第4話 嫌悪

 静かに、彼女は涙を落していた。随分長い時間が過ぎたような気がしていたが、時計を見ると実際は五分程しか経っていなかった。コップの中の氷が溶けて、水滴がテーブルを濡らしていた。


 時々少し離れた所から『吉本よしもとさん』が様子を窺っているのがわかった。心配しているのか、単なる興味か、それはわからない。が、きっと心配してくれているんだろう、と伊藤いとうは思った。


「私が何で神経質がひどくなったか、話したことあったっけ?」


 涙が止まった彼女は、伊藤を見ながら小さな声で言った。伊藤は首を振り、


「聞いたことはない。だけど、今日はやめときなよ。やめとこう」


 これ以上彼女に泣かれては、どうしていいのか本当にわからない。


「小学校の時だった」


 伊藤の言葉を聞かなかったらしい彼女が、話し始めた。


「いや。だからさ、三上みかみさん…」


 阻止しようとしたが、それも聞かなかったように、


「母がね、実年齢よりも若く見える人なんだけどさ、だからって…」


 昔話を始めてしまった。



 小学五年生の三上みかみ沙羅さらは、学校の帰り道、何気なく喫茶店の中を見た。そこに知っている顔があり、驚いた。


(一緒にいる人、誰?)


 心の中で呟いた。


 母と一緒にいる人は二十代くらいの若い男の人だった。沙羅は、母たちが自分に気が付いていないのをいいことに、二人をじろじろと見ていた。


 母は、家で見るよりもずっと若くてきれいに見えた。その男の人と、何か話しては楽しそうに笑い合っている。


 二人は、それぞれ違うケーキと飲み物を注文したようで、フォークに刺したケーキを相手の口に入れ合っていた。


 母には当然、沙羅の父親という夫婦関係にある人が存在している。それなのに、この人たちは何をしているんだろう。


 沙羅は、見たくないと思いつつ、二人から目が離せなくなっていた。随分と経ってから、ようやく母が沙羅に見られていることに気が付いた。


 彼女は、美しい微笑みを浮べながら沙羅に手招きする。二人の所に来い、ということだろうか。沙羅は首を振って、その場を離れた。


 家に帰り着くと、急に気分が悪くなってきて、部屋で横になった。目を閉じても、さっき見た二人が浮かんでしまう。


 妹が習い事を終えて帰宅したが、「お帰り」と声を掛ける気力もなかった。妹は沙羅の様子がおかしいことにすぐに気が付くと心配そうな顔になり、


「お姉ちゃん、どうしたの? 顔色、悪いよ」

「何でもないよ」


 そうは言ったものの、気分の悪いのは消えてくれない。


 その日を境に、沙羅は人と物を分け合って食べる事や人に触れられることに、嫌悪を覚えるようになったのだった。

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