04

 美味しいお食事ですっかり幸せな気分になって船室に戻り、壁にもたれ掛かるように腰掛ける。

 全部、初めてのことばかりだわ。

 やっと、あの国から抜け出せた実感が、身体中に湧き上がっている。


 ならば……次に考えなくちゃいけないのは、今後のことだわ。

 オルツに着いたらどうするか……ちゃんと考えておかなくっちゃ!

 どうしたいのか、何が大切なのかが解っていれば、今回みたいに絶好の機会を得た時に上手く動けるはずだわ。


 まずは……お金、よね。


 後宮から出てくる時に、何かあった時のためにと銀製のものや貴石の付いたものなんかを少しは持ってきた。

 それを売ったら、少しは皇国のお金が手に入るはず。

 でも、元々わたくしのいた宮は質素で、たいしたものはなかったからきっと安いわよね。


 母上の所からいただいたものは、少しは高めに売れるかしら?

 たまに母上のいらっしゃる宮に行った時に、母上にお願いして……というか、一方的に『いただいていいですか?』と聞いて、母上が何も言わずに無視なさるのを『了承』と解釈して【収納魔法】に入れていた……ということなのだけど。


 本当に、全く母上のお声を聴いたこともなかったわ。

 あ、一度だけ、あったわね。

 十四歳の時、あの婚約が決まった後だったわ。

 婚約なんてものを言い渡されて落ち込んでいたわたくしが部屋に戻る途中、初めて向けられたその人からの視線。


 そしてすれ違う時に、耳元に届いた声。

『おまえさえ身籠もっていなければ、あの時に逃げ出せたのに』と。

 その時、この人が母親なのだ、と判ったのよね。


 なんとなく、そうかなと思っていただけで、ちゃんと目が合ったこともなかった人だったから確信がなかったけどあの言葉で、やはり、と思ったのよ。

 その方は後宮にいた他の女達とは、全く違う雰囲気だった。

 襟の高い服を纏っていて……羨ましかったわ。

 わたくしの大嫌いな透ける服を絶対に着ないその女性を……少しだけ、好きだった。


 そして、生まれる前から憎まれていたのだと知って、全部を諦めた。

 なのに母上の宮に行っていたのは、どこかで……期待していたからかも。

 その内、わたくしを見てくださるのでは、声をかけてくださるのでは……なんて。

 いろいろなものを欲しがって見せたら……せめて、怒鳴ったり怒ったり……してくださるのでは……

 そんなことはただの一度もなく、わたくしは無視され続けただけだったけど。


 いけないわ。

 思い出したって、なんの役にも立たないことなんだから。

 生きると決めたのだから、前を向かなくちゃ!


 それにしても……皇国でわたくしにできる仕事なんて……あるのかしら?

 読み書きはできるけれど皇国では文字が違うと言うし、そもそも女を雇ってもらえるの?

 女が働ける唯一の場所は……娼館だと聞いたことがあるわ。

 身体を、売る場所。

 女が唯一持っているものは、それだけだから。


 だけど、わたくしみたいな行き遅れの年嵩のいった女なんて、きっと身体も売れないわよね。

 ……売りたくはないから、好都合だわ。

 でもそういう場所での下働きとかでなら、雇ってもらえるんじゃないかしら?

 幸い身体は丈夫だし、食べ物も少なくって平気だし!


 あ、でも、確か『冒険者』というのもあったはずだわ。

『身分証さえあれば誰でもなれる』って聞いたことがあるから、きっと女でも平気よ!

 そうよ!

 今のわたくしには、身分証があるんですもの!


 でも、冒険者……って、何をするお仕事なのかしら?

 冒険というからには、どなたもしていないようなことをする……?

 だけど、そんなことをしてどなたがお金をくださるの?

 良く……解らないけど、きっとオルツで聞けば教えてもらえるわよね。

 それでできそうなら、冒険者になりましょう!


