10
食堂で揉めているのは、若い男性ふたり。
おひとりは職人さんでしょうか、工具の入った腰下げ鞄を身につけています。
もうひとりは……商人風ですけど、ちょっと違うみたいですね。
あまり関わりたくないし、離れて……となるべく彼等から遠い座席に着いた。
他のお客達は、どうして止めないのかしら?
宿の方も、料理人達も遠巻きにチラチラと見ているだけだわ。
もしかして、いつものこと……なの?
運ばれてきた食事をいただきましょうと、匙を持った瞬間……料理の皿に、ばしゃーーーっ! と何かが飛び込んできた。
……あの、腰下げ鞄だわ。
わ、わたくしのお夕食が、台無しじゃないの!
お腹が空いている時に、なんてことを!
服にかからなかったのは、幸運だけれど。
「いい加減になさいませっ!」
我慢できなくって叫んでしまった。
時々、感情が抑えられなくなってしまうのよ……特に、お腹が空いている時は!
周囲が手出ししないということは、絶対に何かあるのだろうけれど……そんなことより、わたくしのお夕食の被害の方が余程大変なことですっ!
「ここは食堂ですよっ! 喧嘩なら外へ行ってくださいませっ!」
わたくしの大声に、食堂中から視線が集まりますが知ったことではありません。
つかつかと取っ組み合うふたりに近付き、赤茄子まみれの腰下げ鞄を突き返す。
「おふたりとも、わたくしの食事を弁償してください」
「なんだと?」
睨んできたのは商人風の男。
職人っぽい人も……無言でわたくしから鞄をひったくっただけ。
なんて礼儀知らずなのかしら、ふたり共。
「喧嘩なんかしているから、わたくしの食事がダメになってしまったのですわ。もの凄く迷惑です!」
「そりゃあ、悪かったな。だが、こいつがこの飾り箱を盗んだのが原因だ。こいつに払わせろ」
「違うっ! 俺が作ったと言っているだろうが!」
大層美しい工芸品の箱を若い職人風の方が作ったというのが信じられず、盗人扱いするのは最低だと思いますけれど、同じことを繰り返すだけで、きちんと証明することをしない方もどうかと思います。
「ならば、この方が盗んだところをあなたがご覧になったの?」
「見ていなくとも、こんなものを作れるような職人ではない!」
「なんでそんなことが言える! 俺から取り上げて、自分のものにしたかっただけだろうが!」
「つまり、これはあなたの物ではなくて、しかもあなたはこの方が盗んだところも見ていないのに、決めつけているのですね?」
「貴族である私の言うことが正しいに決まっているだろうが!」
貴族?
こんな下品な貴族なんて、いるの?
ふっと、周りの空気が緊張しました。
……なるほど。この方を『貴族』だと思っているから、皆さんは何もせず黙っていたのですね。
「あなたが貴族であるというのならば、その証をお見せくださいな」
「な、なに?」
「貴族は
明らかに動揺しているわ。
絶対に貴族ではなくて、おそらく『かつて貴族と呼ばれた下位貴族』ね。
「おまえなどに見せる必要はない!」
「いいえ、わたくしは従者の家系ですから、あなたが貴族であると仰せならばそれを確認し、貴族に対して不敬を働いた者を捕らえるように衛兵に連絡する義務がございます」
そう、これは『従者家系の義務』。
貴族家門の誇りを護り、その身を護衛すること。
「申し遅れました。わたくし、エイシェルス・ヒメリアと申します。カタエレリエラ、ヴェーデリア家門の従者ですわ」
そう言って、身分証を提示する。
一瞬、たじろいだその男は……すぐに大笑いをしだした。
「馬鹿を言うな! 姓を持つ従者家系の者が、鉄証であろう筈がないだろうが!」
「わたくしは、まだ成人前ですからこの色なのですわ。でも、ちゃんと『姓』は出ております。ご覧になれますでしょう?」
もう一度わたくしの身分証を覗き込んだその男は目を剝き、あり得ない……と呟く。
こんな基本的なことを知らない大人の方が、あり得ませんわ!
