第3話 理由
ケーキを食べ終わると沙羅は、
「仕事は楽しい?」
真顔で訊いてきた。伊藤は笑顔で頷くと、
「ああ。楽しいよ。美容院で働いてると、いろんなお客さんが来るけど、で、怒られることもあるけど、それも勉強だから。
オレがその人だったら、やっぱり怒るかなって思う時もある。どう考えても納得できない時もある。だけど、そういうことがあったとしても、次はどう対応しようかな、とか考える。次は絶対上手くやってやる、って向上心になる。
だから、やっぱり勉強なんだよね。まだまだ勉強中。だから、楽しいんだ」
「そっか。それは良かった」
そう言いながらも、沙羅の表情は暗い。伊藤から視線を外してコップの氷をストローでつついた後、アイスティーを何口か飲んだ。そしてコップを見つめたまま話し始めた。
「私は、先月会社を辞めたんだ。この前電話で話した時に言おうかと思ったけど、言えなかった。辞めたかったわけじゃない。さっきも言ったよね。だけど、辞めざるを得なかった。会社でね…」
「いいよ。話さなくていい」
沙羅の言葉を遮った。必死な顔をしている彼女を、これ以上傷つけたくないと思った。が、彼女は首を振った。
「何でだかわからないけど、いとーちゃんには聞いてもらいたい。だから、楽しくない話だけど、聞いてください」
「わかったよ」
そう言うしかなかった。彼女は小さく笑うと、
「馬鹿みたいな話なんだ。私はある人を好きになった。その人は、すごく優しくて。勘違いしちゃったんだ。その人には奥さんがいるのに。
あ。でも、その人は別に悪くなくって。だって、深い関係になったわけでもないし。何もないんだよ。だけど、周りは何か誤解してて。その人の立場がまずくなっちゃってね。何もしてないのに。本当だよ。
私がこのまま会社に居座ったらどうなってしまうのか、考えたら怖くなった。ただ、心の中で好きだっただけなのに、とんでもないことになっちゃったよ。
だから、辞めることにした。辞めさせてください、って上司に言ったけどさ、別に引き止められなかったよ。で、そうか、私は別にいなくてもいいんだ、って納得した。私の代わりなんていくらでもいるからね。そんなことがあった。
いとーちゃんとケーキをシェアしたのは、そういう…何て言うのかな。今までの自分を変えようとしたのかもしれない。
正直な所、怖いとか気持ち悪いとかあったけど、別に、だからって命が無くなるわけでもなかった。たいしたことじゃなかったね。
神経質がひどくて、みんなに気を遣ってもらって、そうやって今まで生きてきたけど、このままは、やっぱり嫌で、変わりたいって思って…」
「頑張ったね。すごく偉かった」
伊藤は沙羅に手を伸ばした。そして、嫌がられるかもしれないと思いながら、彼女の頭を撫でた。彼女は手を振り払うでもなく伊藤をじっと見つめた後、涙を流した。
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