第90話 未来を憂う
心の奥に、小さな光が見えた。
何か……いや、『誰か』と繋がっているような感覚だった。見えない管で繋がり、暖かい光が黒い恐怖で埋め尽くす心に流れ込んでくるような感覚がした。
その正体こそ分からなかったが、
(そうだ。誰かが、私を必要としてくれている……今も、帰りを待ってる……)
恐怖に染まった心に、考える余裕が生まれた。
黒音は思い出した。
いつも黒音を守ってくれた人が。誰にも言っていない秘密を黒音に打ち明け、信じてくれた人が。自分自身でさえ何もできないと思っていた自分を頼ってくれた人が、待っているんだ。
「……ここで、逃げたら駄目」
涙を拭い、前を向いた。膨大な数の未来をなぞるように歩いて来るゾンビを、正面から見据える。
雪丘中学校に留まる事より自分達について来るという選択をした黒音の勇気を、蒼は褒めてくれた。けれど、本当は逆なのだ。
絶望しかないような世界で、自分達の道を笑って進む
そんな彼らを見て、殻に籠ってばかりの自分を変えたいと思い、黒音は安全な巣から飛び出した。必死にゾンビから守ってくれた蒼が一緒なら、外の世界も怖くないと思えたから。
自分を変えるには、自分で動くしかない。未来を決めるには、自分の行動で道筋を示すしかないのだ。
「私は、逃げない。絶対に、蒼さんを助けるんだ……!」
昔から、何かに怯えてばかりの少女だった。訳あって父親はおらず、母親もほとんど面倒を見ない。話しかけられたと思ったら大声で怒鳴られたり、かと思えばまた口をきいてくれなくなったり。物が飛んで来たり、暴力を振るわれる事もあった。何に対しても怖がるようになったのは、きっとそんな生活が続いたからだろう。
自分のどんな行動で相手がどう怒るか。何をしたら傷付かずに済むのか。そんな事ばかり考え、しまいには何も心配する必要のない物にまで警戒していた。
そんな杞憂してばかりの黒音だからこそ、あらゆる可能性を見通す力を得たのだろう。身に降りかかる脅威をこの目で捉え、自らの手で選び、自らの足で進むために。
望む未来を見るために、あらゆる憂いを道標とする。
それが、黒音の異能力なのだ。
「逃げてばかりじゃ、なにも変わらない……」
後ろへ下がりそうになる足を気合いで止め、前へと進ませる。ゆっくりと迫りくる三体の『エンダー』と距離を縮める。
「未来を決めるためには……動かなくちゃ!」
黒音は『エンダー』に向かって一直線に駆け出した。同時に異能力で、三体がそれぞれどんな動きになるかを予測する。
三十通り以上の未来によって塞がれていた視界も、黒音が一歩踏み出すごとに鮮明になっていく。黒音の意思が異能力の制御を取り戻したから、だけではない。『エンダー』と黒音の距離が近付くにつれ、未来が分岐する『可能性』が絞られていくのだ。
たった三メートルの距離でも、相手が右に行くか左に行くか、どちらかにしてもその後はどう動くのか。可能性は多岐に渡る。
だが一メートルまで詰めてしまえば、右か左にズレた時点で黒音と接触する事になる。現在からスタートして黒音との接触をゴールにした場合、距離が近ければ近いほど分岐点は少なくなる。
つまり、無数の未来も、最終的には自分の行動次第でひとつになるのだ。
そんな簡単なロジックに、黒音はようやく気が付いた。彼女の前へ進む勇気が、未来を選ぶチカラを掴み取った。
(この先、ずっと陰に隠れたままでもいい。もう二度と、ゾンビと戦えなくなってもいい……でも、今だけは……)
こちらへ突き出された手を、走りながら身をかがめて躱す。目の前の黒音を掴もうと三体ともが前へ進んでいたので、脇下はがら空きだった。
(今だけは走る! 蒼さんを助けるために……!)