「成人前であろうと家系魔法を顕現させていれば、わたくしは正当な従者家系の者として認められているということです。さあ、あなたもご身分を!」
わたくしがそう叫ぶと、傍観を決め込んでいた客達の中からふたりの男性が現れて自称貴族を羽交い締めにした上で……身分証を引っ張り出しました。
……鉄証……なによ、わたくしのことをとやかく言っておきながら、銅証ですらないなんて!
従者家系の者達は『血統』を厳粛に守っているレイエルス家門以外は、全て鉄証で普通の臣民達と同じ階位。
でも、家系魔法を得ているか、魔法師であれば成人した時に銅証になる。
そして、その上で聖魔法を獲得できたら銀証になるが、そんな人は滅多にいない。
聖魔法を顕現する方はとても少ないし、その魔法を得られるのはだいたい皇家や十八家門の血を継いでいらっしゃる方々ばかりと聞いたわ。
「どなたか、衛兵を呼んできてくださいませんか? この男は身分詐称の罪と、不敬罪ですわ」
こうなると傍観者達は
……ホント、いい加減なものですわね。
不当だと思っていても自分達に火の粉がかからず、確実に勝てると解らなければ絶対に手出しも口出しもしない……
でも、これが『身を守る』ことの基本なのでしょう。
力がないと判っている、身分が低いと判っている者達は、こうしないと自分を守ることができませんものね。
かつてのわたくしも……そうでした。
自分が何者でもないから、誰にも傷つけられたくないから。
正義なんてものより、自分の方がずっと大切だから。
今でも、そういう気持ちはどこかにあるし、それは必ずしも悪いことではないと思っています。
でも、これからは……他人がどうあれ、わたくしは、せめて目の前の『正義』から、目を逸らさずにいられるようになりたい。
強く、なりたい。
いけない。
お腹が空いていたのを思い出しました。
……あの男に弁償させることができませんでしたわ。
わたくしが席について、もう一度食事を頼もうとした時にさっと、目の前に食事が出て来ました。
吃驚して見上げるとにっこり笑った宿の女将さんが、ごめんね、と鶏肉と赤茄子の煮込み料理の横にパンをふたつ置いてくれました。
「ありがとうね。あたし達じゃ『貴族だ』って言っている人にゃ、何も言えないから……本当に助かったよ」
「いえ、お気持ちはお察しいたしますわ」
「悪かったね、あんたに押しつけちまって。せめて沢山食べておくれ!」
「まぁ、嬉しいわ! もの凄くお腹が空いていたのです」
やっぱり、皆さん解っているのね。
貴族……過去に下位貴族であったというだけでも『銅証』の可能性があるから、鉄証の無位臣民達は口を噤むしかないのだわ。
身分詐称というのは、恫喝なのね。
だから、罪が重いのだわ。
こんなことが罷り通るのは、皆さんがちゃんと法律をご存じないから……だわ。
「女将さん、貴族だとか士族だと言った人達に身分証を見せて欲しいというのは、決して罪ではないわ。そのように称した者は『証明する義務』があるの。だから、誰でも身分証の色を確認してよろしいのよ」
「え……? そうなのかい?」
「わたくし、オルツの教会で新しい典範も読んだの。本当よ」
ざわり、と食堂の方々から声が漏れる。
それを請求しても不敬ではないと、誰も知らなかったみたい。
「もし見せるのを渋ったら……『確認できなければ、貴族の方に対しての対応ができ兼ねますので、お引き取りください』って言ってしまえばいいのよ。不敬にあたることをしてしまうかもしれないから帰ってくださいって」
「それ自体が……不敬って言われちまわないかい?」
「そしたら、衛兵を呼べばいいわ。証明できなければ……不敬なのはその人、でしょう?」
第一、銅証までは『臣民』なのよ。
銀証になって初めて士族、従家、貴系傍流……などとなる。
それでも、銀証の人だって『貴族』と名のってはいけないのだから、金証以外だったら不敬罪になってしまうのよ。
女将さんは……複雑そうな笑顔になった。
「強いねぇ、あんたは……でも、気をおつけ。『正しい』ってだけじゃ……通らないこともあるからね」
三つ目のパンを置いて、女将さんは戻っていった。
正しいことが通らない……?
それとも、正しい以外に、何かが必要ということ?
……難しいわ。
わたくしがまだ『子供』だからかしら?
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