偽物
国境門から馬車で走り、三刻ほど経った頃に『離宮』に辿り着いた。
郊外の緑豊かな庭と、整った歩道が彼女の気持ちを昂ぶらせた。
彼女は、あの神官達は『姫』が間違った身分証を渡されていたのだと解ってくれた、と思っていたのだ。
彼女が、身分証がどういうものか正しく知らなかったのも無理はない。
ディルムトリエンでは、女性は五歳で身分証を作ってからただの一度も本人の手には渡らない。
きっと身分証の名前が『ヒメリア』じゃなかったに違いない、それで疑われたのだ……と、愚かな女は考えていた。
だから、いまだに自分は『姫』として扱われ、離宮へと招かれたと。
(ここ……離宮って言っていたけど、とても立派な造りだわ……なんて綺麗なの)
屋敷は決して大きくはなかったが、ディルムトリエンの後宮以上に豪華に見える調度品が並んでいる。
この国が今、ディルムトリエンと一触即発にあり、革命に失敗してから数年経っているが、民達は貴族と神官を未だに憎んでいるということなど彼女は何も知らない。
知っていたらこの屋敷の異質さに気付いたであろうが、ただその見た目の華やかさに目を輝かせていた。
「ここで暫くお過ごしください。侍女をおつけいたします」
「あ、ありがとう」
この『民を虐げて財を蓄えた貴族の館』は、その土地の民達の憎悪の象徴であり『処分』したい者を置いておくには格好の場所であった。
この館に来る者は『平民の敵』なのだということが解っていたら、彼女はこんなにも朗らかに微笑むことなどできなかっただろう。
(わたしに侍女が付くんだわ……! そうよね、わたし『姫』だもの! ふふふっ、いい気分!)
その侍女が、貴族や王族に向かって刃を向ける存在だとは思ってもいない。
侍女であった頃の自分が、ヒメリアに対して行ってきた『虐待』以上のことをされるなど。
「姫は?」
「随分と安心なさっているようで……」
「再登録用の身分証鑑定板を用意しなさい。本物かどうかだけは、すぐに調べておかねば」
「はい」
夕刻、警備などまったくいない庭に、ふたつの影があった。
薄暗がりの中で、ひとりの男の紫色の瞳だけが輝いて見える。
「この屋敷に姫がいるんだな?」
もうひとりの背の低い男に、確認するように問いかける。
「はい、東側の二階、藍の部屋です」
「必ず連れ出して『王子』の元へ届けるぞ」
「はい!」
難なく屋敷の中に滑り込んだふたりは、二階にいるという姫の部屋の近くに潜伏した。
紫の瞳の男はあまりに簡単に忍び込めた事に、不信感を抱く。
「でもどうしてこんな所に……? 王宮へ入れるはずではなかったのか?」
「いいじゃないですか。王宮より、郊外の屋敷の方が楽です」
「ああ……そうだが」
姫の部屋では『婚約の儀礼』と偽った、再登録板による確認が行われていた。
「では、こちらに手をあててお名前と年齢を」
「ヒメリア……二十四歳」
身分証がなくとも、この再登録鑑定を行えば『本当かどうか』が判明する。
正しい名前を告げぬ者には、何も表示されないのだ。
そして、表示されても役所や教会で正式な再登録さえしなければ、今までの身分証から文字が消えることもない。
この再登録板は非常に高価であり、この国ではそう易々と手に入れられる素材ではなかった。
しかも、一度しか使えないため入国審査で気軽に使用できるものではない。
この素材が手に入る皇国との繋がりは、今はもう殆どないのだから。
その表示を見て、白服はこくりと一度頷いて、銀服に表示板を預けた。
「ありがとうございました。では、どうぞごゆっくりお休みください」
(よかった……でも、なんだったのかしら、あれ)
彼女は何をされたのか全く解っていない。
ただ、用意された夜着の触り心地に、うっとりとするばかりであった。
別室へと入った銀服は予想通りというように、鑑定板を白服へと返した。
それを見た白服が呟く。
「なんの反応も出ておりませんね。偽物、ですか」
銀服は既に、まったく感情の読めない表情へ戻っていた。
「陛下にご報告を。それと、国境に兵を集めておきなさい。すぐにでも戦えるように」
「……まさか、もう攻め込んでくる、と?」
「たとえば、姫と国境で謁見させろという使者が来るとします。我々が彼女と会わせたと同時に、偽物だと騒ぎ立てて本物を隠しているか殺したと言いがかりを付けて攻め込む……なんてことも考えられます。どちらにしても仕掛けてくるのであれば、生死などどうでもいい」
「何だろうと、攻め入る口実になればいい、ということなのですね。では、急ぎ報告に参ります」
そう言うと、銀服の命令を実行する為に白服は館を後にした。
その後ろ姿を二階の西側窓から見つめる銀服の姿。
偽姫が死んだとしても、ディルムトリエンにあるだろう姫の本当の身分証から文字は消えない。
ならば、初めから姫を差し出す気がなく、ただの戦を起こすための口実。
先ほどの『姫』の身分証は本物だったのかもしれない。
本物に……敢えて偽物かのように装うために『通称』を表示させたのか?
国境で殺させて、そのまま攻め込むつもりだったのか?
国家間の戦は、感情だけでは始められない。
大義名分がなければ、と、王族なら考えるだろう。
戦が終わった後に、自分達の正当性を主張するためだ。
仕掛ける方は、いつでも勝つ気でいるのだ。
ならば、なぜあの程度の侍従と護衛だったのだ?
近くに伏兵が既に配置されているのか?
銀服はあまりに常軌を逸してしているディルムトリエンの行動が、全く理解できなかった。
……当然である。
今ここに『偽姫』がいること自体が、ただの『予定外』なのだから。
しかし、そんなことには全く思い至らない銀服は、思案を続ける。
十年前の『婚約』が悔やまれてならない。
なぜ、あの時に第二王子がディルムトリエンの姫を望んだのか、今でも解らないままだ。
婚約が避けられなかったのであれば、すぐにでも姫をこちらに引き入れておくべきだった……と、銀服は唇を噛む。
あの頃の自分に、もっと権力があったならば……と。
「今……南側にまで兵を割かねばならぬとは……やっと北側に『必要な数』を集められたというのに」
銀服はディルムトリエンとの開戦が近いことを、嫌でも意識せざるを得なかった。
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