空いたスペースへ、スライディングのような形で体を滑らせる。壁のように並んでいた三体の『エンダー』も、勇気を出して突撃すれば簡単に突破できた。
すぐに立ち上がった黒音は振り向かずに駆け出す。
先ほど噛まれたスターゲートの男性が、黒音の行く手を阻むようにゆらゆらと立ち上がる。この短時間で、既にゾンビウイルスが回り切っていたようだ。
「ウォアア……」
まだ全身が腐っていない分、動きはしっかりしていた。身に付ける衣服がボロボロと崩れ出しているのを見るに、変異種に噛まれるとその特性を持った同じ変異種になるらしい。
「見えた……!」
黒音へ襲い掛かるゾンビの数秒間の軌道が三種類。それぞれが現在から分岐し、黒音を襲うという同じ未来へ向かうための別の道筋。
『エンダー』に限っては噛まれるだけじゃなく触れただけでも怪我をしてしまうので、一挙手一投足を予測しなければならない。
足取り、腕の動き、体の向き。その全てを予見した上で未来を視界に重ねると、どの未来にも重ならない『穴』が見つかる。三つのうちどれかの未来が実現する事は確定しているので、裏を返せば、その『穴』にゾンビの体は来ないという事。
どれが本物の未来か分からなくとも、全て本物であると仮定した上でそのどれもが通らない道は、絶対の安全地帯となるのだ。
『エンダー』の腕が横なぎに振るわれる。黒音は一度立ち止まって躱し、身を捻って『エンダー』の横を通り抜けた。相手がそれに気付いた頃には、黒音は既に背後に回っている。
そのまま、一気に距離を離す。心の隅にくすぶる恐怖を吐き出すように、大きく呼吸をして走り出した。
「いけた……突破できた!」
自分には何も出来ないと思っていた。でも本当は、もっといろんな事が出来るかもしれない。たった一人でゾンビから逃げ切れた事は、彼女に決して少なくない自信を付けていた。
しかし、それも結局は、灯ったばかりの勇気。ものにするには時間が必要だった。
「……っ!?」
武器庫近くの十字廊下に差し掛かった所で、右側の曲がり角から突然ゾンビが姿を現した。黒音が傍を横切るまで身を潜めていたというより、たまたまタイミングが重なっただけのように思えるが、何にしろ悪い偶然だった。伸ばされたゾンビの手は黒音の細い右腕をがっしりと掴んだ。
突然の事で声も出せないまま、黒音はやみくもに腕を振り回してどうにか引き剝がした。掴まれた右腕がズキズキと痛む。
パーカーの袖も大きな穴が開いており、色白の素肌も火傷痕のように赤く腫れていた。不意打ちで飛び出したあのゾンビも変異種なのだろう。
「だ、大丈夫……また同じようにすれば……」
痛みで目尻に涙が浮かぶ。
ここで足を止める訳には行かない。そう分かっているのに、また震えが治まらなくなった。先ほどと比べて敵は一体のみ。異能力を使えば余裕で通り抜けられるはずなのに、右腕に受けた痛みのせいで恐怖が膨れ上がり、足がすくんでしまった。
(ここで動かないと、駄目なのに……!)
床に張り付いたように動かない足を無理矢理にでも動かそうと歯を食いしばる。
曲がり角から完全に姿を現した『エンダー』が、黒音と対面した。
「黒音ちゃん! 離れて!」
突如響いた声。それに重なるようにして、閃光が目の前を横切った。
左から現れた電撃のような光は、ゾンビを巻き込んで右側へと消える。閃光がかすめた壁は高熱で溶け、ゾンビもまた上半身が綺麗サッパリ消し飛んでいた。
動かなくなったゾンビを呆然と見下ろしていた黒音に、再度声がかけられる。
「大丈夫!?」
「
一瞬でゾンビを屠った人物は左の通路から黒音に掛け寄った。両手に大きなプラズマガンを抱えた双笑だった。
「
双笑は慌てて黒音の無事を確かめる。どういう訳か双笑の手のひらから発せられる光に触れていると、赤くなった右腕の傷もみるみる治っていった。
だが今は、なぜ双笑が治癒能力を使えるのかという疑問よりも、黒音は双笑が助けに来てくれた安心感で心がいっぱいだった。傷の痛みもゾンビへの恐怖も、すっかり消えてしまうくらいには。
「わああああああああん双笑さああああああん!!」
「な、泣くほど痛かったの!?」
黒音は大粒の涙を流して双笑に抱き着いた。出会ったばかりの時こそ距離を置かれていたものの、今やあの時の警戒心など見る影も無く、むしろ今の黒音にとっては蒼と同じくらい安心できる相手だった。
「だだ大丈夫だよ、怪我はもう治ったから! ゾンビもやっつけたよ! だから泣かないでー」
急に号泣しだしたものだから、双笑はとても動揺していた。頭を撫でて必死になだめつつ、小さな体を優しく抱きしめた。
「そう言えば黒音ちゃん、蒼さんは一緒じゃないみたいだけど、どうしたの?」
双笑が訊ねると、黒音は大事な事を思い出したように勢いよく顔を上げた。
「そうだ……急がないと!」
パーカーの袖で涙を拭い、黒音は双笑の手を引っ張った。急に引っ張られた双笑は慌てて走り出す。
「蒼さんは、食堂にいます! 私が、プラズマガンを取って来るまで、時間をかせぐために……!」
「なるほど……なら急がないとだね!」
ちょうど双笑は勇人の異能力を借りてプラズマガンを手にしている。ここで立ち止まった時間はあれど、武器庫まで行く時間は短縮できただろう。
「と、途中で、四体のゾンビがいます!」
「オッケー、任せて!」
食堂からここまで、黒音はひとりで頑張った。ここからは自分が黒音を守る番だ。
そう意気込んだ双笑は、プラズマガンを携えて黒音と共に食堂へ急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます