第4話 ガセの噂の作り方

 あまりに突然言われたので、裕星はドキッとして肉を切っていたナイフを落としそうになった。



「え? 美羽、もしかして本当は断るつもりだった?」


 目を見開いて不安そうに美羽の顔を覗きこんだ。



「あ……、うん。実はちょっと怖くなって。あ、裕くんのことが恐いわけじゃないの。ただ、私、裕くんと会うまでは男の人とお付き合いしたこともなかったから……」もじもじしながら、裕星を上目遣いでみつめた。





「そっか、じゃお互い初めて交際する者同士だな。

 俺の場合は、ここまで好きになって一緒に居たいと思える人が今までいなかったんだ。


 さっきの女みたいなのもそうだけど、自分から声を掛けてくる積極的な女は何人かいたよ。


 でも、その中の誰に対しても俺自身が好きになって付き合いたいと思う女性はいなかった。だから誰とも付き合わなかった。それだけだよ。


 でも、それで良かったんだな、と今なら思える。美羽と逢うための運命だったんだよ。


 あ、思い出した! 交際って言えるかどうか分からないけど、1ヶ月くらい付き合ったことがあるな。小学生の頃の活発な初恋の子! でも、すぐにフラレたけどな」アハハハとクシャクシャになって笑った。




「で、さっきのことだけど、俺と…その…今夜はずっと一緒に居てくれるってことでいいんだよな?」首すじが既に赤くなりながら訊いた。




「──うん。今日はちょっと心配しちゃったけど、でも、裕くんのことがもっと好きになったわ! 私も裕くんとずっと一緒にいたいから」


 美羽も頬が真っ赤に染まりながら、キラキラの潤んだ瞳を裕星に向けた。








 レストランの窓の外で、漆黒の海に白い波がさざめいてまるでフリルのレースの縁どりのように夜景が美しかった。


 部屋のキーカードを持つと、裕星はチェックインカウンターでサインを済ませ、美羽と部屋へ続くエレベーターホールへと向かった。


 ──その時だった。




「ゆうせ〜い! わぁ、やっぱりここにいたのね~っ!」


 突然、この5ッ星の高級ホテルには似つかわしくない下品な大声が響いた。

 見ると、さっき浜辺にいた女だった。




 裕星は眉を潜めながら振り返り、女を睨んだ。


 女は裕星に駆け寄ると、「やだあ裕星、恐い顔! 捜したんだよ~! ここ泊まってんのね? だからさぁ、この女誰なのよ! なんか冴えない感じの子ね。

 ね、ね、このあと飲みに行くんだけど、降りて来ない?」とズケズケとものを言う。




「ハッキリいうけど、俺はあなたたちを知らないし、馴れ馴れしくされても迷惑だ。あなたと飲みに行く理由もない!」と丁寧な口調で、周りに気を遣い低い声で話した。




「やだ、元カノだって言ってんじゃん!

 裕星がまだデビューする前からの付き合いでしょ? ほら、高校のときの」女は構わずぐいぐい絡んでくる。




「高校?」


 裕星は考えたがさっぱり思い当たらない。まさかさっき言ったばかりの初恋の相手では決してなかったからだ。


 しかし、ふと頭に過ったことがあった。

 大分昔の薄れた記憶、そう確かにその高校のころだ。隣のクラスの女子で既にモデルやタレントとして仕事を始めていた派手な子がいて、一時、裕星に付き合ってくださいと皆の前で告白してきたような気がする。


 その子のことは全く素性すら知らないし、もちろん好きでもなかったので、付き合えないと断ったことで納得してもらえたと思っていたが、どうやら相手はそうは思ってなかったようだ。


 その後も時々高価なプレゼントくれようとしたが、裕星はそれらを一切受け取らなかった。


 相手は当時曲がりなりにも芸能人であり、タレントとして芸能界では顔が知られていた。


 変な噂を立てられたらそっちの方が困るだろうに、それでも恋に貪欲だった彼女は、裕星の素っ気ない態度に業を煮やし、裕星をガンジ絡めにして振り向かせようと、自から週刊誌に噂を売ったこともあったと聞く。


 しかし、裕星の同級生や親友が、当時の裕星の潔白を証明してくれて、なんとか今では事態は収拾したかのように思った。


 芸名が『マリア里美』なので分からなかったが、本名は『佐藤茂子さとうしげこ』というごく普通の名前で芸名と全く関連性もなかった。






 裕星がどうでもいい過去を思い出して呆れたように一言発した。


「もうこんなこと止めたらどうだ?」


 悔しさで顔を歪ませながら、里美は裕星のことを睨んでいた。


 美羽は里美の表情の恐ろしさに震えていたが、裕星の腕を後ろからそっと掴んで、「裕くんのことを信じてるから」と裕星に声をかけた。



 裕星はチラリと美羽をみると、その女に、「さっきからお断りしています。用がなければお帰りください。」と毅然とした態度で言った。





 ほどなくして、ホテルの支配人が、このやり取りを異様に思った従業員の報告で裕星達のところにやって来た。


「──失礼します。こちらは私どものホテルにご宿泊されていらっしゃるお客樣ですか?」と里美に尋ねると、



「いえ、あの…」口ごもって答えた。


「申し訳ありませんが、他のお客樣から苦情がございまして、当ホテルではご宿泊とご飲食以外のお客樣のお立ち入りをご遠慮いただいております。


 大変失礼ではございますが、何卒ご了承頂けますか?」と、やんわり追い出してくれようとした。




「なんなのよ、もう! いーわよ、出ていくわよ! でも、裕星、私とのこと週刊誌に売られたら困るでしょ?


 せっかくトップアーティストとして売れてんのにさ、今あたしと噂が立ったらお仕舞いね! 私をバカにしたらどうなるか見てなさいよ!」


 捨てぜりふを残して、酔っているのかハイヒールの足取りが危なかしくフラつきながら出ていったのだった。







 支配人は裕星のところに来るなり、「大変申し訳ありませんでした。わたくしどもの警備の不行き届きで、不愉快な思いをさせてしまいました。当ホテルの厳重なセキュリティであのようなお客様を通してしまったことに責任を感じております」と深々と頭を下げた。


「お詫びと言ってはなんですが、今夜お泊りのお部屋を最上階のスイートルームに変更させて頂いても宜しいでしょうか?」

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