 凄いわ、ふたつも思いついてしまったわ。

 どっちかには、なれるわよね。

 ……駄目だったら……どうしましょう……いいえっ、きっと平気よ!

 きっとどちらかのお仕事には、就けるはずだわ!


 あ。

 その前に……国籍、どうにかしないと……

 多分、戻らなかったわたくしは国外追放扱いになるか、後宮に幽閉……っていう体裁だわ。

 どちらにしても、王族の籍からは抜かれてしまう。


 ううん、最悪死んだことにされてしまうかも。

 そうしたら、この身分証も役に立たないわ。

 帰化……させてもらえるのかしら?


 わたくしを連れて帰れなかった一行が王都で報告するまで、最低でもひと月はかかる。

 早馬で報告に行ったとしても、二十日。

 その間に、なんとかしなくっちゃ。

 仕事より何より、これが一番問題だったんだわ。

 オルツに着いたら……まずは、役所に行かなくっちゃ。



 それからの三日間、わたくしは『最初で最後の贅沢』を楽しんだ。

 船の食事はもの凄く美味しくて、毎食沢山食べられたし、寝床も悪くはなかった。

 甲板だけじゃなく船の中を見て歩くのも楽しくて、あちこちに散歩に行ったりしていた。


 船員達は誰も彼も優しかったし、女性船員も何人か働いていて吃驚したけれど……羨ましかった。

 わたくしも皇国に生まれていたら……と。

 母上はどうして、こんなに素晴らしい国を出てしまったのだろう。


 いつもいつも母上は神々に祈りながら、誰かに許しを請うているみたいだった。

 もしかしたら、何か罪を犯したのかしら……

 それで、国を出なくてはいけなくなってしまったのかしら。


 甲板から眺めていた波の向こう、船の行く手に陸地が見えてきた。

 もうすぐこの旅も終わり。

 どうか、イスグロリエストでは入国拒否をされませんように……!



 船が接岸して橋が渡され、乗客達が次々に降りていく。

 ちょっとだけ……橋がぐらつくのが怖くて一呼吸おいて、さあ、と足を出した時にどんっ、と背中と肩に何かが当たった。


「うわっ、すまねぇっ!」

 かけられた声に、少し驚き、前に倒れ込んだ身体を支えようとしたけど足がおぼつかない。


 あ、あ、あーっ!

 伸ばした手は手すりを掴むこともできず、もつれた足が橋から離れ船と陸地の境に落下。


 ばしゃーーんっ


 ……海に落ちてしまった!

 えっ?

 み、身分証がっ!


 落下の衝撃か、鎖が切れて身分証が水底へと落ちていくのが見えた。

 大変だわっ!

 あれがないと、入国できない!

 でも、無理。

 わたくし……泳げ、ない……



「おいっ! 大丈夫か?」

 目を開けた時に飛び込んできたのはひげ面で腕の太い男と、私を心配そうに囲む人達。

 そうか、海に落ちて……助けていただいたのね。


「悪かった! ちょっとよそ見してて、あんたにぶつかっちまったんだよ。どっか痛い所とか、ねぇか? 大丈夫か?」

「は、はい……怪我は……していないみたいです」

「そっかぁー、よかったぜー。いや、本当にすまなかったなぁ」


 男の人にここまで謝られたのは、生まれて初めてです。

「大丈夫、ですけど……あ……」

「どうした?」

「身分証……っ! 海に、落ちた時に鎖が切れて……さっ、探さないとっ……!」


 立ち上がり、再び海に入ろうとするわたくしはその場の方々に落ち着いて、と、止められた。

「ここの海は海岸へりでもかなり深いんだ。落としちまったんなら……探すことは難しいよ」

「そ、そんな……では、わたくし、どうしたら……」


 涙が、ポロポロと溢れてきました。

 やっとこの手に戻ったわたくし自身の、大切なわたくし自身の証明がまたしてもなくなってしまうなんて。

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