウリエスタは北西の一部の地域でのみ、なんとか生き延びていた人々が大陸を脱しオルフェルエル諸島へと渡っていった。

 ミューラは完全に国としての全てを失い、魔獣に追い詰められているディルムトリエンは国土の四割以上を失った。


 こうして皇国の西側は沈黙し、北西のアーメルサスは陸続きでの他国との繋がりの全てを失った。

 アーメルサスが立ち直るには、まだ少し時間が必要だろう……しかし、それは別の物語である。

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